12. A PROPOSAL FOR PEACE

 男は常宿の場所である、外壁に据え付けられた非常階段の下に腰を下ろすと、夜の寒さで冷えた身体を毛布で包んだ。今夜は風が無いとは言え、月の姿も見えない程曇っている。僅かな寒暖の差が翌日の体調に影響を及ぼすのだ。
 なるべく肌を晒さないように、身をすくめて縮こまっていると、視界の隅に誰かの足元が視界に入ってきた。
 男が見上げると、草臥れたハンチング帽を目深に被った、無精ひげの顔が彼を見下ろしている。
「あんたの顔を見たのは今夜で四度目だ」
「五回目になると、記念品がもらえるのかい?」
 深夜まで営業をしているファーストフード店の紙袋を差し出す、無精ひげの男からつまらないジョークを飛ばされ、男は聞えよがしに鼻を鳴らした。
「ミスター・ストリート、珍しいニュースがあれば是非とも聴きたいね」
 “ミスター・ストリート”と呼ばれる男の隣に、無精ひげの男が座った。
 無精ひげの男―“ミスター・ストリート”に因んで“ミスター・ライター”と自称する―は、この街の噂話を聞きたがる記者だった。半年前からこうやって夜中にふらりとミスター・ストリートの前に何度か現れている。最初は、敵対組織を潰す口実を探すギャングの一人かと疑っていたが、どうも目の前の男はどこの組織にも属していないようだった。他の者のように高額な報酬をちらつかせず、毎回ファーストフード店の軽食を手土産に持って来る。聞き知った情報を記事として執筆し、公表している様子も無かった。だからと言って警戒心を解いたわけではないが、今ではミスター・ストリートは記者の男に対して、この街の裏社会に身を置いている者なら誰もが知っている程度の、当たり障りのない範囲の話をするようにはなっていた。
「ニュース、新しいものと書いてニュースとはよく言ったものだ。まあ、珍しさの度合いにもよるな」
「ミスター・ストリートにとっての“珍しいニュース”と、俺にとっての“珍しいニュース”は違うかもしれないし、同じかもしれない。それならば一度話してみるべきだと思うんだが?」
「あんたは記者だろう? 特ダネなら自分の足で探すべきだろ」
 休息の時間を邪魔されたので、頭まで毛布を被って文句を言うも、記者は、
「自分の足で探すことの中には、人に尋ねることも入っている」
と、開き直った態度を見せた。
 ミスター・ストリートは大きく溜息を吐きながら身を起こした。
 黙って手を差し出すと、記者はミスター・ストリートの手に持っていた紙袋を置いた。紙袋の中の飲み物が、冷えた手を温める。
「お尋ねモノがいる」
 ミスター・ストリートは紙袋から紙コップを取り出しながら言った。
「この大きな街で人探しは難しいのでは?」
 ミスター・ストリートが不機嫌そうな顔を浮かべると、記者は困った顔で、
「悪かった、続けてくれ」
と、先を促した。
「この街で人を探すのは難しいようで、実は簡単だ。相手の特徴を伝えれば、あとは勝手に広がっていく。そいつが珍しい特徴を持っていれば尚更見つかりやすいもんだ。俺のところにもそいつを見かけていないかどうか訊かれたよ。残念だが、俺はまだこの目で見ちゃいない」
「そんなに、この辺りでは見かけないタイプの人間なのか?」
 ミスター・ライターは記者という性分からなのか、話の腰を折る悪癖があるようだった。
「アジア系の片目の女だ。ただ、特徴があり過ぎて、そんな奴はいないと皆、思い込んでいる」
 ミスター・ストリートは紙コップに口をつけた。
 温かいスープの香ばしい匂いが漂う。
「麻薬売人が教会で吊るされていた事件、その女が関わっているらしい」
「へえ、警察もその女を探しているのか?」
 ミスター・ストリートは片手で空を振り払う仕草を見せた。
