誰も知らない物語

 溜息が割れた鏡を曇らせ、ほんの一瞬ではあるが、己の姿を消すことが出来た。
 鏡をその身の内に嵌め込んだ金枠は錆び、青白い黴がところどころに生えており、鏡面の一部は剥がれ落ちているため、己の顔が欠けて見える。
 いや、そのように見えるだけで、実際にこの鏡は割れていないし、金枠に黴なんて生えていない。それどころか、その鏡は安易に値をつけることは出来ない程、金銀宝石によって豪奢に飾られているはずだ。
 だが魔女の呪いを受けた王には、その美しさを見ることは出来なくなってしまった。
 思い出せば思い出す程、思い出の中の鏡はその美しさを増し、現実の鏡はその醜さを増した。
 王はもう一度、息を吐いた。
 闇を抱えた洞窟のような空っぽの穴の奥から、深いため息が吐き出された。
 
 きらびやかなものは何も見えなかった。
 全て腐り、朽ち果て、枯れている。
 従者や兵士たちは、墓石の下から出てきたかのように身体が腐っていた。
 王が彼らの外見を怖れたように、従者たちもまた、王の変わり果てた姿に驚いていた。
 忠臣たちは、魔女の呪いを解く方法は無いかと必至で探し回ったが、呪いをかけた魔女は、時には老女であったり、時には妖精であったり、果ては小さな鶏であったりと、その姿は一つとして同じものはなく、その上、気まぐれで呪いの魔法を掛けてゆくこと、呪いの魔法は男性にだけ掛けられるということしか判らなかった。
 食事も二人には必要のない行為となってしまったが、王は王妃のために、食事を毎日作らせ、今までと同じように王妃と共にテーブルにつき、料理――王には蛆虫や小蝿がたかる鼠の死骸としか見えない代物だったが――を食べていた。鼻が無いので、臭いに悩まされないことが幸いだったが、歯も舌も失ってしまったゆえ、王は暗い穴の中に切り分けた食べ物を放り込むことしか出来なかった。
 王妃は、王のように見るもの全てが醜く見えるという呪いを掛けられなかったが、老いや死から解き放たれ、他の者たちとは異なる存在になってしまったことについて、王を責めることもせず、また、喜びもしなかった。
 しかし、美しいものを愛する王を慮ってか、少しでも身体の腐った己を王に見られないようにと、王妃は葬儀に着用する黒い喪服を常に着、更に顔は黒いヴェールで覆うようになってしまい、それを見た口さがない者たちは、「共に美貌の顔を無くすとは実に夫婦仲が好いことで」と陰で嘲笑っていた。

 王は草臥れた椅子から立ち上がった。
 足元を何か小さな生き物が素早く走り去って行った。
 この生き物が起こした風もまやかしに過ぎないと頭ではわかっていても、王は未だにその感触に薄気味悪さを感じてしまう。
 ベッドの上には小鳥の死骸が肉塊となって散らばり、白いシーツに赤黒い花模様を作っていた。
 ベッドに積もった埃を飛び立たせないよう、王はゆっくりと慎重に身体を横たえた。
 埃が髪の毛先に纏わりつくのを感じながら、瞼を下ろす。
 瞼など、とうの昔に失っているのだが、失われたはずの瞼を下ろすことを想像するだけで、何もかもが見えなくなる。
 初めてそのことに気付いた時、醜いものを見なくて済む方法を見つけたことを喜ぶよりも、無性に眠りを欲していた己に驚いた。食事同様、何日も睡眠をとらずとも疲れを感じることは無かったが、美麗な世界に迷い込んだ醜怪世界の住人として孤独に過ごす呪いに、自分でも判らぬ程、心が疲れ切っていたのだ。
 王は瞼を下ろす度に、眠りを望んだ。
 思い出の中の美しい世界で、美しい顔を日の元に晒す夢を見ることを望んだ。

