蜘蛛恐怖譚

 激しい雷雨に男は身体を竦めた。
 迂闊に立っていては雷が直撃する。男は自分の命をこれまでにないほど強く感じた。
 その時、彼は人家の明かりを目にした。
 幸運にも、車が停まったのは人家の庭先へと続く入り口の前だった。
 男は己の心臓が強く締め付けられる思いで、人家へと続く道を上って行った。
 その二階建ての家はやや寂れてはいたが、人は住んでいるらしく、玄関先の煙突からは煙が出ている。
 雷の音に負けじと、硝子の引き戸が割れるのではないかというくらい強く叩いた。
 しばらく叩き続けていると、突然引き戸が横に滑り、男はあやうく顔を覗かせた人物の顔を殴るところだった。
 暗闇から現れ出た家人は、突然訪れた見知らぬ男をじろじろと見上げていた。
「すいません、この雨で車がエンストを起こしてしまったようで。あの、突然で申し訳ないのですが」
 家人は男の言葉を途中で遮り、「今夜はもう遅いですし、危険ですから、泊まっていかれては如何ですか?」
「ああ、有り難うございます。そう言っていただけて、本当に有難いです」

 家人は八雲と名乗った。
 普段は東京に住んでいるが、夏になると休暇をとって、この別荘に滞在するのだという。
「へえ、T大学の教授でしたか。優秀な方に助けていただいて、光栄です」
 男が感服して頭を下げると、家人-八雲博士-は照れくさそうに
「貴方が思っている程、優秀ではありませんよ」
と言った。
「あの、何を研究されておられるのですか?」
 男の質問に博士は口元に近付けていたグラスをロー・テーブルの上に置いた。
「貴方は、虫は苦手ですか?」
「虫ですか?苦手というわけではありませんが・・・?」
 男が答えると、博士は俯けた顔を上げ、ソファから身を乗り出すと、
「蜘蛛の研究です」
と答えた。
「え?」
 男は思わず聞き返してしまった。
「蜘蛛の・・・何を研究されてるのですか?」
「蜘蛛の生態と人工繁殖ですよ」
「珍しいですね、蜘蛛の繁殖研究なんて」
「よく言われます」
 博士は微笑みながら言った。
「蜘蛛は農家にとっては、農薬要らずの益虫なのです。蜘蛛は他の害虫を食べてくれますし。私はそこに注目したのです」
 博士は目を輝かせながら話し始めた。
「蜘蛛にとっての天敵はもっぱら鳥類です。鳥類に襲われても戦える能力があれば、蜘蛛の益虫としての地位はより高まるはずです。鳥類にダメージを与えられるような強力な顎や毒を持たせる事も考えましたが、人間の危険性も考慮しなければなりません。その打開策として、徘徊型の蜘蛛の体型を大きくさせるのです」
「徘徊型?」
「ええ、蜘蛛は大きく二つのタイプに分けられます。待機型と徘徊型です。待機型は巣を張り、そこに獲物が引っかかるまでじっと待つタイプ。一方、徘徊型は獲物を探して動き回るタイプです。待機型はエネルギーの消費が少ないのが利点ですが、エサとなる虫がいつも巣にひっかかるとは限りません。たとえひっかかっても、その虫が好みの虫でないと、彼達は食べないのです。その点、徘徊型は常に動き回っているので、エネルギーを消費する分、より多くのエサを必要とします。たくさん食べるのであれば、ミカンやキャベツ畑の蝶の芋虫を食べてくれるので、農家も喜びますし、何より、無農薬なので、食品の安全性も高まります。私はなるべく大きな体を持つ、徘徊型の蜘蛛同士を交配させ、体型の大きな蜘蛛になるように繁殖を試みているのですが、成功したと思っても、実際には悪食だったり、小食だったりで、なかなか上手く行かないのです。」
 博士はようやく男が先程から石のように固まっていることに気付き、「これは失礼」と苦笑した。
「どうも蜘蛛の話をすると止まらない性質でしてね」
「いやいや、研究者たるもの、そうあるべきですよ。熱中してこそ研究も務まるものだと私は思っております」
 男がそう言うと、博士は男に頭を下げた。
「有り難うございます。蜘蛛の話をすると、大抵気味悪がられたり、頭のおかしな奴だと見られがちですが、貴方のお言葉は私を励ましてくれます」