「まさか。今のゴッサム市警は教会から誘拐された子供たちの事件に忙しいからな。売人同士の揉め事は後回しになっている。イタリア系ファミリーが一度はその女を捕まえたらしいが、返り討ちにあったんだと。少し前に起きたイタリアン・レストランの放火事件、あのレストランの経営者が麻薬売人の元締めなんだ」
 ミスター・ライターが身体を震わせた。
「その女、かなり格闘に強い人間なのか?」
「どうだかな。俺はこの通りの住民が今夜食べる晩飯のメニューは当てられるが、相手の強さについてはからきし駄目だ」
「その女を探し出してどうするつもりだ? 見せしめに殺すのか?」
 冗談混じりの声に対し、ミスター・ストリートは辺りを伺ってから小声で言った。
「そんなつまらないことはしない。あの組織のボスは取引を邪魔した奴を殺しても、取引相手や他の組織との信頼関係が元に戻せないと知っている。むしろ、自分の利になるよう、出来るだけ長く生かして絞り取るやつさ」

 歌いながら車を運転するJIGとは対照的に、アダムスは少々眠気を感じていた。
 夜遅い時間のため、道路を走る車の数は少ない。
 先ほどから隣で歌われている言葉はアダムスの知らない言語であるが、どうも同じ歌詞をかれこれ五回は繰り返しているように聞こえる。
 JIGに何の歌かとアダムスが訊ねると、「ゲッコウカメン」と一言だけ返された。
 他に持ち歌は無いのかと思ったが、JIGは何か作業を始めると、一時間は同じ曲をBGMとして繰り返しているので、彼女としては非常に機嫌が良いことの証なのだろう。現に、新しい“材料”が手に入り、後部トランクに積んだ時から彼女は歌っている。
 急にJIGが歌うことを止め、車はゆっくりと交差点前で停止した。
「ここの信号、長いんだよね」
 車のエンジン音が微かに社内に聞こえる中、JIGがぼやく。
 後ろから来ていた車が車線変更し、JIGとアダムスが乗る車の右隣に並んだ。
 JIGは猫のように身体を伸ばし、背もたれに寄りかかった。
 交差点を挟んだ対向車線に車は無い。
 右角から一台の乗用車が交差点に入り、JIGとアダムスが乗る車の前を横切ろうとした。
 突然、その車が急停止した。
 アダムスが様子を伺おうと身体を前に乗り出した。
 正面の車は窓にスモークフィルムを貼っており、中の様子が伺えない。運転手は車から降りる気配も無く、エンジンがかかったままだ。
 アダムスがJIGに声を掛けようとした瞬間、危険を感じたJIGが舌打ちし、車を後退させてこの場から離れようとした。が、車が後方へ動き出した途端に、何かにぶつかり、車体が大きく揺れた。瞬時に、いつの間にか真後ろにいた別の車のライトによってバックミラーの視界が潰される。
 それを合図に正面の車や他の車のドアが一斉に開き、何人もの男たちが降りてきた。彼らはJIGとアダムスが乗る車を取り囲んだ。
「あなたの知り合い?」
 JIGが男たちの動きから目を逸らさぬようにしならが訊ねるが、
「いいえ、JIG、あなたの知り合いでは?」とアダムスも訊ねた。
「私の知り合いって、片手で数えられるぐらいだから」
 男たちはマスクなどで隠すことも無く、オレンジ色の街灯の下、堂々と二人にその顔を晒していた。出身も肌の色もバラバラで、メキシコ系やロシア系、アラブ系もいればアジア系もいるが、一様に二人に用がありそうだった。
 集団の中から一人のロシア系の男が歩み寄り、JIGが座る運転席側の窓ガラスをノックした。
「私が考えるに、これは集団強盗じゃないかしら?」
JIGはノックする手を横目に見つめながら言った。
「集団強盗にしては挨拶の仕方が穏やかですね。これ程の人数なら我々を降ろさずとも」
 しびれを切らしたのか、ノックしていた男が何かを振り上げた。
 JIGが咄嗟に顔を腕で覆った。と同時に、窓ガラスが砕けた。