 誰かに身体を揺さぶられ、王は目を覚ました。
 見上げれば、ベッドの傍らに王妃が立っている。
「外の様子がおかしいのです」
 おずおずと言う王妃の様子に、王はベッドから身を起こした。
「夜の筈なのに、妙に明るいのです」
 窓を見遣れば、なるほど、重い垂れ幕の隙間から、外からの明かりがそっとこちらを覗き込んでいる。
「火事を告げる鐘の音は聞こえなかったか?」
「いいえ、とても静かなのです」
 王は立ち上がり、垂れ幕の端をそっと捲ってみた。
「王妃」
 外からの明かりの正体を見た王は垂れ幕の向こう、バルコニーへと続く硝子戸を開けながら、後ろにいる王妃に声をかけた。
「こちらへおいで、雪が降っている」
 室内に入り込んだ空気の冷たさに、王妃は一瞬ためらったようだったが、意を決したように王の傍に近寄った。
 王妃はその光景に、息をすることも忘れてしまったようだった。
 時刻は深夜のはずだが、空は橙色に染まっており、眼下に広がる城下町の灯りの中を真っ白い雪が舞い落ちている。
「まるで夕焼け空のようですね」
 戸惑う王妃に、王は優しく言った。
「夜に雪が降ると、雪や雪雲が街の灯硝子の中で飼われている火の精に照らされ、昼のように空が明るく見えるのだよ。人家が少ない場所では、このように見えることはないがね」
「まあ、そうだったのですね」
 王妃は小さな声で答えた。
「私が生まれ育った国では、雪は滅多に降らないものですから」
 そう言った王妃の声は、寒さによるものか、僅かに震えていた。
 王が、王妃の身体をこれ以上冷やさないように硝子戸を閉めようとした時、
「何て美しいんでしょう」
と、王妃が呟いた。
「美しい? これが?」
 王妃の感嘆ぶりに、王は驚いた。
「このような光景、冬になればいくらでも」
 言葉を続けようとした王だったが、急に王妃に腕を掴まれたので、それ以上は続けられなかった。
「王様、昼間の青い空は見えますか? 厚い雨雲は? 日の入りや、太陽に追いかけられるように西の空に沈む青い月は?」
 急き立てるように問う王妃の姿を初めて見た王は、戸惑いつつも、
「全部見えるが?」
と、答えた。
「青い空も、厚い雨雲も、この雪が降る光景も、私は全て美しいと思います」
 王は、空を見上げた。
「見える・・・。以前と変わらず、空が見える。雪が見える」
 王妃の震えが腕に伝わって来た。
「天に対して美しいと言うなんて、おこがましいかもしれません。いえ、そもそも、天に美しいも醜いもありません。でも、雲一つない快晴であろうと、何日も続く嵐の晩であろうと、私は美しいと思うのです」
 王は空を見上げていた視線を、王妃に下ろした。
「空を美しいと思ったのは何年ぶりであろうか」
 王は誰に言うともなしに、そう呟いた。
「王妃、私は幸せだ。愛する人と共に同じものを見て、愛する人と共にその美しさを分かち合えるのだから」
 王が囁くと、王妃は王の顎の部分に口づけた。
 王は、ヴェールの布越しに触れた最愛の人にもっと触れようと、王妃の身体を抱き締めた。

あ と が き
 大人になってからディズニーアニメ映画「美女と野獣」を観た時、野獣が人間の姿に戻った終わり方に、
「どうして元の姿に戻してしまうんだ! 野獣の姿のままでも好いじゃないか!」
という我儘な気持ちが爆発した結果、この作品が生まれました。
 作者としては別作品「人外×処女」の殺伐とした関係とは対極にあるような、初めて出会った時から親密な関係である主人公カップルの物語が書けて楽しかったです。
 物語の展開は割と直ぐに決まったのですが、シリーズ・タイトル及びこの章タイトルがなかなか決まらず、一ヵ月くらいうんうん唸ってました。
 この国を舞台に、また別のカップルの物語を考えているので続編は気長にお待ち下さいませ・・・。

 蛇足ではありますが、雪国では夜間に雪が降ると作中のような光景を見ることが出来ます。
 ネオン溢れる繁華街よりも、オレンジ色の街灯がぽつらぽつら並ぶ住宅街の方がはっきり見えます。
 私はこの光景が、真夜中の雨音と同じくらい好きです。

2018年2月24日