11. THE COLD WAR ERA

 室内にブザー音が短く響いた。
 ヴィッキーは天井を見上げていた目を閉じた。
 再びブザーが鳴らされた。今度はノック音まで追加された。
 ヴィッキーがベッドの上で身動きせずにいると、ブザー音もノック音も途絶えた。が、今度はベッド傍の床の上に置かれた携帯電話が震えだした。緊急時に備えて編集長から渡された携帯電話が、必死に彼女に己の存在を知らしめている。
 彼女は目を開いた。煙草の脂で黄ばんだ天井が視界を占めている。
 溜息を吐きながら身体を起こすも、ベッドからすぐには立ち上がらずに、じたばたと暴れる携帯電話を暫くの間、見下ろしていた。電話をかけてきた相手は諦めの悪い人間らしく、いつまでも鳴らしている。
 遂に携帯電話を拾い上げようとした途端、部屋のドアが再びノックされた。
「俺だよ、ウィルだ」
 ドア越しのため、部屋の中へ届く声は小さかったが、確かにウィルの声だった。
 ヴィッキーは振り向き、ドアを見つめた。
 ドアから目を離さずに携帯電話の通話ボタンを押すと、
「ウィル?何処から電話をかけているの?」
「モーテルの部屋の前だけど? 君こそ、何処かに出掛けているのか?」
 ヴィッキーは小さくため息を吐き出し、ベッドから立ち上がると携帯電話をベッドの上に放り投げた。ドアの前に立ち、一度だけ深呼吸すると、ドアのチェーンロックを外した。
 勢いよくドアを開けると、携帯電話を耳に当てたウィルが立っていた。
 ウィルは彼女の顔を見るなり、
「不用心だな、いきなりドアを開けて。もしパパラッチだったら、どうするんだ?」
と、彼女の軽率な行動を非難した。
「“同業者”があなたの声を真似できるとは思えないし、この場所がよく知られているのであれば、編集長の見る目もその程度だったってことになるわ」
 ヴィッキーの反論に、ウィルは肩を竦めた。
「入ったら?」
 ヴィッキーに促され、ウィルは部屋に入った。
 ウィルは不躾にも、部屋の中をじろじろと見回す。
 ベッドとデスク、隅にはテレビが置かれ、奥には浴室がある。何処にでもある部屋だった。
「お酒の瓶が転がっていなくて、がっかりした?」
 ヴィッキーの嫌味ともとれるジョークに、ウィルは頭を振った。
「君の場合、事件についての資料が散らばっている方が似合うよ」
「此処にはパソコンもプリンターも無いから、切り抜き記事で新しい壁紙を作ることなんて出来ないのよ」
 ヴィッキーの視線につられて、ウィルも部屋の隅に置かれたテレビを見遣った。画面には、ニュース系番組のみを取り上げるケーブルチャンネルが映されている。
 ヴィッキーはウィルにデスクに座るように言い、自身はベットの端に腰かけた。
「あれから何か進展はあった?」
「君の家に、君の両親が来たことぐらいだよ」
「その他には?」
「何も無いよ。警察の方も混乱している。事件の規模から見て、犯罪組織によるものとみられているけれど、犯行声明も無いからね」
「ジョーカーの影響を受けた集団によるものかしら?」
 ジョーカーによる一連の事件の直後、彼の禍々しさに影響を受けた一部の“ファン”が、強盗や殺人事件を起こしたのだ。
「それならトランプのカードなり、自分の存在を意味するものを置いていくはずだ。でも今回はそれが無い。カルト教団だとしても、FBIが警戒するような組織は、今のところゴッサム市内にはいないらしい」
「相手に関する情報が少ないだけに、厄介というわけね」
 ヴィッキーは今日で何度目かもわからぬ溜息を吐いた。溜息を吐く度に、両肩が大きく下がり、それが余計に彼女を疲れさせた。
「ところで、どうして此処へ来たの? わざわざ様子を見に来てくれたの?」
 普段のウィルなら、こんな時は「ドライブの誘いだと思った?」等と軽口を言うところだが、今日の彼は違った。
「ヴィッキー、この事件を追いたいと考えているか?」
「それがどうしたって言うの?」
「答えてくれ」
