13. RUNAWAY
後ろ手に手錠をかけられたJIGは外へ連れ出され、アルバートが運転する乗用車の後部座席に乗せられた。
JIGが大人しくそれに従うと、先程現れた謎の男がJIGの隣に乗り込んできた。
謎の男がドアを閉めると、アルバートは車を発進させた。
JIGは隣に座る男の顔をどこで見たかとしばらく考えていたが、ようやく相手が何者なのかを思い出した。
「あなた、教会の事件で勝手に現場に入り込んでた人ね」
JIGの言葉にウィルは笑った。
「ちょっと覗ける隙間があったから覗いただけさ」
「覗き趣味の人が、何故此処にいるの? 覗き趣味者は覗いていることがバレないように陰から覗くものでしょう?」
「おい、聞いたか? 覗きについて指導されてしまったよ!」
JIGの言葉にウィルは大笑いしながら運転席のショルダーを叩いた。
「何も可笑しくないだろ」
アルバートが冷たく突き放すが、ウィルはまだ笑っている。
「そりゃ真性の覗きは誰にも知られないよう、自分が覗いて知ったことは全て己の内に隠しておくだろうよ」
ウィルは笑いを引っ込め、急に真顔になった。
「だけど僕は知ってしまったことを世の中にも知ってほしいという欲望を抱えているジャーナリストでもある。勿論、ジャーナリストは取材源を守るために全てを曝け出すようなことはしない。どの情報を、どのような内容で、どんな時に出すのか。一つ一つ吟味し、公表する」
「御高説ぶっているけれど、ようは野次馬根性で此処にいるんでしょ」
「そう」
「へえ、こんな奴を運転手に雇える程、ジャーナリストってお金持ちなの?」
ウィルの笑いとアルバートの罵声が重なる。
「彼は僕の運転手じゃないよ、一応、友達だ」
「トモダチぃ? ジャーナリスト気取りと犯罪組織のボスが友達だなんて、何か弱味でも握られているの?」
「共存共栄だよ。僕は裏社会の情報を流してもらう代わりに、警察の動きや政治家や芸能人たちのスキャンダルネタを流す。弱味と言えば、お互いにこの繋がりを大勢の人に知られたくないということだね」
JIGは鼻を鳴らした。
「それで今日は何の御用で来ているの? 殺人ビデオの収録?」
「僕も彼も、その手のビデオには興味が無いから安心していいよ」
「殺す時は短時間で殺すのが一番楽だからな」
二人の会話にアルバートが割り込む。
「じゃあ、何でいるのよ? 死ぬところをタダ見されるのはあまり良い気分じゃないわ」
今度はアルバートもウィルと一緒に笑い出した。
ウィルがJIGの顎を掴み、顔を無理矢理ウィルの方に向かせた。
「君へインタビューしたくて、此処にいるのさ」
「はあ?」
ウィルが手を離すと、JIGは笑い出した。
「以前、あなたとは違う目的で私に近付いて来た人がいたけど、あなたも相当クレイジーね」
「純粋に知りたいのさ。特に好んで犯罪を犯す人と、そうでない人は何が違うのか。刑務所の囚人にインタビューしたり、犯罪現場に行ったり、数をこなしても未だにわからない。聞けば聞くほど、取材すればする程、彼らと僕との間の違いが大きくなってくる。アルバートが紹介してくれる犯罪者はチンピラばかりだけれど、今夜は格別のゲストなんだ。だから来たのさ」
JIGはウィルに顔を向けたまま、
「私なんかをインタビューしてどうするの? またテレビにでも流すの?」
と、訊ねた。
「それについては君がインタビューに応じてくれるかどうかだね。別に応じてくれなくても、こちらとしては少々懐が痛むぐらいだし。言っておくけど、君の命を助けるつもりもない」
「取材してどうするの? コレクションしておくの?」
「僕が生きている限り、今夜の取材データは公表しないさ。裏社会との繋がりがバレると何かと面倒なんでね」
JIGがうんざりした表情を浮かべ、正面を向いた。
「私がパフォーマンスとして嘘を言う可能性もあるわ」
「一貫した意見を持ち続けるのは大変なことだからね。訊く度に動機が変わるのは珍しいことではないし、僕は怒らない。むしろ死ぬ直前に嘘を言える度胸に感心するよ」
「私の動機だけが知りたいの?」
