あるサロンで語られた体験談 6日目

 この日の昼間のことはあまりよく覚えていない。
 恐らく、前夜の睡眠不足に因るところが大きいのだろう。

 食事は摂ったものの、後でこっそりと吐き戻した。とても彼達の供す食べ物が信用できなかったからだ。
 主人がダンスホールに円卓を運んでいる光景を覚えているところから推測すると、少しは主人の手伝いをしているようだった。

 記憶がはっきりとしてくるのは夕刻からだ。
 私が夫人と共にパーティーの為の食事を準備している時、婦人は、
「明日は朝早くに発たねばならないのでしょう?今日の仕事はここら辺で切り上げて、そろそろお休みになられた方が良いですよ。後は私一人で出来ますから」
「はい・・・。お言葉に甘えてそうさせて頂きます」
「貴方が手伝ってくれた御陰でとても早くに出来上がりそうだわ。本当に来て下さって有り難う」
「いえ、客人並みの扱いを受けたこちらとしても大変感謝しております」
 こういう時、心にもない言葉が出てくるのは人間の性なのだろうか。
「パーティーは貴方のお部屋の下で行われるので騒々しいかも知れませんが、構いませんか?」
「ええ、平気です」
 私はにこやかに作り笑いを浮かべながら、そう答えた。

 便宜上、部屋に今夜の夕食を持ってきたが、一口も手を付けなかった。
 私はろくに整理もせずに荷物をトランクに詰め込んだが、眠る気にもなれず、再び暖炉の前に座り込み、棚にあった酒を一本飲み干した。

 いつの間にか眠り込んでしまったらしく、私はドアを強く叩く音に起こされた。
 暖炉の火も消えており、部屋の中は真っ暗だった。
 アルコールで痛む頭を持ち上げ、私はドアを開けた。異様に明るい月光で目がくらんだが、其処には誰も居なかった。
 念の為廊下に出てみたが、やはりり誰も居なかった。
 寝惚けてしまったのだろう、私はそう考え、ドアを閉めた。
 するとまたもやドアを叩く音が後ろから聞こえた。
 私は素早くドアを開けると廊下に飛び出した。
 どのドアもしっかりと閉じられている。
 一瞬、私の脳裏に暗い影が走ったが、私は直ちにその事について考えるのを止めた。
 私は再びドアを閉めた。
 暗闇が戻る。
「!」

 私はカーテンを閉めただろうか?
 窓の方を見遣る。
 所々、外からの明かりが入り込むが、その“穴”は直ぐに消えてしまい、別の場所に穴が開き、それも一瞬にして消えてしまった。
「・・・・・・・・・・・・」
 私はゆっくりと窓に近付いた。ドアを叩く音は相変わらず鳴り止まない。
 少しずつ窓が私の視界を占めてゆく。
 だが途中でとうとう進めなくなった。
 印象画を思い出して欲しい。あれは遠くから視ると輪郭のある絵に見えるが、近くから観ると、点描によって輪郭がぼやけた絵に化けてしまう。そう、そして私はこれと同じような目に陥ったのである。
 戸口に立って観ると何があるのか判らなかったが、近付いてみる内に私はカンバスに見立てた窓に描かれた画家による点描ではなく、あの蛾が、窓を覆い尽くす程の大量の蛾が、各々の羽を叩いていたのである。その音は大きく、まるでドアをノックしているかのような音を部屋中に響き渡らせていた。
 私はその時になってようやく自分が子供のように泣いているのに気付いた。
 私は遂に耐えきれなくなり、トランクも持たずに部屋を出た。

 階段を下りようとしたが、ダンスホールへの扉が開かれている。玄関ホールをむやみに通り抜けようものなら中の人々に気付かれてしまうだろう。
 私は左右の廊下を見渡し、誰も居ないのを確認すると、腰を低くして階段を下り始めた。
 燭台に火は点されているが、足下はそう明るくはないので、私は蛇のように素早く下りていった。
 階段を下りると、私は壁際に沿って更に進んだ。
 ダンスホールへの扉が目の前に立ちはだかる。
 此処から玄関扉まで、もう僅かである。
 私は隙を見て走ろうと様子を伺った。

