老親と兄弟
「――兄さん」
彼自身をそう呼ぶのはこの世で一人しかいない。
病室の戸口には彼の弟が立っていた。
「兄さんも花を持ってきたのか。重なっちゃったかな」
弟は抱えた花束を見やりながら言った。
「いやいや、花は沢山ある方が好い。なあ、母さん」
枕元に置かれた椅子に座りながら、兄はベッドの上に横たわる老女の顔を覗き込む。老親は息子の言葉に何も応えず、虚ろな目を空に向けている。
「おい、座ったらどうだ?」
兄は部屋の隅に置かれたもう一つの椅子を示した。弟は黙って戸口に佇んでいる。
兄はベッドサイドの上の花瓶に弟が持参した花を挿していく。
「どうだい、綺麗じゃないか。やっぱり花が二人分あると豪勢になるな」
兄は弟に笑いかけたが、弟は相変わらず口を閉ざしている。
「母さん。弟だよ。久々に見ただろう?今日はわざわざ遠方から来てくれたんだよ」
老親は乾いた口を半開きにしたままである。
「兄さん、さっき担当医の先生と話したんだ」
「うん、それで?」
兄は優しく後を促す。
「母さん、もう随分と寝たきりだし・・・、食べ物も胃にチューブを通して流動食だろ。周りが歌を歌っていても全然反応しないって話してたし」
弟がもごもごと口を動かすが、兄はそのことに触れることはせず、
「知らない人がいて緊張してるんだよな」と母親に笑いかける。
「兄さん・・・、母さんが、病気の進行を抑える薬を服用したいって言った時のこと覚えてるよね?」
兄は急に強張らせた顔を弟に向けた。
「あの時、母さんが言ったから、先生も薬を出したけれど、薬の飲み忘れが続いて余計に酷くなって・・・。兄さん、あの時、既に母さんは服薬を止めた途端に何が起こるのか、ちゃんと理解していなかったんじゃないかな?」
「・・・・・・・・・・・・」
「母さんは『まだ死にたくないから』薬を使いたいと言った。でも今となっては・・・。なあ兄さん、母さんは本当に今も死にたくないって思っているのかな?」
「じゃあ、お前は今すぐ死ぬべきだって言うのか!?」
激昂した兄の大声に驚いたのか、ベッドの上の老女は急に怯えたような声を漏らした。
「ああ、御免よ、母さん。大丈夫だよ、安心して」
老親を必死で労わる兄を残し、弟は病室から出て行った。
「あんなこと、母さんの前で失礼じゃないか」
いつの間にか、隣には兄が座っていた。
病院の受付ホールにある長椅子には、会計の順番を待つ通院者もいれば、テレビから流れる映像を呆けたように眺める患者もいる。
「言葉は通じないかもしれないけれど、ちゃんと解っているさ。いろんな事を話しかけると、脳が刺激されるんだぞ」
「・・・・・・・・・・・・」
「手を握ることも好いそうだ。手先は細かい神経が沢山通っているし。匂いだって」
弟は足元の床のタイルを見つめながら、口を開いた。
「兄さんは家が近いから、毎日病院に来ているから訊くんだけど」
「何だい?」
兄はたった一人の弟のために優しく微笑む。
「母さんが最後に笑ったのはいつだい?」
兄は顔を弟から背け、上半身を折り曲げるなり、周囲に気取られぬよう、顔を膝に埋めながら身体を震わせた。
あ と が き
幸福であれば笑い、幸福でなければ表情は消えてゆくのです。
対照的な認知症者に出会い、「人は幸福でなければ笑わない」という言葉は本当だと思いました。
2010年6月20日
しめやかな葬儀の傍らで
この人は誰だったかな・・・?
思い出せない。
むしろ知り合いだったか?
ああ、この人はよく知っている。来てくれて有難う。
やあ、久し振りだな。覚えているよ、5年ぶりかね?
それにしても何故こうも大勢の人間が来るんだ?
大体、こんなに沢山人が来るとは思わなかった。
おい、この人は全然知らんぞ!誰だ、こんな人まで入れて。
全く・・・・・・。落ち着かないったら、ありゃしない。
なあ、其処のあんた、そう思うだろ?
―それほど尊敬されていたのでしょう?
尊敬?私はただ自分が思うように生きただけだ。
―凡人には貴方のような行動力は持ち合わせていませんからね。
だからと言って、何故こんな仰々しい送り方をされなければならないのだ。私はもっと静かに過ごしたかったのに。
む。あのリポーター、今、「しめやかな葬儀」と言ったぞ。
これのどこがしめやかなんだ。私が死んだというのに、祭り状態じゃないか。
―有名人は辛いですね。
何だ、それは。馬鹿にしているのか。
―いえいえ、滅相もない事を。それよりお棺が出ますよ。
あーあ、あの世はもう少し静かなんだろうな?
―悩み事は減りますよ・・・。
そうだといいがな。
おい、後はしっかりやれよ。
あ と が き
角界で不祥事が相次いでいた頃、各界のお偉いさんが亡くなったというニュースを見て。
あんなに大勢の人が来たら、かえって落ち着かないんじゃないかなーと思いました。
2010年9月4日