ウィルはそれを聞いて笑った。
「他のことも教えてくれるなら嬉しいけれど、教えてくれる気は無いんだろう?」
「あなたが私のことをどのくらい知っているか、私は知らないし。あなたは私の仲間になるつもりもないんでしょう?」
「手厳しいねえ。でも君の正体は死んだ後でも判ることさ。ただし動機については、生きている間に訊かないとね」
JIGは溜息を吐き、ウィルに顔を向けた。
「楽しいから」
唐突な回答であったためウィルはほんの僅かではあったが、この回答が何に対するものか判らず、
「・・・・・・楽しいから」
と、JIGの言葉を呟いた。JIGはゆっくりと頷いた。
「楽しくて楽しくてたまらない。ただそれだけ。自分がイメージしていた通りのものが出来上がった時の喜びを感じたいがために私は人を殺しているの」
淀みなく己の動機を簡潔に語るJIGを見て、ウィルの中では訊きたい質問が次々と浮かんできた。
「死体でなければ駄目なのか? 人形なら合法的だと思うけれど」
「いかに材料を手に入れ、いかにして腐敗する僅かな時間の中で作品を作るか。その苦労した過程の先に作品が完成した喜びが待っている」
ウィルが身体を後ろに引いた。
「おい、ウィル。今まで取材してきた相手にもこういうクレイジーな奴はいたんだろ? 何をびくついているんだ?」
アルバートが黙り込んだウィルをからかったが、ウィルはそれを無視し、
「楽しくなくなったら、殺人も、死体に手を加える行為も止めるのか?」
と、質問した。
薄暗い車内の中、時折僅かに差し込む街灯の明かりが、JIGの黒い瞳を光らせる。
「それは」
突然車が大きく揺れ、JIGもウィルもひっくり返った。
アルバートが喚く中、車はフラフラと更に揺れる。
「おい、どうした!?」
何とか身を起こしたウィルは、運転席のアルバートを覗き込み、悲鳴をあげそうになった。アルバートの顔は血にまみれ、運転席側の窓は何故か大きく割れている。
「車を止めろ! ブレーキを掛けるんだ!!」
「前が見えねぇんだよ、くそったれ!!」
「このままじゃぶつかる! ハンドルから手を離せ!!」
混乱して蛇行運転するアルバートに代わってウィルがハンドルを掴もうと手を伸ばした時、アルバートの頭の向こうで何かが光った。
反射的に顔をそちらに向けた瞬間、アルバートの頭がウィルの身体にぶつかった。
「おい、一体何が」
アルバートの肩を掴むと、血がウィルの服を汚した。街灯の明かりが、撃たれたアルバートの頭に当たる。
車内が再び大きく揺れた。
歩道に乗り上げた車は街灯にぶつかり、ようやくその暴走を止めた。
そこへ後方から2台の車が近付き、けたたましいアラーム音を鳴らす車からやや離れた、街灯の明かりが届かない暗がりの中に停まり、ヘッドライトを消した。先頭の車の右側面がところどこ凹んでいる。
大破した車の助手席側のドアが開き、服を赤く汚した男が転がり落ちるように降りてきた。
男は周囲を見回すと、暗がりに潜む車に人が乗っていることにも気付かずに慌しく走り出し、ブロックの角を曲がった。
男の姿が消えると、先頭の車の運転席からボブが降りてきた。
ボブはアラームを鳴らし続ける車に近付くと運転席側のドアを開け、エアバッグに挟まれているアルバートの死体を引き摺り降ろし、背後で控えている車に向かって合図した。
合図を受け、ボブと同じ車に乗っていたアダムスと、その後ろのライトバンに乗っていた双子が降りてきた。
「JIG」
後部座席のドアを開けたアダムスが声をかけると、足元にうずくまっていたJIGがもぞもぞと動き出した。
アダムスが助け起こすと、不機嫌そうに顔を顰めているJIGの顔が現れた。
「大丈夫ですか? 頭を打ったり、怪我はしていませんか?」
やや焦点の定まらないJIGの表情にアダムスが心配するが、
「ありがとう、大丈夫よ。それより、どうして居場所が判ったの?」
JIGが双子に手錠を外してもらいながら訊ねる。
「あなたの義眼にGPSを仕込んでいるからですよ」
「ああ、それで・・・!」
JIGの納得した顔が引き攣った。
「音声は入ってませんから、安心して下さい」