「追いたいわ。追わなくちゃ、私の気持ちが収まらない」
 ウィルの眉間の皺が更に深くなった。
「どうしてそんな顔をするの?」
 ウィルはヴィッキーから視線を逸らした。
「編集長は、ヴィッキー。君を、事件のほとぼりが冷めるまで、今の仕事から降ろすことに決めたんだ」
「へえ」
「次の仕事というのが、行方不明者の」
 ウィルの言葉が終わらないうちに、ヴィッキーは携帯電話を掴んだ。
「ヴィッキー!」
 ウィルの制止する声を聞き流し、あらかじめ登録しておいた編集長への携帯電話番号へかける。しかし、普段の編集長はワンコール以内に出る癖に、呼び出し音が数回鳴っても出ようとしない。彼女は苛々とダイヤルを掛け直した。
「ヴィッキー、編集長だって、よくよく考えて」
「どうして私があんな部署に追い遣られなければならないのよ!?」
 ヴィッキーは怒りのあまり、携帯電話を何度もベッドに叩きつけた。
 行方不明者の情報提供を呼びかける記事を担当する部署があるが、記事として掲載しても行方不明者に関する有益な情報が得られることは少なく、激務ではないこともあって、現状は資料整理や社内での雑事を主に行っている。口の悪い人間が見れば、閑職部署と渾名をつけるだろう。
「感情的になっている時点で、今の君は事件を追うべきじゃない。今の君は、いや、これからもずっとこの事件の被害者なんだ」
「だから?」
「この事件はあまりにも大き過ぎる。闇雲にぶつかっても、更に傷付くだけだ」
 ヴィッキーの目から涙がこぼれ落ちる。
「ヴィッキー、わかるだろう?」
 駄々をこねる幼児を宥めるような表情を浮かべているウィルに、ヴィッキーは己の気持ちが無視されたようなショックを受けた。
「諦めろってこと? 前と同じく? そんなこと、耐えられない」
「それでも耐えなきゃらならないんだよ!」
 大声で畳みかけられた衝撃で、ヴィッキーは嗚咽した。
「夫も子供も、犯罪で失った悲劇の女性として祭り上げられて、事件を追うどころか、今までの仕事を続けることさえ難しくなるんだ」
 ヴィッキーは唇を強く噛みしめ、握りつぶされそうになっている携帯電話を睨んだ。
「編集長も、皆も、君のことをとても心配している。君を守ろうと、最大限の気持ちを向けてる」
 ウィルの静かな口調が、ヴィッキーの感情を徐々に落ち着かせてゆく。
「耐えて、生きなきゃ・・・」

「いつになったら帰らせてくれるんだ?」
 疲労と寝不足のためにしきりに目を擦っている老齢の男が、デスクに座る制服警官の横立ち、訊ねた。
「事情聴取が終わり次第です」
 制服警官が顔だけを男に向けて答えた。制服警官の身体はデスクの上に散在する書類に向けられており、一刻も早く己の仕事を片付けたい気持ちが態度に表れている。
「それはさっきも聞いた。いつ、私の順番が来るんだ?」
 老齢の男は制服警官の気持ちを無視し、しつこく絡む。
「前の人が終わり次第です」
「せめて終わりそうな時間ぐらい、わかるものだろう?」
 硬い長椅子に腰かけたブルースは、目前で何度も繰り返されているやりとりにうんざりしていた。
 昨晩のパーティー会場での事件から一夜が明け、朝を迎えようとしている。
 あの場にいた客人のみならず、会場となったホテルの従業員までもがゴッサム市警本部に集められた。ただでさえ軽犯罪の廉で連行された者もいるのに、大勢の人間が一ヵ所に集められたとあって、人々の苛立ちは高まる一方だった。
 幸いなことにブルースはかなり早い時間に取り調べを受け終えた。しかし彼を担当した刑事が、ブルースに最後に署名させる書類を持ってくるといって彼を放り出してから、既に二時間は経過している。
 そろそろ会社の始業時間になるため、携帯電話で仕事の指示を出している者もいる。
「おはようございます、ブルースさん」
 顔を上げると、アダムスが立っていた。
「やあ、アダムス。君の方は取り調べは終わったのかい?」
「ええ、つい先程」
 そう言って、アダムスは小さくあくびを漏らした。