 アダムスがJIGの襟首をつかみ、降りかかるガラス片から彼女の身体を引き寄せるも、アダムスの背後でも窓ガラスが壊された。
 アダムスは手に持っていた杖で反撃しようとしたが、後頭部に押し付けられた物体の感触に観念し、両手を挙げた。
 JIGも「背中にレバーが当たって痛い」と文句を言いつつも、アダムスにならい、降参のポーズをとった。
「出ろ」
 最初に窓をノックした男はJIGの咽喉元に突き付けた銃口を僅かに上に動かし、そう言った。
 
 突如、銃声が聞こえ、ミスター・ストリートと記者の二人は身を強張らせた。
 屋内で発射された時のような、ややくぐもった音ではなかったが、二人がいる通りを見渡す限り、人影は無かった。
「このブロックの向こうか」
 ミスター・ライターは立ち上がり、建物を挟んだ反対の通りへ行こうとする。
「おい、命知らずな真似は止めろ」
 ミスター・ストリートは止めるが、その忠告は彼にとっては不要だった。
「様子を見てくるだけだ」
 ミスター・ストリートが小声で罵るが、彼は振り返ることも無く、足音も立てずに細い裏通りを走り抜けた。
 建物の影に身を潜ませながら大通りを伺うと、交差点には数台の車が停まっており、十数人の男たちが一台の車を囲んでいる。
 囲まれた車の運転席側のドアがロシア系の男によって開かれ、一人の女が引きずり降ろされた。
 助手席側のドアも開かれ、男が引きずり出される。男は脚を怪我しているのか、立ち上がろうとしても立ち上がれず、地面に座り込んだ。十数人の男の内の一人が、座り込んだ男に、持っている杖を差し出した。
 座り込んだ男は杖を受け取ろうと手を伸ばしたが、杖の先は男の手を乱暴にも跳ね除けた。
 痛む手を庇う男の仕草に、周囲の男たちは嘲笑った。その非道な行為に、運転席側から降ろされた女が大声で抗議したが、周りの男たちによってたかって地面に押さえつけられてしまった。
 片袖を後ろから引っ張られたので振り返ると、ミスター・ストリートが震えながら背後に立っていた。
「おい、もういいだろ。変な正義感を出すのは止せ」
「しかし・・・」
「命は一つしか無いんだ。それを捨てる気か?」
 此処でミスター・ストリートの言葉を無視し、あの集団に一人で戦いを挑むことは、“バットマン”として培ってきたこれまでの経験からそれほど難しいことではない。だが、そんなことをすればミスター・ストリートに正体を怪しまれ、今までに築いた関係性は崩れてしまうだろう。
 記者に変装したブルースは内心、歯噛みしながら、二人を乗せて立ち去る車の集団を見送った。

 その部屋を初めて訪れた者は、まず初めにその部屋の奇妙な広さに驚く。そして直ぐに、その広い部屋には仕切りとなる壁や覆いが一枚も無いことに気付く。ベッドやクローゼット、バスタブ、果ては便器までが無防備なまでに晒されているのだ。部屋の中央に置かれた大きな丸テーブルの傍には、一人の男が椅子に座っている。
 背もたれに寄りかかり、長い髪の毛の房を掴んで、その毛先で首筋を撫でている。もう片方の手は、電話機だけが置かれた丸テーブルの縁を掴んでいる。
 部屋の片隅にある、下階へと続く階段を上って来る騒々しい足音が聞こえると、虚空を見つめていた男の瞳の奥が輝き、男は髪の毛束から手を離した。
「私、この国に来てからまともな招待を受けたことが無いんだけど」
 席に座らされ、頭に被せられていた布袋を取り除かれるなり文句を言うJIGを、招待者は無表情で見つめていた。
「それは失礼、これでも気をつかったつもりなんだがね」
 表情を変えることもせず、一昔前のテレビや映画に登場するロボットのように無感情に発音する男に、JIGはますます嫌そうな表情を見せた。
 JIGの隣に、アダムスが座らされる。