「そういうことじゃなくて、何でGPSなんて付けたのよ? 私は何も聞いてない!」
「貴方の身を守るためです。現に役に立ったでしょう?」
アダムスの冷静な答えにJIGの怒りも矛先を失った。
「文句は後で聴きます、まずは此処を離れましょう」
アラーム音の中、かすかにパトカーのサイレン音が入り混じっていた。
警ら中に交通事故の通報が入った時、ブライアンは密かにそれを喜んだ。相変わらずハリーとの間には気まずい空気が流れていたからだ。
ブライアンが運転する車がちょうど事故現場へと続くブロックを曲がろうとした時、目の前を一台の車が走り去った。
「おい、今の車を追え!」
ハリーの怒鳴り声に近い指示にブライアンは直ちに動いた。しかし前方を走る車が事故に関係しているとは思えない程、外見に異常な点は見られなかった。
「どうしてあの車を追うんですか?」
ブライアンがそっと訊ねると、ハリーは「勘だ、勘」と言い切った。
尾行に気付いた車がスピードを上げる。
「そこの車、今直ぐ止まれ!」
ハリーが拡声器で呼びかけるが、車は止まろうとしない。それどころか、深夜遅い時間だから車も昼間と違って少ないため、逃走車は平然と信号無視をくり返す。
「本部、こちら27号車! 先程の事故現場付近で不審な車両を発見、現在追跡中! 至急お」
ハリーの無線連絡が終わらない内に、逃走車の運転席側の窓が開き、何かが出てきた。
「うえんを・・・」
ハリーもブライアンも驚く中、運転席から出てきたそのそのフルスモーク・ヘルメットを被った人物は窓の桟に腰かけるなり、抱えたライフルの銃口をこちらに向けてきた。
「まずい!」
ハリーの声が発せられた瞬間、フロントガラスの下部にひびが入った。
「本部! 相手はライフルを持っている! 今撃たれてフロントガラスにひびが入った!」
ハリーが無線機で怒鳴る。
相手は更にもう一度撃ってきたが、ブライアンが咄嗟に隣の車線の方へハンドルを動かしたので、今度は外れたようだ。
「ハリーさん、運転を代わって下さい!」
「は? おい、何する気だ!?」
ブライアンは窓を開けると、アクセルペダルに足を置いたまま、肩から上の身体を外へ乗り出した。
相手はこちらの意図に気付いたらしく、また撃ってきて、パトランプが割れる。
ブライアンは揺れるパトカーをものともせず、腰の拳銃を手に取ると、一瞬で構え、撃った。
瞬時にヘルメットを被っていた人物の手からライフルが滑り落ち、姿勢が後ろへ崩れた。
ハリーが声を出す間もなく、ヘルメットの人物は車の中に引きずり込まれた。
「おい、撃ち殺したのか!?」
ハンドルを握るハリーが声をかける。
「ヘルメットの右側をわざと掠めただけです!」
ブライアンは前方の車から目を離さずに銃を構えたまま答えた。
それでも逃走車は止まらずに走り続けている。
「本部! 応援はまだか!?」
ハリーが無線で催促したその時、突然、前の車の屋根やドアなどの外装パーツが次々と外れ、激しく地面に叩き付けられた。ブライアンは思わずブレーキペダルを踏んだが間に合わず、地面を滑るリアバンパーに乗り上げ、舌を噛みそうになった。
中身が剥き出しになった車はどのような仕組みなのか、連結された2台のバイクに変身しており、フルフェイスのヘルメットをそれぞれ被った二人の運転手は、走行しながらも連結部分を切り離し、交差点で左右二手に別れてしまった。
「な、な・・・」
あまりの出来事に呆然としたブライアンは、子供の頃に観たテレビ番組に登場する変身メカを思い出した。
「んんんふざけやがってぇぇっ!!」
ハリーが無線機を乱暴に叩いた。ハリーの度重なる怒りを肌に感じたブライアンは、ハンドルを再び握ってアクセルを踏んだ。
その時、彼らの横を駆け抜けた影があった。
「バットマン!!」
黒い大型バイクに乗った見覚えのあるその後ろ姿はマントをたなびかせ、バイクが走り去った交差点を右に曲がった。
「どっちを追います!?」
「左のバイクを追え!!」
交差点を左に曲がると、まだバイクの姿が見えた。
「そこのバイク、停まれ!」