 「うわ」
 ベッドの下を覗き込んだ男は思わず身を仰け反った。
 埃の積もった床に接するように、ベッドの下には蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
「毒蜘蛛とかじゃないだろうな」
 男は部屋の中を見回した。
「研究生の部屋がありますが、今回学生は来ていないので掃除もしておりません。私は学生用の部屋で寝ますので、貴方は私の部屋を使ってください」
と、八雲博士に半ば押し切られる形となったが、男は埃まみれになっても良いから学生用の部屋が良かったと、部屋のドアを開けた瞬間そう感じた。
 部屋の奥にベッドが一つあるだけで、ほとんどは水槽が幾つも並んだ棚で埋められていた。
 水槽の中は蜘蛛の巣に覆われたものがほとんどで、顔を近付けると、白い布の様な巣を透かして、枝葉の影が見えた。そして、時折葉擦れの音を立てる黒い影も。
 男は念の為、部屋の電気を点けながら、ベッドに潜り込んだ。-勿論、安全を確認するべく、ベッドの下だけでなく、毛布の下を確認してからだが。

 まどろみの中、男は夢を見た。
 幼い少年だった頃の自分が、夏休みの宿題の為に昆虫採集をしようと、背の高いとうきび畑の間を走っていた。
 目の前には美しいカラスアゲハが飛んでいる。
 都会で暮らす少年にとって、その蝶は紋白蝶よりも遥かに大きく、黒く輝いていた。
 少年は虫取り網を掲げ、空っぽの籠が腰に何度も当たる痛みを堪えながら走り続けた。
 突然、蝶が空中で止まった。
 少年は驚き、虫取り網をそっと蝶に近付けようとした。
 ところが、どこからともなく蜘蛛が現れ、少年の目の前で蝶を糸で包み始めた。
 もがく蝶を蜘蛛は後ろ足で押さえつけながら、前足で回転させてゆく。
 蝶は蜘蛛に捕まってしまった。
 項垂れる少年の目の端を何かが飛んでいった。
 オニヤンマだ。
 少年は再び走り出そうとした。
 だが動けなかった。
 空中に張られた糸に絡まるオニヤンマが羽音を立てて暴れる様を、葉陰から見つめる巨大な蜘蛛の姿があったからだ。
 少年は自分の手よりも大きな蜘蛛を睨みながら、昆虫が捕まらない自分の不運を呪った。

