愛する勇気
擦り減った靴底から地面の冷たさが滲み伝わってくる。
剝き出しになった手の指先は真正面から吹く寒風に晒され、握った持ち手のの棒はなかなか温まろうとしない。
それでいて脇や襟元は汗で濡れ、首巻きを緩めて冷風に涼みたかった。
しかし此処で立ち止まれば、みるみる身体が冷気に侵されていくに違いない。
間もなく降雪の時期がやってくるのだ。
車輪が地面に埋もれた小石の上に乗り上げ、荷車が左右に大きく揺れた。
後ろから女の息子が音を立てる。
女は息子に声をかけようとしたが、この後も荷車を引っ張り続ける労力のことを考えると、そんな気力はもう残されていなかった。
息子を、まだ息子と思えた頃、女と息子は冬ごもりの支度のために街を訪れた。
その年の最期の収穫で得られた作物は、二人が辛うじて冬を越せる程度の恵みしかもたらしてくれなかった。
それでも年末が迫った街へ行くことは、女にとっても息子にとっても細やかな楽しみであった。
周囲を飛び交う売り声につられて欲しいものを潤沢に買えなくとも、屋台が撒き散らす香しい焼き物の匂いに空腹の胃を刺激されようとも、目前の極寒の冬への怯えよりも、来年こそはあれを買おう、これを食べようと前向きな目標を持てるのだった。
人通りが多い広場から、群衆のざわめきをかいくぐるように奇妙な音が聞こえてきた。
女にとって生まれて初めて聞く音だった。
息子が女の手首を掴み、音の源へ行こうと誘う。
おそらく大道芸人が何かの芸事でこの奇怪な音を発しているのだろう。芸人に払えるようなチップは持ち合わせていないが、これだけの人出である。自分と同じようにチップを払わない者もいるだろう。
少しだけ見て立ち去ればよい。そう思案した女は息子と共に群がる人々の間を抜け、集団の中心に近付こうとする。
初めの内は息子も大人しく女の手をつないでいたが、奇怪な音と共に盛り上がる人々の興奮に気圧されたのか、大人との身長差に負けているために芸人の姿が見えないことに耐えられなくなったのか、女の手を振りほどき、見物人たちの塊へと突っ込んで行った。
女は慌てて息子の後を追った。
何度も人々に罵りの言葉をかけられるが、息子を理由にしてそれを無視する。
ようやく最前列に辿り着いた時、女はその塊の輪の中心に立つ芸人が持つ道具や姿勢を見て、呆気にとられた。
円の中心にいた芸人は木製の細長い奇妙な道具の縁を左肩と顎で挟んでおり、右手に持った細長い棒状の道具で擦り合わせる度に、あの独特な音が絶え間なく発せられていた。
時折芸人が奇妙な音に合わせて身体を揺すると人々は盛り上がり、手を叩いて喜んだ。
どこの土地から来たのか不明だが、円の最前列に長居していると真っ先にチップを要求されるだろう。
女は周りを見回し、息子を探した。
息子は女のすぐ傍に立っていたが、息子の表情からその心中を察した女はその無事を喜ぶよりも、これから起こりうる可能性を考え、知らず顔を顰めてしまった。
息子は、あの珍しい楽器の音色に心を奪われていた。
息子を、まだ家族と思えた頃、家の外は何もかもが雪に包まれていた。
大雪が降った時は家屋の屋根を守るために雪下ろし作業をしていたが、それ以外は女と息子はなるべく腹を空かせないよう、暖炉の前で一日の内の長い時間を過ごしていた。
真っ白い雪の煌めきに目を傷めないようカーテンを閉め、女は商人から依頼された古着の繕いを、息子は農作業の合間に通った教会で教わったうろ覚えの文字を指先で床に書いていた。
時折、息子は女に向かって自分が今書いた綴りは正しいか訊ねるが、まともに字を覚えてこなかった女にとって、書かれた文字を読むことは出来ず、鷹揚に頷くだけに留めた。
共に各々の作業に集中しているように見せかけていたが、女は息子の指先の動きが何度も、しばらくの間止まる様を見逃さなかった。こんな仕草は今まで見られなかった。あの楽器への憧れが息子の心の中から溢れ出しているのだろう。
女は手を止めることなく、頭の中であの楽器を買う算段を立てていた。
冬の間の手仕事で得られる金では圧倒的に足りない。秋の収穫量も量が多すぎれば買取値も下がるだろう。少しでも不足が出ないようにするためには夏場も繕い仕事を請け負わねばならない。
女は己の体力が保てられるか不安を感じると同時に、息子があの楽器を使って独り立ちできたならば、目前の苦労は報われるだろうと期待に胸を躍らせたが、年端も行かない息子と違って大人である女はそれを顔に出さず、手元も狂わさなかった。
息子を、まだ少年と思えた頃、春の嵐がようやく過ぎたので、出来上がった布地を街まで届けに行った帰りだった。
家の手前にある畑の傍に座る息子の他に、もう一つの影があった。
女が息子の名を呼ぶと、息子は振り向き、おもむろに立ち上がった。畑仕事を放っていることを叱られると思っているのか、罰の悪そうな顔だった。
息子の隣に座っていた影が立ち上がり、ゆっくりと身体を女の方に向けた。
息子によく似ている少年だった。顔立ちや髪、目の色、身長も変わらない。
しかし身なりは息子や近隣の子供と異なり、あまり見かけない拵えだった。
「御機嫌よう」
少年から挨拶されたが、女はそれに応えなかった。もしかすると旅芸人一座の子供なのかもしれない。
息子に目をやると、少年の名前らしき言葉を呟いたが、女の耳はそれを拾えなかった。