 扉の傍に立っていると思われるグループの会話が聞こえてきた。
「今年はあの令嬢は来られないのですか?」
 主人とは違う、中年男性の声だ。
「ええ、私の分も分け与えたのですが、それでも顔の部分だけ足りず、今年も出席を嫌がってしまって」
 今度は若い青年の声だ。
「お恥ずかしい話ですが、実は先日、墓場に迷い込んできた野良犬を試してみたそうなのです」
 老婦人の声が続く。
「私達が眠っている間に、こっそりと起き出したらしく・・・」
 再び青年の声。
「しかし痩せた野良犬だったので、ようやく喉元が出来上がっただけなのです」
 老婦人の嘆く声。
「何という不運な!神は彼女を見捨てたとでも言うのか?」
 会話の内容に不審な点がいくつも見られる。
 私は玄関ホール側に開けられた扉の横に回り込み、四つんばいになってダンスホールを覗き込んだ。

 音楽隊は居ないらしく、曲も聞こえなければ誰も踊ることなく、会話に勤しんでいた。
 皆、仕立屋が用意した、贅をあしらった服に身を包んでいる。
 強い香水の空気に溺れそうになりながら、私はこの屋敷の親戚の姿を見た。
 主人と夫人はその親戚に囲まれ、愉しそうに喋っている。二人を取り囲むその周りには、死体が立っていた。
 立っていただけではない、話している。
 黄ばんだ歯の間から声が出ている。
 唇にまだ肉がある者は笑みさえ浮かべていた。
 その上、片手にグラスを持ち、互いに乾杯を交わしたり、呑んでもいた。
 朽ちた肉体に身を包むその衣服は、酷い膿で汚れ、中にはほとんど骨だけの身でドレスを着ている者もあった。
 顔に肉のある者は僅かで、残りのほとんどは泥のように溶けた顔をしていた。
 そして、其処には馬の面を被った男達が居た。
 その馬は私が先日買った、そして盗まれた、あの忘れもしない馬であった。
 私は壁際に隠れながらも、彼達の余りの醜さに怖気が走った。

 私はもはや四の五の言っていられる状態ではない事を悟り、玄関扉へと走ろうと立ち上がった。
 その時、私は視界の隅に、あの白い瞳を見つけた。
 少年は両手に白い皿を手に持ち、ダンスホールから溢れる光の中に立って、私を視ていた。
「あ・・・・・・」
 私が動こうとしたその時、少年は突然甲高い悲鳴をあげた。
 会話が立ち消え、一斉に視線が集まるのを背中に感じた。
 少年は持っていた皿を頭上に掲げると、思いっ切り床に叩き付けた。
 酷く静まり返った屋敷内にその音は響き渡った。

 少年は私の横を駆け抜けると、ホール内に居た夫人の後ろへと隠れた。
「・・・・・・・・・・・・」
 死体が、じっと私を視ている。
 その様は、あの蛾の紋様を思い起こさせた。
「やあ、どうかなされましたか?」
 主人が私に声を掛けた。口調では穏やかに聞こえるが、顔は笑っていなかった。
「あちらの方は一体どなたですの?」
 夫人の傍で扇子を持った“女性”が訊ねた。
「彼は給仕として来て貰っていたんですよ。明日の朝発つはずでしたが、どうやら予定を早めたらしい」
 主人の表情が少しずつ氷のように冷たくなっていく。
 私は玄関扉に向かって走り出した。
 この屋敷から出られさえすれば、後は何とかなる、そう思っていた。
 だが。
「扉なら開きませんよ。用心のため鍵を掛けていますから」
 後にも先にも、私はこの時程神を呪ったことはない。
 私は玄関扉を諦め、勝手口の方へ走り出した。
 食堂を抜け、台所を抜け、更に食糧倉庫を駆け抜けた。

2007年10月31日