 突然の轟音に、男は飛び上がった。
 暗闇の中に包まれた男が耳を澄ますと、地面や屋根を打ち付ける雨音が聞こえてきた。
 今の雷で停電が起きたらしく、寝る前に点けていた筈の電灯が消えている。
 男は再度電灯のスイッチを入れようと足を床に下ろすと、足元を何かがかすめる。
 その時、雷光が窓から差し込んだ。
 男の叫び声は直後の雷鳴によってかき消された。
 男の足元を小さな蜘蛛が走り回っていたのである。
 毒蜘蛛であれば、動き回るのは得策ではない。
 しかし、何故蜘蛛がいるのか?
 雷光が再び明かりを男の為に供した。
「あっ!」
 部屋を覆いつくすように置かれていた水槽が、全て床に落ちていたのである。
 男は混乱した。
 水槽が落ちるような地震であれば、揺れも相当なものだった筈だ。
 しかし、男は揺れを感じなかった。棚が倒れていないのは、固定されているためだろうか?
 男の背筋が凍りついた。
 この部屋にいた蜘蛛は毒を持っているのだろうか?
 蜘蛛に関する知識が無い分、余計にその恐怖は膨らんだ。
「博士!博士!」
 男は大声で博士を呼んだ。しかし、博士には聞こえていないのか、雨音が返事をするだけだった。
「博士、大変なんです!水槽が全部割れて、蜘蛛が・・・」
 僅かな痛みを感じた男が目を向けると、そこには毛むくじゃらの蜘蛛が彼の右手に噛み付いていた。
「うああっ!!」
 男が驚いて払いのけると、その蜘蛛は壁に叩きつけられた。
 男は早く咬み傷の手当てをしてもらおうと、スリッパを履くのも忘れ、足の裏に硝子片が刺さるのをものともせず、ドアに駆け寄った。
 ドアノブの上にたかる蜘蛛を払いのけ、男はドアを開けようとするが、なかなか開かない。
「博士・・・博士・・・・・・」
 男は泣きながら、子が母を求めるように、博士の名を叫び続けた。
 願いが聞き届けられたのか、ドアが突然開いた。
 暗闇に放り込まれた彼は手探りで歩いた。
 その時、足元に明かりの漏れる隙間を見つけた。
「博士?いますか?」
 男が明かりの漏れる隙間の前に立って問うと、ドアが開いた。博士が立っていた。
「どうかされましたか?」
 照りつけるように部屋から溢れる光に、男は目をしばたたかせながら、
「部屋の水槽が・・・蜘蛛が全部・・・」
と、説明しようとするが、なかなか上手くいかない。
「蜘蛛がどうしたんです?」
「水槽が割れて、蜘蛛に咬まれて」
「この家では毒蜘蛛は置いてませんが、傷の手当てはしておいた方が良いでしょうね」
 男が博士に促されて部屋に入ると、そこには実験道具や水槽が置かれた、ステンレス製のテーブルが一つだけある、簡素な部屋だった。
「さっき、大きな音が・・・」
 男が自分の身に起きた出来事を説明しようと口を開いた時、水槽の中に蜘蛛がいるのに気付いた。傍らには名も知らぬ小さな虫。
「これは一体・・・?」
 男の問いに、博士は「ああ、それは実験ですよ」と答えた。
「じ、実験って・・・」
「今朝手に入れたこの種の蜘蛛が何を好みとしているのか判らなくてね。適当にエサとなる虫を与えているのですが、ちっとも食べないのです。まあ、この蜘蛛に限らず、蜘蛛類は何を食べているのかは、まだまだ完全に究明されたわけではないのです」
「はあ、そうなんですか。腹が減っていないだけじゃないんですか?」
 男は段々苛ついてきた。博士は口を開けば蜘蛛の話ばかりだ。
 博士は男の苛立ちに気付かないのか、シャーレから赤いものを取り出し、水槽の中に入れた。
「そう言えば、先程水槽が割れたと仰ってましたが、割れた水槽は幾つですか?」
「全部です」
「全部!?」
 博士は余程驚いたらしく、大声を出した。
「咬みついた蜘蛛はどんな蜘蛛でしたか!?」
「暗くてよくわかりませんが、確か毛むくじゃらのやつでした」
「何ということだ!その蜘蛛は私が今朝捕まえた2匹のうちの1匹ですよ!」
「博士!毒蜘蛛はいないと言ったじゃないですか!?咬まれても、それ程大袈裟なことにはならないんでしょう?」
「ええ、確かに日本には毒蜘蛛はおりませんが、蜘蛛の持つ毒液によっては人体に影響することもありますし」
「毒液の影響はどうやったらわかるんですか!?」
 男が博士の肩を揺さぶると、博士は「食べる虫の大きさにもよりますが・・・」と言って、背後の水槽を見やった。
 水槽の中の蜘蛛は、博士が先程入れた赤いエサに牙を立てていた。
「あのエサは何ですか・・・?」
 男が訊ねると、
「野鼠の肉です」
「野鼠って・・・、動物を食べるんですか!?」
 男は後ろに跳び退った。
「も、もしかすると、水分を得るためかもしれません」
 うろたえる博士に男は怒鳴った。
「水分を得るために血を吸うような蜘蛛の居る部屋に、私を入れたのですか!?」
「血を吸っているかどうかは、もっと観察してみなければ・・・。それに、何を食べているかはまだ研究中でして・・・」
「聞き飽きた!!」
 男は怯える博士を残し、部屋を飛び出した。
 廊下を走り抜けようとするが、怪我を負った足のせいで思うように早く走れない。
 足の上に蜘蛛が乗った感覚を覚え、男は蜘蛛を振り落とそうとしたが、バランスを崩してしまい、床に倒れ込んでしまった。
 腹の下で何かが潰れた。
 割れた水槽から散った蜘蛛の数が計り知れず、男は急いで身を起こそうとするが、そうこうする内に男の身体を乗り越えようと蜘蛛が集って来る。
 男は身体を這う蜘蛛を潰そうと、身を転がす。
 体液が服の布地に染み渡るのを感じた。
 激痛に喚きながら男は立ち上がり、潰れた蜘蛛の死骸を払いのけると、玄関へと急いだ。

 再び、豪雨の中を男は駆け抜けた。
 頭の上を雷光が走る。
 車に乗り込んだ男は、ポケットから鍵を取り出し、エンジンをかけようとしたが、バックミラーの上を蠢くそれが目に入り、絶叫した。
 そこには、天井からバックミラーにかけて巣を作る蜘蛛が居た。

あ と が き
 それまではあまり苦手としていなかったものが、時を追うごとに苦手に、やがて恐怖を生み出すものへと変化していく様や、芥川龍之介の「羅生門」のように男の感情や考えがどんどん変わっていく様を描きたかったのですが、後半はかなり焦って書き上げたので、上手くいったのか正直不安です。

2010年7月31日