あるサロンで語られた体験談 1日目
早朝に出発したものの、乗合馬車を乗り継ぎしているうちに太陽は少しずつ西へと傾いていった。
ようやく屋敷のある町に着いた時、私の腰は悲鳴を上げる寸前であった。
私は町の名前しか聞かされていなかったが、井戸がある広場を中心としたその場所から歩いて5分も経たない内に町を出てしまう程小さなこの町に、屋敷があるとはとても思えなかったが、私は取りあえず自分の足で訪ねる場所を探すことにした。
ところがいくら探しても町の中にその屋敷は無かった。酒場もあったが、其処は生憎の定休日となっており、私は自分が来た方向とは逆の道を通り、町を出た。
町の外には道を挟んだ右手には見知らぬ花が咲いている段々畑のある丘が続き、左手には森があった。
私は丁度その時段々畑から下ってきた農夫たちに屋敷の所在を尋ねると、どういう訳か彼達は一斉に顔をしかめた。後方にいた二人の農婦は私の方を見遣りながら小声で何かを囁きあっている。
農夫は、屋敷は森の奥にあると仏頂面で答えると、そそくさと私の元から離れようとした。私が森への入り口を訊こうと彼達を呼び止めようとしたが、農夫たちは私の声を無視するかのように足早に町の方へ行ってしまった。
私はもう一度、周りに誰かいないか見回したが、どこにもその影は見えず、仕方なく森へ足を踏み入れた。
針葉樹の木立は橙色の光に満ちていた。
この季節は日が暮れるのが早い。私は枝を折る音を足元から響かせ、半ば走りながら先を急いだ。
しばらく行くと、私は広い道に出た。
左手へゆく道の先には、上部にアーチ状の装飾のある鉄門が見え、そこから先はタイルが敷かれた道が続いているのが見える。
私は酷使した両足をいたわるかのように、それまでよりもゆっくりと鉄門へ歩いて行った。
黒い鉄門は閉じられていたが、門扉を押すと、それはゆっくりと静かに開いた。
門を抜け、門扉を閉めると、それまでは気付かなかったが、わずかな薔薇の匂いが私を迎えてくれた。
振り返ると、辺り一面に広がる薔薇園の中にそびえ立つ屋敷があった。
その屋敷は私の住む街ですら見られない程大きな二階建ての建物であった。
私がその芳しい薔薇園を通り抜けてゆこうとしたその時、私はふと気配に気付き、左手の方を見やった。
私は驚きのあまり、その場に立ち止まってしまった。そこにはオレンジ色の大きなカボチャを頭に被せた子供が、薔薇の茂みの中に立って、三角形に彫り抜かれた穴からこちらを見ていたのである。
このように述べると語弊があるかも知れないが、しかし私はその子供に見られていると、はっきりと感じたのである。
夕暮れ時の日の光のせいで、そのカボチャはより一層その色を光らせていた。
私が何も言えずに立っていると、子供はやがて黒いロープを翻し、屋敷の玄関扉を開けるなり、幽霊のように音もなく入って行ってしまった。
先刻の農夫たちの反応は、もしかしたらあの子供の奇装が原因なのかも知れないと私は思った。
私はまだ誰かに見られているような気がしてならず、周りを見回してみた。
見事な薔薇が咲いているだけで、誰もいなかった。だが咲き誇る薔薇の色はどこかくすんでいるように見えた。
ポーチを上り、玄関扉をノックする。
少し経つと、重厚な扉が開かれた。扉の向こうから現れたのは、夜を連想させるような女性だった。
街ではあまり見かけることのない黒色の髪を腰まで垂らし、襟や袖口に黒のレースフリルが付いた、喪服のようなロングドレスを着、藍色の瞳でこちらをじっと見つめ返していた。彼女のまとう白い肌と黒服は、より相反しているように見える。
「こんばんは、遅くなって申し訳ありませんでした。本日から1週間給仕させていただきます」
私がそう挨拶すると、女性は微笑みながら、
「こんばんは、ようこそお待ちしておりましたわ。どうぞ中へお入りください」