「俺はアルバート、まずは握手をしよう」
 アルバートと名乗った男が手を差し伸べてきた。
 JIGは、アルバートの手と顔を交互に見比べた。
 しかしアルバートは手を引っ込めることも無く、JIGが握手するまで待っている。JIGはためらいがちにアルバートの手を握り、ちょっと振ると直ぐにその手を離した。
 アルバートは今度はアダムスにも手を差し出した。アダムスは躊躇うことなく、その手を握手した。
「あのイタリア人は、君をどのようにして連れてきたのかね?」
「イタリア人に知り合いなんていないけど?」
「寝言も言ってしまう程眠たいのなら、一度眠らせてから訊こうか?」
「そうしていただける? 普段ならもう寝ている時間だから」
 そう言って顔を俯かせたJIGは欠伸をした。
 男はアダムスの方を見遣った。
「随分と落ち着いているんだな、あんた」
「落ち着いているように見えますか。本当は怖くて堪らないんです」
 微笑むアダムスにJIGは、
「あなたのその発言で、更に眠くなってきたわ」
と、呟いた。
「あんたはこの女と、どんな関係なんだ?」
「パトロンです」
 アダムスが真剣な表情で答えたが、周囲にいた者たちは冗談だと思ったのか、身体を震わせ、互いに視線を交わして吹き出した。しかしアルバートだけは笑いもせず、アダムスを見つめている。
「パトロンと名乗るからには、こいつが何をしているか、知っているのだろう?」
「もちろんですよ。ただし、彼女がどんな行いをしているかという、あなたが持つ知識と、私が持つ知識が一致しているかは、まだわかりませんが」
「俺はそういう煙に巻くような物言いは嫌いなんだ。憎んでいると言っても良い」
 アダムスはアルバートの静かな怒りを無視し、
「まだ起きていた方が好いみたいですよ」
と、JIGの身体を揺さぶる。
「教会に死体を吊るした事件、俺はあいつらのボスだ」
 JIGを揺さぶるアダムスの手の動きが止まった。
「別にあの取引を無茶苦茶にされたことに怒って、あんたたちを呼びつけたわけじゃない。むしろあんたたちと取引をしたいと思って呼んだんだ」
「・・・・・・」
「そこの女が」
 アルバートは顎でJIGをしゃくった。
「俺たちの仲間や取引に影響を及ぼさない範囲で、今度もあんな“パフォーマンス”をやってほしいんだ」
 JIGが眠い目を擦る。
「もちろん、金銭的な援助もさせてもらう」
「ここで何故そこまでするのか、私が理由を訊くと、あなたの計画が一歩前進するのでしょうね」
 アダムスの皮肉に、アルバートは初めて微笑んだ。
「理由は至極単純明快。警察や声の大きい市民どもの目を逸らせられるからさ」
「凶悪な事件を立て続けに起こせば、人々の耳目はあなたたちのような組織に向けられにくくなる」
「その通り」
「私一人では判断しかねますね、JIG、起きてください」
 アダムスがJIGの身体を揺するが、JIGは呑気に舟をこいでいる。
「トラブルが起きた原因を他の人間に押し付け、見せしめのために殺す。それを何度も繰り返したとことで何になる? そうやって何人もの人間を殺すよりも、違う道はないか模索すべきだ」
「・・・・・・」
「出身地だの血縁だので身内意識を高めようする奴らは、遅かれ早かれ自滅する。世界は多様だ。共に生きる。これはとても大事なことだ。俺はそういう信条を持って、この組織の上に立っている」
「はあ・・・」
JIGが理解しきれないような、曖昧な声を出す。
「お前が俺とあのイタリア人との取引を台無しにしたことは事実だ。だが、どんなに怒ったところで過去には戻れない。大事なのは未来だ。これからだ」
 力説するアルバートに対して、JIGは小さく唸りながら落ち着かなげに身体を揺する一方、アダムスは微動だにしない。