ハリーの怒鳴り声が拡声器を通じて大通りに響き渡る。
するとバイクは急に180度方向転換するなり、パトカーの横を抜けるつもりなのか、こちらに向かって走り出した。
ブライアンはパトカーを横向きにして逃走を阻止しようとしたが、あろうことか、バイクは後輪走行で向かってきた。
「下がれ、ぶつかるぞ!」
横向きにしようとしていたために、パトカーを後退させるギヤチェンジ操作が僅かに遅れてしまった。
バイクの乗り手はバイクから腰を上げるなり、バイクから飛び降りた。
「伏せろ!!」
ハリーの手がブライアンの頭を抑え込んだ直後、バイクはフロントガラスにぶつかり、衝撃で割れたガラスの破片が二人に降り注いだ。
不気味な音が天板から聞こえ、後方へと下がった音は、巨体が空から落下したような衝撃と共に静かになった。
「と、止まった・・・」
ブライアンが安堵の溜息を吐く。
ハリーがそっと様子を伺うと、着地に失敗したのか、フルフェイスのヘルメットを被った逃亡者は地面から起き上がるところだった。
ハリーが勢いよくドアを開けると、その音に気付いたフルフェイスは身をひるがえし、細い路地へ走り出した。
「待ちやがれ!!」
後ろでブライアンが何か喚いたが、今のハリーにはそれを聞く余裕は無かった。
フルフェイスは路地や大通りを縦横無尽に駆け抜けていく。ハリーも必死で追いかけるが、自身の体重のせいで、逃亡者との距離は徐々に開いていった。他の通行人が巻き込まれる可能性もあるため、うかつに銃を発砲することも出来ない。
やがて大通りに出たフルフェイスは、その大通りで唯一営業中だったダイナーへと駆け込んだ。
ガラス張りの店内には数人の客が散らばって座っており、フルフェイスはカウンターに座っていた中年男性客の肩を掴んでいるのが見えた。
「全員動くな!」
ハリーが拳銃を手にして、勢いよく店に飛び込むと、店内にいた者全員が振り返った。
「あいつです! あいつが銃で私を襲ってきたんです!」
フルフェイスがハリーを指差して叫んだ。
「俺は警察だ!」
「だから何だ? 銃を見せびらかしながら俺の店に来る奴は客じゃねぇ、強盗だ」
カウンターの向こう側に立っていた店主らしき高齢の男がライフルをハリーに向けながら言った。フルフェイスが他の客たちと一緒に店の奥へと後ずさる。
「さっさと、銃をカウンターの上に置け」
店主が命令する。銃弾装填の音が店主を無視しないよう、ハリーに警告した。
「俺はゴッサム市警だ。証拠なら俺のポケットに入っている」
「そう言って身体検査させるために近付かせて、相手の腕を捻るんだろ? 映画で観たぞ」
客の一人が無茶苦茶な理論を言い出し、他の客もそれに賛同した。
「映画と現実を一緒にするな!」
ハリーが怒った直後、他の客たちの一番後ろにいたフルフェイスが天井に向けて銃を発砲した。
銃声のせいで店内はパニックに陥った。
ハリーが異様な興奮状態に陥っている店主を宥めようとしたが、今度は連続して銃声が響き、通りに面した窓ガラスが粉々に砕け落ちる。
店主と客たちは勇敢なことに一斉に拳銃を持っているハリーに殴りかかり、彼が本当に警官であると判った時には、とっくにフルフェイスは姿を消していた。
警察無線を傍受している時は、どんな内容であってもなるべく現場に足を運ぶようにしていた。
その時も交通事故発生の連絡を受けたバットマンは現場へとバイクを走らせていた。
現場近くに来た時、それまで聞こえていたパトカーのサイレン音から、パトカーが急に方向転換したことに気付いた。音は自分がいる方向へ向かってきている。
バットマンがバイクのスピードを緩めてパトカーの動きを警戒していると、散発的な銃声が聞こえ、目の前の交差点を一台の車が走り抜けた。その直後をパトカーが追いかける。パトカーの運転手は拳銃を構えていた。
バットマンは単純な交通事故ではない出来事が起きていると知り、謎の車の追走劇に加わったのだ。逃走車が2台のバイクに姿を変えた時には、かなり大きな犯罪組織が関わっているのではないかと推測した。通常のパトカーだけで追うには難しいかもしれない。
