最も恐れていた場に閉じ込められた男の懇願

  吐き気がする。
 見てくれ、全身がこんなに震えている。
 寒気?
 ああ、感じるとも。どうやら熱が出てきたようだ。
 早く此処から逃げ出したい。
 しかし、私の身体が思うように動いてくれないんだ。
 頼む。お願いだから、此処に居てくれないか? 私の傍に居て欲しい。
 私の見えるところにいてくれ!
 怖いんだ! たった一人で此処に取り残されてしまうことが!

 私は神に軽蔑されているのか?
 悪魔が私の心臓をその手に握り締めているというのか?

 ああ、助けてくれ。誰か私を此処から出してくれ。
 せっかく逃げ切れたと思ったのに、何という場所に飛び込んでしまったのだ。
 己のあまりの愚挙に苛々する・・・。

 表通りには出られない。裏通りへ連れてってくれ。裏通りなら、面を上げなければ、何とか大丈夫だろうから。
 頼む、出してくれ。この恐ろしい世界から救い出してくれ。
 何だ、その目は!? その口元はどういう意味だ!? 大の大人が泣いている姿がそんなに珍しいのか!? 大の大人が跪く姿がそんなに笑えるのか!?

 あんたは平気なんだろ。此処に居ても、何も感じていないじゃないか!?
 だが私には耐えられないんだ。
 突然、深海に放り出された気分だ。
 今にも押し潰されそうなんだ。
 苦しくて苦しくて堪らない。

 外には私が最も嫌うものがあまりにも多く溢れていた。だから此処に逃げ込んだんだ。

 誰でも好い。俺を此処から出してくれ!
 それが無理なら、悪魔の王サタンよ。その足元にある業火で、全てを燃やしてくれ!

 此処にはあまりにも言葉が多過ぎる!!

あ と が き
 図書館に閉じ込められた、活字恐怖症の男の話。
 数年前、あるイラストサイトの作品を観ている時、本棚の間に立ち、顔を両手で覆った男が、「此処にはあまりにも言葉が多過ぎる!」と叫ぶモノクロ絵が、ふっと浮かびました。
 インスピレーションから派生させたものです。
 図書館とは考えてみると不思議な場所です。
 それこそ果てしない、天文学的なまでに膨大な量の活字がひしめく世界なのです。

2009年12月6日

悪魔の疑問

 此処に、(やや間抜けな)天使が一人、椅子に座って事務仕事を行っていた。
 天国の門を抜けた後、それまで地上に暮らしていた人々は、此処で天国に在するための登録を行うのだが、天使はその登録を仕事としていた。
 その天使は仕事に気を向け続けていたあまり、周囲の異変に気が付かなかった(同時に、誰もその天使に異変を知らせることなく去ってしまった)。
 天使が気が付いた時には、ホールには誰も居なかった。
 突然、巨大な観音扉が大きく軋みながら開いた。
 扉を開けた人物の影が徐々に奥へ踏み込むにつれて、天使はようやく事態を悟った。
「どーもどーも! お元気かね? 仕事の調子はどうかね?」
 天使は茫然とする余り、手に持っていたペンを床に落としてしまった。
「ペンが落ちましたよ」
 突如現れた悪魔は身を屈め、床に落ちていたペンを拾うなり、天使の片手を掴み、天使の掌にペンを置く。
「な、何で、何故、此処に・・・」
 戸惑う天使に悪魔が応える。
「別に悪さをするためでなければ、天の門も開かれよう」
 天使はその場から逃げようとするが、悪魔に両肩を押さえつけられてしまう。
「なに、ただの質問さ」
 悪魔は机の上の書類をステッキで床へ掃き出すと、その上に腰かけ、話し始めた。

「先日、ある土地を歩いていた時のことだ。私の目の前を、一人の男が歩いていた。
 男の行く先に、餓死した老人の死体があったが、男は老人の死体など知らぬかのように、立ち止まることなく進んで行った。
 少し歩き続けていると、今度は小さな子供の死体が転がっていた。
 男は子供の死体に駆け寄るなり、叫んだ。
『おお、何と可哀想に!』
 私はそれを見て不思議に思ったので、男に訊いた。
『何故、さっきの老人は無視したのに、その子供に駆け寄ったのかね?知り合いの子供なのか?』
 子供を抱く男は応えた。
『いいや、全く知らない』
『では、何故老人の死体は無視したんだい?』
『知らない老人だからさ』
『その子供だって、あんたの知らない奴だろう?』
『ああ、知らない。だがこの子はまだ子供だ』
『同じ見ず知らずの人間なのに、老人は無視か』
『そうさ、老人だからさ』
『ほう、それは何故だい?』
『どうせあの老人はいつ死んだっておかしくない年齢だ。だが、この子は違う。この子には未来があった。それなのに飢えで死んでしまった。子供の方がずっと可哀想だ』
『生きとし生けるもの、皆死ぬ時を選ベず』
『おい、それはどういう意味だ!?』
 男は子供を抱えながら、立ち上がった。
『誰だって、いつ死んでもおかしくない、という意味さ。老人だからって、何故悲しまない? 同じ死人じゃないか?』
『何を言う!? 子供には“未来”がある! “希望”がある!』
『未来!希望!』
『そうさ、子供にはある。だが老人にはない』
『ほう・・・。子供が“希望”なら、老人は何かね?』
そう尋ねると、男は泡を吹いて、どこかへ行ってしまったよ」

 思い出し笑いを堪えようとしているのか、悪魔の細長い身体が揺れる。
「地上の人間に答えられないなら、天界の者なら答えられるかと思ってね」
 悪魔は懐から煙管を取り出すと、口に咥えた。悪魔が指を鳴らすと、その指先に火が点り、煙管の先に火を移す。
 天使は悪魔の存在に怯え、口を開けてはいるものの、言葉にならない声しか出ない。
「さて、ようやく目的を実行しよう」
 悪魔は天使に煙を吐きかけながら言った。
「子供が“希望”なら、老人は何かね?」
 天使は気付いた。
 悪魔はこの答えを知っている。
 だが、悪魔は自ら答えようとはしない。
 相手に答えさせたいのだ。
 答えることを避けようとしているからこそ、相手に答えさせたいのだ!

あ と が き
 私の悪魔観は、人間が自ら契約を望むように巧みに事を運びつつ、時々こういうお遊び的な行動もとる、いやらしい性格です。

2010年2月13日