強迫症状
白い壁。
白い衣服。
白いソファ。
白い床。
白い机。
白い蛍光灯に囲まれ、医者と患者は向き合っていた。
「心理士の質問と被っているでしょうが、確認も兼ねているので、なるべく具体的に答えてください」
患者は黙ってうなずいた。
「まず、最後に眠ったのはいつですか?」
「4日前の晩から3日前の昼までです」
「どうやって起きましたか?」
「目が覚めたので、起きました」
「現在も眠いですか?」
「もう慣れました」
ぶっきらぼうに患者が答えた。
「何故睡眠を拒むのですか?」
「夢を見るからです」
「夢を見るから、眠りたくないのですか?」
医者のその質問に患者は突然身を乗り出し、まくし立てた。
「先生、私は不眠症じゃない。眠りたくても眠れないわけじゃない。眠ろうと思えば、いつでも眠れるんです。ただ私は物心ついた頃から毎晩夢を見ているのです。それも知らない人から追い回されたり、家へ帰りたいのに帰れなかったり、そんな夢ばかり見るのです。もういい加減疲れたんです。夢なんて見たくない。穏やかに眠りたい・・・。だけど夢を見るから休んだ気分になれないんです」
医者は患者の言葉を手で制すると、
「なるほど、夢を見ずに眠りたいのに、なかなかそうはいかないんですね。明日、今日と同じ時間にまたこの部屋でお会いしませんか?一緒に、気持ちよく眠れる方法を探してみましょう」
患者が部屋を出て行った後、医者はカルテに『強迫症状有』と書き込んだ。
医者が部屋を出ると、廊下には彼の妻が待っていた。
妻は夫の姿を見ると、傍らの車椅子を広げようとするが、老いた身ゆえ、なかなか力が入れられない。
手間取っている妻に苛立った老人は、
「もたもたするな!」
と怒鳴り、一人で廊下の先にあるエレベーターに乗り込んだ。
老人が乗るエレベーターは地階まで下りていった。
エレベーターを降りた少年は、配管の入り組んだ、低い天井の下、明るい光が漏れる方へと歩いていった。
そこはステンレス製品にあふれた厨房だった。
同時に、血肉の園でもあった。
シンクや調理台から漏れた肉塊は、黒ずんだ血に染めれらた床にまで垂れ下がっていた。
少年は身を震わせた。
この惨劇は既に終わったものなのだろうか?
それとも閉じられた幕の裏で、未だに行われているのだろうか?
赤い厨房に己以外の影がなかったことを幸いに、少年は再びエレベーターに乗り込んだ。
開かれた扉の向こうの光景に、少年は安堵した。
明るい日差しが入り込む病院の一階の受付デスクが目の前にあったからだ。
だが周囲の様子がどことなくおかしかった。
具体的には答えられないが、それは直感的なものであった。
受付デスクの正面に据え付けられたテレビを見上げると、流れているニュース番組の話題は過去の事件ばかりであった。
子供は受付にいた若い看護婦に、
「今日は何年何月何日ですか?」
と訊ねた。
看護婦が答えようと口を開きかけたその時、子供の細い肩腕が強い力で掴まれた。
振り返ると、不機嫌な顔で子供を見下ろす若い研修医が立っていた。
子供はその独特の直観力でもって、苛立つ研修医の真意を悟った。
研修医は子供の腕を放すと、その場を立ち去ろうと歩きだした。
子供は大人の歩幅に追いつこうと小走りになりながら、周囲をはばかる小声で、日時を訊ねたことを謝った。
研修医は立ち止り、子供を睨むと、無言で追い払う仕草をした。
子供は怯えた表情を隠せぬまま、元来た通路を戻り、受付デスクの脇の階段室のドアを開けた。
そして、灰色のペンキで塗られた階段を、泣きそうな顔で駆け上がっていった。
一つ上の階に着いた青年が階段室を出ると、ドアの脇には同じ年恰好の青年が座り込んでいた。
今しがた階段室から現れた青年と目が合うと、彼は年をとり過ぎた哲学者のような口調で言った。
「此処がお前の居る世界だ」
その言葉に応えきれず、青年は廊下の奥にあるホールへと足を向けた。
ホールでは誰も騒ぐことなく、息を殺し、咽喉の奥で全てを堪えていた。
車椅子に座る男児は、看護婦にゴルフクラブで両膝頭打ち砕かれていたが、呻き声も漏らさずに、呆然とパジャマの柄を見つめていた。
傍らで待ち構える、他の車椅子の男児たちも、これから己の身に起こることを一種の懲罰のように待ち構えている。
テーブルの間を蠢く他の男児たちも、走り回らず、何も言葉にせず、ただ時折、開いた口をもごもごと動かしているだけだった。
少年はその光景を眺めている内に思い至った。
ああ、これが己の居る世界なのだ。
あ と が き
作中のネタは、冒頭の医者と患者のやりとり以外、全て私が夢で見たものです。
夢という、あの無茶苦茶感を出したく、主人公の名称をコロコロ変えてみました。
私自身、眠る度に変な夢ばかり見るので、穏やかに眠りたいです。
2010年3月31日