女性はまるで来賓客を迎えるような、腰の低い態度で私を中に招いてくれた。
薄暗い吹き抜けの広い玄関ホールの両脇に二階への階段があり、中央奥には屋敷の裏手へと通じるガラス戸がある。更に左右の壁には美術館でしか見られないような、少なくともあれ程の大きさは中々個人の屋敷ではお目にかかれないだろう、巨大な絵画が掲げられていた。
右手は金や銀色の管楽器や弦楽器を持った天使達が勇壮な白馬と共に、天に向かって喜ばしげに腕を伸ばす人間達の間を駆け巡る華やかな絵であるのに対し、左手にはあまりの重さに押しつぶされそうな程大きな十字架を背負った人間達が畜生と共に、血だらけの人間の頭部が埋められているのが見える、尖った骨の山を周りの醜い容姿の悪魔に鞭打たれながら登ってゆくという、陰惨な絵であった。
私がその二つの絵に気を取られていると、女性は何処かへ消えてしまった。
私が迷子になった子供の様に不安げに立ち尽くしていると、女性はホールの右手の部屋から、か細い火の付いた3本立ての燭台を片手に再び現れた。
「こちらへどうぞ。お部屋までご案内致しますわ」
女性は階段を上がると左へ折れ、窓を向かいに4つ並んだ一番手前のドアを開けると、女性はその部屋に入っていった。
部屋には、左手に豪奢な布地をふんだんに使った天蓋付きのベッド、反対側にはソファやテーブルが並び、傍には薪の置かれた暖炉、その隣には酒瓶やグラスの入れられた棚が置かれていた。
私が戸口に立っていると、女性は部屋の燭台に火を移しながら、
「此処が貴方のお部屋になります」
と言った。
「はい?」
私は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「しかし・・・、この部屋は客室にしか見えないのですが。私は給仕なのですから、このような部屋を使うべきではないと思うのです」
私が無礼を承知でそう言うと、女性は先程見せたような微笑を浮かべながら、
「でもこの部屋はあまり使っておりませんので。こんな処ですから、人は滅多に来ませんから、たとえ給仕であっても私達にとっては大事なお客様も同然ですよ」
私がどう返事をしたものか迷っていると、女性は、
「荷物を解いたら厨房にいらして下さい。厨房は玄関ホールに下りて、左手にありますから」
そう言って部屋を出て行った。
少しばかりの着替えを使うのに躊躇しそうな、窓際とベッドの間に挟まれて置かれていたロココ調の箪笥に仕舞うと、私は早速部屋を出た。
僅かに残された日の光のお陰で、部屋の向かいの窓から裏庭の様子が見える。
手前には枯れかけた雑草に覆われた花壇に囲まれた噴水-水が出ていないため、落ち葉が庭に張り付いている-があるだけの寂しい庭だった。
奥の方には何か小さなものが並んでいるようだったが、夜闇に包まれかけていたため、形すら判らなかった。
ホールに下り、女性が先程出てきた部屋に入ると、まだ何も載せられていない皿が、白いテーブルクロスの上に暖かな光を放つ蜀台と共に並び、細長い食卓を四つの椅子が囲んでいた。
部屋の奥の観音扉を開けると、竈や食器を洗うための水切り場があり、台所の中央には食卓よりも小さなテーブルがある。その上にはよく火の通された肉料理や白い湯気を立てるスープの入った鍋、それに私が普段食べているものよりもずっと柔らかそうなパンの入ったバスケットなどが所狭しと置かれていた。
私がその豪華な料理を乞食の様に見つめていると、突然台所の隅に据え付けられたドアが開かれ、空の桶を持った先刻の女性が現れた。
「もう荷物を解き終えたのですか。少しはお休みになられましたか?」
女性のその優しい口調に内心照れながらも、私は「持ってきた荷物は少しだけですから」と答えた。
「ではこの料理を食卓まで運ぶのを手伝って下さい」
女性は持っていた桶を水切り場に置くと、傍にある木製の小さなカートに料理を乗せた。