「過去には戻れない。では、どんな未来がお互いにとって幸せなのか。俺はよく考えたよ。帳簿を見ている時も、寝る時も、女とファ〇クしている時も」
JIGが頭を揺する。
「ようやく思いついてね。それでお前たちを此処に呼んだわけだ」
「・・・・・・」
「好きなように暴れてくれ。ただし、俺の組織の人間を殺すなら俺に直接許可をとってくれ」
 JIGはあからさまに嫌そうな顔をし、立ち上がろうとしたが、両肩を後ろに控えていた男に押さえつけられた。
「『好きなように』と言うと、どのようにでも解釈できそうな言葉ですね」
 アダムスの指摘にアルバートは大袈裟に呻き、己の額をわざとらしく音を立てて叩いた。
「俺としたことが! ここは外交の会談場所じゃないってのに! つまりだな、こちらの組織に影響を及ぼさない範囲であれば、この先、どんな風に死体を作ろうとも構わないという意味さ。教会の事件のように、こちら側に影響がある場合は、今日のように話し合いの場は設けるつもりだ」
「・・・・・・」
「これはビジネスと思ってくれ。あんたにとっては嬉しい申し出だろう?」
「確かに私にとっては嬉しい申し出ね。でもビジネスならば、あなたの利は?」
「俺の利は、あんたたちが警察に捕まらない限り、俺たちに向けられる注目が少なくなるということさ」
「私もあなたも、警察に捕まらないとは限らないと思うけど?」
 アルバートは笑った。
「組織犯罪と個人による猟奇犯罪とでは、検挙にかかる時間も、警察の意気込みも変わってくるのさ。世間の注目がある事件を放り出して、地道な調査を続けて組織のボスを捕まえたところで、警察はヒーロー扱いなんてされない。金にせこい集団よりも、凶悪な犯罪者一人を捕まえた方が世間は喜ぶってわけだ。もちろん、あんたたちが掴まらないよう、俺は最大限の協力をする」
「もし私が断ったら?」
「もし、なんて言葉は通用しない。この話は聞かなかったことにしてもらう」
 JIGの項に銃が突き付けられた。
「共に生きるために殺さないんじゃなかったの?」
 アルバートはJIGの嫌味に笑った。
「大勢の人間が生きていくためには、少しの犠牲者が出ることは仕方ない」
 ぶつぶつと文句を呟くJIGに、
「私はあなたの意見に委ねますよ」
と、アダムスが言った。
「わかった」
 JIGは少し考えていたようだが、すぐに口を開いた。
「この話、聞かなかったことにする」
 アルバートは大笑いした。
「理由は?」
「私はね、頭が悪いし、あなたたちの組織の人間の顔をいちいち覚えていられないと思うの。きっと、うっかりあなたの組織の人間を殺すこともあると思うわ。だから聞かなかったことにする」
「それは残念」
 アルバートが合図すると、アダムスが無理矢理立たされた。
「利用できるものは最大限に利用するのが俺のやり方でね」
 睨むJIGを見つめ返しながらアルバートは言った。
 アダムスは両腕を屈強な男たちに掴まれ、階段を下りて行った。
「やっとこうやって会えたんだ。だからゲストを呼んだ」
 いぶかるJIGを前に、アルバートは何処かに電話をかけた。やがて、階段を上って現れた“ゲスト”はJIGの顔を見るなり、微笑んだ。
「また知らない人が現れたわ」
 顔をしかめるJIGの前に立つと、“ゲスト”は右手を差し出した。
「初めまして、記者のウィルです」
 
 アダムスを乗せた車は港湾地区に入って行った。
 先程のように顔を覆われていないが、やけに落ち着いた態度で車窓を過ぎ行く景色を見つめるアダムスを、彼の始末を命じられた男たちは胡散臭そうに見ていた。
 積み上げられたコンテナの間を走り抜けると、車は大きな鉄橋の下に停まった。欄干の街灯の明かりが届かない暗がりの中、アダムスとJIGが乗っていた車が置かれ、その車の傍には誰かが立っている。