「畑仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい。この辺の土地に来るのは初めてだったので」
少年はあどけない声でそう言うと、そそくさと女の脇をすり抜けて行った。
女が立ち去る少年の背中から息子の顔に再び目をやると、
「あの子から話しかけてきたんだ」
その言い訳の言葉だけは強く聞こえた。
少年はその後も度々息子の前に姿を現した。
女と息子が畑仕事の合間に身体を休めている時も姿を見せた。
息子は少年が現れると嬉しそうに顔を上げ、すぐさま女を振り返り、少年と話をしてきても良いか、犬のように女の顔を伺った。
女は、内心は不満だったが、それを表には出さずに頷きだけで許すと、息子は寸暇を惜しむかの如く少年の元に駆けて行った。
息子と少年がどのようなことを話していたのか、多くは聞き取れなかったが、少年と言葉を交わす息子は女の前ではめったに見せない程楽し気で、身振りも滑稽なまでに大袈裟だった。
暑さと、仕事を増やしたことによる疲労が重なり、眠気に負けそうになっても、少年に対して女の警戒心が和らぐことは無かった。
息子が少年に話している。
楽しそうに。
嬉しそうに。
片腕を大きく動かしている。
その動きは、いつか見た楽器の持ち手を思い出させた。
女は、あの楽器が一体どこで手に入れられるのか知らなかった。
あの楽器の名前もよく知らないまま、女は日々、僅かな金を貯め続けた。
長く働けるよう食事を無理することはしなかったが、小麦粉を少し減らすなど、削れるところは削れるように心がけた。
息子は今までと味が少し変わった食事について何も言わず、食前と食後に祈りの言葉を捧げる習慣を繰り返した。
息子を、まだ人間だと思えた頃、遠方にある畑の手伝いから帰る頃には足元も朧なほど、日が暮れていた。
明日は久方ぶりに街へ行く日だ。
あれほど盛況だったのだから、あの楽器を演奏していた芸人は再び街にやってくるだろう。もしかしたら酒場で過ごすかもしれない。その時に息子に気取られぬよう、あの楽器の名前や入手方法を訊ければ良いだろう。
去年の今時期と比べれば蓄えは貯まっている方だが、今の貯えではあの楽器を買うには不十分かもしれない。
それでも一年財貨を貯めたという行いは女に自信を与えた。たとえ今は足りずとも、また一年貯めればよい。
家の明かりが見える。
いつかあの楽器を買えるだろう。
もしかしたら息子が弟子入りを志願するかもしれない。
女は戸を引き開けた。
二つの影があった。
影の一つが振り返る。
あの少年だ。
思わず女の顔が強張る。
息子によく似た少年は暖炉の明かりにその顔を照らし、立っていた。
椅子に座った息子は女に背を向けたままだ。
「おかえりなさい」
少年の馴れ馴れしい言い方に女は舌打ちしそうになった。
「君も挨拶しなよ」
少年が息子の両肩に手を置く。
「ああ、その身体にまだ慣れてないから動きづらいかもね」
少年が息子の座る椅子の背を掴むと、少年は椅子ごと動かし始めた。椅子の脚が床に擦れ、息子は女の方に身体を向けさせられた。
最初、何を見せられているのか女には理解できなかった。
息子そっくりの顔をつけた人形のようだ。
両腕はあの楽器で使われていた棒になっており、頸から下はあの楽器の胴体、丈の短いズボンから伸びる脚は胴体と同じように色黒だった。
人形のはずだった。
靴に覆われていない人形の足先が突然動いたものだから、女は怯えた狐のように跳ね飛び、戸口に勢いよく身体をぶつけてしまった。
少年は楽しそうに笑った。
「ごらんよ、君の母親はあんなに腰を抜かしている」
女は息子の姿を探すために首を振った。これは派手に手の込んだ悪戯なのだ。悪戯とは言え、疲れ切った心身にこの仕打ちを笑って受け流せる余裕はなかった。
女は息子の名を呼んだ。息子がまだ幼かった時、𠮟りつけるために呼ぶ時の声音を思い出しながら。
この声で呼ぶと息子は少しずつ大きくなる声に恐れをなし、物陰から姿を現したものだった。
女は昔日と同じく、息子の名を呼ぶ声を少しずつ大きくした。
息子は現れなかった。
女は少年を睨みつけた。
少年は女の怒りに怯みもせず、顎先を少し上げ、女を見下ろすような構えで立っていた。
女が息子の所在を問い質そうと口を開きかけた瞬間、
「母親なのに、まだわからないの?」
人形が耳障りに楽器を鳴らす。
「あなたに何がわかるというの?」
女は少年の問いを無視し、再び息子の名を呼び始めた。
息子の名を呼ぶ声の合間を縫いながら、楽器が鳴らされる。
狭い家の中を見回っても息子の影は無い。
庭先に出ているのか、いや鶏小屋に隠れているのかもしれない。
女は外に踏み出て、真っ暗な空間に向かって息子の名を何度も大声で呼ぶが、息子の応えは聞こえない。
背後で楽器がけたたましく鳴らされる。
「さっきから煩いわね! 少し静かにしてよ!」
女は振り返り、息子の影をそこに見出した。
四角い戸口の光の中、息子は立っていた。
立って、両腕をぎこちなく動かし、胴体の弦を擦って楽器を鳴らしていた。
咽ぶように。
呻くように。
何度も、何度も、鳴らしていた。
息子だった。
今朝、家を出る時に見た時と全く違う姿だったが、息子だった。
女は息子の名を口にしようとした。しかし息子の名は声として発せられず、空しく唇が動いた。
光を背にしているはずなのに、何故か息子の目から溢れ出ている涙がはっきりと見えた。
何故?