二手にバイクが別れてしまった以上、どちらも同時に追うことは出来ないので、右側のバイクを追った。後方にいたパトカーはありがたいことに左側のバイクを追うことにしたようだ。
目の前を走る逃走者は後ろを一度だけ振り返ると、更に加速した。
バットマンも周囲の状況を警戒しつつ、バイクを加速させ、徐々に相手に近付いていく。
やがて相手のバイクとの距離が縮まり、並走する形になった。
フルフェイスが急にバイクを傾け、バットマンのバイクにぶつけようとした。
しかしバットマンがそれをかわすと、フルフェイスはバイクから立ち上がるなり、バットマンに飛びかかって来た。
「っ!!」
いきなり重量が増えたバイクはバランスを崩し、危険を感じたバットマンは直ちにバイクから飛び降りた。フルフェイスも身軽な動作で地面に着地し、乗り手を失った二台のバイクは通りの先で横倒しになって止まった。
フルフェイスが懐に手を差し入れながら、緩慢な動きで立ち上がり、バットマンに見せつけるように、取り出した拳銃を高く掲げて見せた。
こちらに銃口を向けるつもりかと警戒したが、相手は何故かバットマンに銃口を向けようとせず、バットマンの右後方に向け、そのまま動きを止めてしまった。
一体何を企んでいるのかとバットマンは相手の挙動を注視したが、相手は何も言わない。
後ろに何かあるのか、それともバットマンが気付かない内に、後方にフルフェイスの仲間がいるのか。
急に、フルフェイスは肩を小刻みに揺らし始めた。ヘルメットが僅かに左右に動き、表面を撫でる街灯の明かりがちらちらと動き回る。
フルフェイスが空いている片方の手で、銃口が向けている方向を見るように促した。
「・・・・・・?」
フルフェイスは尚もバットマンの右後方を指差している。
いつでも次の行動に移れるようフルフェイスの動きを警戒しながら、バットマンは振り返った。
その先には集合住宅が建っており、小さな玄関ポーチから漏れる白い明かりが目の前の通りを照らしているが、そこには誰もいなかった。
少しずつ視線を周囲に広げると、その集合住宅の3階の窓に、少年がこちらを見下ろしている姿が目に飛び込んできた。他の部屋の窓は薄暗い中、少年がいる部屋の明かりは点いていたため、少年の強張った表情が余計に目立って見えた。
「あの子を人質にする気か?」
バットマンが憎々しく問いかけるが、フルフェイスは銃口を少年に向けたまま、今度はバットマンたちがやって来た方向を指差した。
横目で見遣れば、こちらへ猛スピードで向かってくるライトバンが一台あった。ライトバンのドアは開いており、銃声と共にバットマンの足元を銃弾が抉る。
バットマンが銃弾をかわすも銃弾は更にバットマンを追い立てるように地面を抉り続ける。
車がややスピードを緩めると、フルフェイスは開いていたドアからライトバンに乗り込み、走り去ってしまった。
念のために位置発信機をライトバンに投げつけたが、途中でライトバンを乗り捨てる可能性は高い。
それでもバットマンはライトバンを追うために、自身のバイクの元へと駆けて行った。
応援のパトカーが到着すると、周辺を警戒するよう伝えたブライアンは、ハリーを探しに逃走者とハリーが消えた路地裏を抜け、隣のブロックの大通りに出た。しかしハリーの姿は見当たらず、せめて逃走者の手掛かりになりそうなものは無いかと周囲を見回しながら、ハリーの携帯電話に電話をかけた。
呼び出し音が続く中、一人の若い女が歩いていることに気付いた。アジア系の顔立ちの女はこの季節にはややそぐわない薄着で、ズボンは擦り傷や汚れが付いている。何かの犯罪に巻き込まれたのか、それとも薬物依存者かもしれない。
「ちょっと、そこの君」
ブライアンが声をかけると女は立ち止まった。
「訊きたいことが」
「あ」
ブライアンが質問しようとした時、女が小さく声を発した。
直後に後頭部から激痛が走り、ブライアンの目の前が真っ暗になった。
「あー」
女の呆れたような、小馬鹿にしたような溜息が遠くで聞こえた気がした。
2020年5月29日