 車の傍に立っていた男―よく見れば、アダムスから杖を奪ったロシア系の男だった―は、早く降りろと言わんばかりにアダムスの杖で地面を叩いた。
 アダムスはことさらゆっくりとした動作で車から降りた。杖を持っていないので、ドアにかけた手は離さなかった。しかしアダムスの後に続いて車から降りようとしていた男から背中を銃口でつつかれたので、アダムスは肩をすくめ、ドアから手を離し、バランスを崩さないよう、すり足で車から離れた。
「行きずりの死体のせいで気が狂って、海の中に車で飛び込んだ、という筋書きだ」
 杖をこつこつとリズミカルに叩きながらロシア系の男が言った。
「ビビってるのか? それとも杖が無いから震えているのか?」
 アダムスの背中を銃口でつついた男が挑発したが、アダムスは何も答えず、振り返ることも無かった。
 男は自分を無視された怒りから、アダムスの膝裏を後ろから蹴り上げた。
 アダムスは転ばないよう身体を支えようとしたが、無残にも固い地面に身体を打ち付けてしまった。
 突如、彼らを囲んでいた内の一人が一瞬のうめき声と共に、背中から海へ落ちてしまった。
 ロシア系男は溜息を吐き、海に滑り落ちた男を助けるよう、傍に居た仲間に指示した。
 指示された男も海の方へ身体を向けようとしたが、その男も何かで足を滑らせたらしく、後ろに転んだ。
 ロシア系男とアダムス以外の者が、二人を笑った。
 すると今度はアダムスの後ろに立っていた男が、横に倒れた。
「おい、ふざけるのは」
 ロシア系男が怒鳴ろうとしたが、倒れた仲間は何故か腹を押さえ、不自然なまでに身体を震わせている。
 仲間を起こそうと肩に手をかけると、その身体はぐるりと仰向けになり、黒々と血にまみれた服を晒した。
 異変が起きた事に気付いた瞬間、また一人、今度は前に倒れた。
「くそっ! 仲間を呼んだな!」
 その言葉に反応した他の者たちも、武器を持っていないアダムスを殺すよりも、まずは己の身の安全を確保すべく、一斉に物陰に隠れ、周囲を警戒した。
 銃声は聞こえないが、腹部を撃たれた仲間のうめき声は聞こえる。
 ロシア系男は物陰から銃口だけを出し、アダムスがいる方向へ闇雲に撃ち込んだ。
「俺たちまで殺す気かよ、おい!」
 仲間の一人がロシア系男が隠れている車の影にやって来て文句を言った。
「黙れ! 今すぐボスに連絡しろ!」
 ロシア系男は、今度はアダムスが逃げて隠れていることを見越して、広い範囲にわたって撃ちこんだ。
 しかし銃声が響き渡ったせいで、ロシア系男の耳は周囲の音が聞き取りにくくなってきた。
 あまり長く撃てば一時的な難聴に陥り、更に危険になる。
 ロシア系男はアダムスの動きを見ようと顔を覗かせたが、アダムスの姿は見えない。
 ボスに連絡している様子がないことにしびれを切らした男が後ろを振り返ると、いつの間にか二人の男が彼を見下ろしていた。
 仲間の身体が男に寄りかかった。
 その二人の男の顔は、彼にとって初めて見る顔であり、尚且つ、最期に見た顔でもあった。

「怪我はありませんか?」
 双子の一人が差し出した携帯電話からボブの声が流れた。
「助かったよ、ありがとう。何処から撃ったんだ?」
「橋の下からです」
 双子のもう一方に身を起こされたアダムスは橋を見上げたが、鉄骨が組まれた橋の真下は暗闇に包まれている。
「見た所、怪我をされているようですね」
「心配ない、義足を撃たれただけた」
 ボブが僅かに息をつめたような気配が電話越しに感じられた。
「大丈夫だ、支障は無い。それよりJIGの居場所は?」
「郊外へ向かって移動してます。移動速度から察するに、車に乗っていると思われます」
 双子の一人がアダムスに杖を差し出す。
「よし、現地で集合だ」

2018年6月27日