どうして?
何が起きた?
「彼が望んだことだよ」
背後からの少年の声に女は飛び退いた。
「あの楽器を買えないなら、いっそのこと楽器になりたいと言ったんだ」
女はそれを否定したかった。
叫びたかった。
それなのに声は出ず、全身が震えるだけだった。
戸口に立つ息子の影と女の影が重なり、僅かな光だけを浴び、身体のほとんど闇をに溶け込ませた少年は、微笑んで立っていた。
「・・・・・・誰なの?」
ようやく発することが出来た声は掠れていた。
息子が少年の言葉に呼応するかのように楽器を鳴らした。
「あんた・・・誰なの・・・・・・?」
突然、少年の身体は消え、一瞬で何百枚もの金貨に成り変わった。
一年間働き詰めていても銀貨を一枚貯められるかどうかだというのに、突然目の前に現れた金貨の山は一層現実感を失わせた。
金貨の山に触れようとすれば、この輝く山は塵と化し、自分も息子もベッドの中で目を覚ますのだ。
そうだ、これは幻なのだ。夢なのだ。
幻夢を確信した女は金貨の山に触れた。
女の思惑通り、金貨の山はどす黒い茶色の土となったが、女がベッドの中で目覚めることは無かった。
息子が豹変してからいくつもの季節が廻った。
謎の少年はあれ以来、二人の前に現れない。
金を貯めることに希望を持って一日を終えることもあれば、息子の人離れした身体を“修繕”するための金を貯める虚しさに気付いて嘔吐を繰り返している内に戸口の隙間を差し込む光によって朝を知ることもあった。
似たような話は山ほど聞かされた。細かな展開は異なるが、総じて“魔女”と呼ばれる存在が現れ、醜い姿に変えられてしまい、“魔女”は姿を消すという流れが共通していた。
そんなことを聞いたところで息子の身体は元に戻らない。
息子が甲高い音を立てる。
息子は以前のように歩くことも、何かを持ち上げることも、掴むことも出来ない。
何度も息子の姿をあざ笑い、蹴り飛ばす人たちのせいで息子の身体はいつもどこかが壊れていた。
今は足先が壊れているため、息子一人の力で荷台から降りることができない。
息子が何か言っている。
女の身を案じているのか、台車が揺れたことを非難しているのか、息子の“音”の意味を汲み取ることは当の昔に諦めた。
草臥れた女の膝頭が地面に触れると、それ以上身体を支えきれなくなり、両脚が地面にべたりと貼りつく。
大きく息を吸っても、空気が半分しか身体に入ってこない。
息が苦しく、身体が前屈みになった拍子に倒れてしまった。
早く立たねば。
息子に無事な姿を見せ、台車が傾いだことへの労りの言葉をかけねば。
そう思っても指一本、爪の先も動こうとしない。
息子が呼び立てる。
このまま息子の声を無視して家に帰り、わずかな貯えと食料を一切合切持ってこの地を離れられたら、嗚呼どれ程素晴らしいだろう。
しかし女にはもう、息子を愛する勇気も、見捨てる勇気も無かった。
そのことが悔しく、固い地面に顔をこすりつけた女は、息子の声と共に嗚咽した。
あ と が き
カフカ『変身』のように、突然病気や障害を抱えた家族への差別的感情を描いた話ではないです。
ただ楽器(本作では言及しませんでしたが、実際はヴァイオリンを想定しています)と人間が融合した話を書きたかっただけです。
人形作家三浦悦子氏の作品の影響は受けていると思います。
初冬の話を初夏に持ち出すのはいつものことです。地球には四季があるから、オールシーズンだから良いのです。
2025年5月25日