私はそのカートを押して食卓に料理を置いていった。
料理を置き終え、残りの料理を取りに台所へと戻ろうとしたその時、ホールから見知らぬ男性が入ってきた。
女性とは対照的な浅黒い肌。少し巻き毛のある灰色の短い髪に、映えるような青い瞳を持ち、白いシャツと黒ズボンを履いていた。
そこへやって来た婦人は、パンの入ったバスケットを置きながら「私の主人ですの」と紹介してくれた。
「こんばんは。このような辺鄙な処へわざわざお出でいただき、誠に感謝しております」
主人は一介の給仕に対する扱いとは思えない程、とても腰の低い態度で私に片手を差し出した。
「いえ、あのような素晴らしいお部屋を使わせていただき、こちらこそ恐縮です」
私はそのほとんど体温が感じられない手を握り返しながら、そう言った。
「どうぞお座りください。長旅でお疲れでしょう」
夫人が私に席を勧めてくれ、私は丁重に断ろうとしたが、主人は「この屋敷に在する者は皆同じ食卓につき、同じものを食べるのが習わしですから」と言った。
私は二人に何度も礼を述べながら、主人の座る向かいの席に座った。
夫人が主人と私のグラスに赤ワインを注いでいると、先刻庭園で見かけたあの子供が無言でホールから入ってきて、私の左隣の席に座った。
子供は相変わらず南瓜を被っていたが、夫人が席に座ると、ようやくその南瓜を外し、足元にそれを置いた。
私はその子供の目に心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
父親譲りの黒い巻き毛のある前髪の間にある二つの目は、母親の肌の色と同じように白く、どこにも瞳が無かったのである。
私がその奇異な目を凝視しているのを主人は察したらしく、
「息子は生まれて間もない頃に熱病にかかりましてね。治りはしたのですが、光を感じることが出来ない程、目を酷く潰されてしまったのですよ」
「申し訳ございません。御子息に無礼な態度をとってしまって」
「そうあまり自分を責めないで下さい」
主人はそう言って私を許してくれたが、当の少年は口を開こうともせず、只黙って食べていた。
だが私は腑に落ちなかった。
少年は赤子の時に失明したと主人は言ったが、あの時感じたあの視線は何だったのだろうか。
その夜の夕食会では美酒の力もあってか、私はとても饒舌だった。
主人の、私の住む街や大学での講義の質問に、私は自分とは思えない程、食卓に言葉を溢れさせた。
ようやく食事を終えた時は、既に十時を回っていた。
主人と少年は自室へと戻り、私は台所の水切り場で食器を洗い、夫人は洗い終えた皿を布巾で拭き、食器棚に仕舞いながら、私に一日の仕事の手順を教えた。
「毎食後には食器の後片付けをしてください。朝は私が食事を準備します間に、裏庭の墓地の掃除をお願い致します」
「墓地ですか?」
「ええ、墓地の周りに落葉樹が植えられているので、この時期はお掃除が大変なんです。集めた落ち葉は燃やして下さい」
部屋へ戻ると、部屋の中は火をつける必要もない程月光に照らされていたので、私は寝間着に着替えると、カーテンを閉め、ベッドの上に身を横たわらせた。
何時の頃か判らなかった。
私は何かが窓を軽く叩く音に起こされた。
鳥でもいるのかと私は起き上がり、ベッドの脇にある窓のカーテンを開けた。
昼の様に明るい月の光に目をしばたかせ、外を見ると、梟両羽鳥避けの目の文様を持った、私の掌と同じくらいのある大きな蛾が窓硝子に羽を叩きつけていた。
私がその珍しい蛾に見入っていると、突然窓に黒い物が激突した。
硝子にひびは入らなかったものの、窓には燐粉がこびりついてしまった。
汚れを拭き取るために窓を開けると、烏の鳴き声が聞こえた。
見上げると、天上に浮かぶ太り気味の月へと向かう烏の姿があった。
2007年10月31日