あるサロンで語られた体験談 5日目
朝、私は時計の鐘の音よりも早くにベッドから飛び起きた。
猫のように音も立てずに階段を足早に下りると、私は後ろに時計の鐘の音を聞きながら、台所を抜け、霧の中に潜り込んだ。
視界はそれ程悪いわけでは無いが、屋敷から墓場を見ても其処に私が居るかどうかは判らないだろう。
私は昨夜見た光景を思い出した。
自然と足が止まる。
それでも私は一歩踏み出させた。どうしても確認しなければならない。
注意深く足下を観察している内に、私はそれが本物である事を悟った。
数枚の落ち葉から覗くタイルの上に、乾きかけた血溜まりがあった。
そして、その血溜まりから何かを引きずったような跡が、墓石の下へと続いていた。
私は試しにその墓石の下にある石室への扉を持ち上げようとしたが、とても一人では持ち上げる事も出来なかった。
この屋敷に来る前、農夫達に道を尋ねた時の反応、そして先日の町での様子。
私はこの時になってようやく気付き始めた。
農夫達は少年の奇装に対してあのような反応をしたのではない、この屋敷全体に対してだったのだ。
私は震える余り、寒さを忘れてしまった。その上、後で着替えをしなければならない程、衣服を汗で濡らしてしまった。
その朝、有り難いことに少年は墓場に来なかった。
昼食後、私は主人に呼ばれ、初めてダンスホールに足を踏み入れた。
客室の部屋の下はダンスホール一室のみで、その広さは大学の講堂よりもあった。
左手には天井まである高い窓が並び、右手の壁に並ぶ中央の柱には振り子時計があった。
「昨日、取り敢えず窓拭きだけは終わらせたのですが、どうしても一人では終えそうにないので、申し訳ないが、手伝ってくれますか?」
主人は両袖を捲り上げながら私ににこやかにそう頼んだ。
「ええ、勿論」
私は内心断りたかった。更に欲を言えば、今すぐその場から逃げたかった。
だが立場上、それは出来なかった。
私が床をモップで拭くために水を汲んで持ってくると、主人は天井に吊されて幾つもある鉄製の巨大な燭台を、壁の隠し扉の中にあるレバーでゆっくりと下ろしていた。
燭台に厚く盛った埃が床に降り積もり、私は何度もくしゃみが出てしまった。
普通に雑巾で拭こうものなら霧のように埃が舞ってしまうので、私達は燭台や床に水を撒き、埃がたたないようにした。
それでも夕刻の頃には全身埃だらけとなり、主人は「まるで乞食の様だ」と苦笑していた。
私は客室の浴室を使わせて貰い、疲れ切った手足を慰めた。
風呂から上がり、部屋のカーテンを閉めようとした時、私は窓の桟に何かが蠢いているのを見つけた。
窓に近付き、何かあるのかと桟を覗き込むと、其処には黒い烏の大きく裂けた傷口に、あの独特の紋様を持った蛾が群がっていた。
私は込み上げる吐き気を抑えながら、この蛾は本当に烏を食べているのかと疑ったが、流れ出る血のせいで赤黒く光る烏の羽と、蛾の紋様の目が私の視界をみるみる覆い尽くし、私は遂に倒れ込んでしまった。
夕食は断った。
主人は心配し、夫人はスープを持って来たが、私が寝ている振りをしていると、夫人は何も言わずに静かに出て行った。
夜遅く、私はベッドから起き上がり、暖炉の薪に火を付けた。
薪が無くなりかけると、私は棚の酒瓶を開けて、少しずつ火にかけていった。
小屋に行けば薪はあるが取りに行く気は起きなかった。
私は夜が明けるまで、ずっと暖炉の前から動かなかった。
2007年10月31日