「失礼、ずっと緊張していたものですから」
「取り調べなんて、何度受けても慣れないものだよ」
「話にならんな!」
 制服警官と押し問答していた老齢の男が遂に音を上げた。
「ブルース、私は決めたよ! 今度こそ、この街を離れる!」
 老齢の男がブルースに向き直り、そう宣言した。
「この街に暮らして長いが、治安が良くなるどころか、悪くなる一方だ。挙句の果てに、凶悪な事件に巻き込まれて、警察署に閉じ込められる。君もさっさとこの街を離れるべきだ」
「そうすべきなのでしょうがね」
 ブルースの曖昧な態度に、老齢の男は、
「年寄りの助言は聴くべきだ」
と言い放ち、
「それで、私の前には何人の事情聴取対象者がいるのかね?」
と、再び制服警官に訊ねた。
「ああ、ミスター・ウェイン、此処にいたんですか?探しましたよ、全く」
 大きな声と共に、ブルースを担当した刑事がファイルを持ってやって来た。
「ずっと此処に居ましたよ」
 ブルースの答えをどうでもいいと言わんばかりに片手を振り、担当刑事はファイルから書類を一枚取り出すと、
「此処と、此処にサインを」
と、突き出した。
 ブルースがサインすると、相手はひったくるようにそれを受け取り、大きな足音を立てて人混みの間を駆けて行った。
「やれやれ、やっと釈放された」
 ブルースが冗談めかしていうと、アダムスもクスクスと笑った。
「君はこれから会社に行くのかい?」
「そのつもりです。でも、この分だと、会社に行ったところでまともに仕事が出来るかどうか」
 そう言ってアダムスは再び欠伸を漏らす。
「どうだい? 眠気覚ましにコーヒーでも飲んでいかないかい?」
「喜んで、御一緒させていただきます」
 二人が正面玄関を抜けると、玄関口に屯していた記者たちが目ざとく駆け寄ってきて、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
 アダムスが戸惑ってその場に立ち往生したが、ブルースは流石に慣れているらしく、アダムスより一歩前に進み出ると、
「まず、この事件の被害者遺族にお悔やみ申し上げます。一市民として、一刻も早い事件解決を祈ると同時に、ゴッサム市警にも協力を」
と、よどみなく言っていると、二人の後ろの正面玄関から市議が出てきた。
 記者たちは、市議の方がブルースやアダムスよりも“長い”コメントを得られると察し、今度は市議に次々と質問を投げかけた。
 記者たちの変わり身の早さにアダムスが呆然としていると、ブルースに腕をつつかれ、二人はそっとその場を離れた。

 ゴッサム市警本部から数ブロック離れたところに、コーヒーやサンドイッチなどを扱った移動販売車が駐車していたので、二人はそこでコーヒーを買い求めた。
 コーヒーを飲みながら早朝の道を歩いていると、アダムスが不意に、
「ブルースさんは怖くないんですか?」
と、ブルースに訊ねた。
 ブルースは首を少し傾げ、
「何が?」
と、アダムスの質問の先を促した。
「その、あんな惨い事件が起きたのに、さっきの方のように、この街を離れようとは思わないのですか?」
「僕は臆病だから、誰よりも怖いさ」
と、おどけて見せた。
「この街で暮らすのは会社のためですか? 何もこの街でなくとも、別の街で暮らしながらでも、あなたなら充分に会社経営が出来るのでは?」
「よく訊かれるよ。どうして犯罪が多いこの街に拘るのかって」
 彼自身、ゴッサムに見切りをつけようと世界各地を巡っていたこともあった。しかし結局、この街に戻って来た。
「この街には、思い出があり過ぎるんだ。悪い思い出ばかりだったら、此処を離れていたかもしれない。でも、悪い思い出と同じくらい、ずっと忘れたくない、大切な思い出もある。だから離れたくないんだよ」
 隣から足音が聞こえなくなったのでブルースが振り返ると、アダムスがやや後ろで立ち止まっている。
「貴方はとても強い人なのですね。私には真似出来ない」
 アダムスから尊敬の眼差しを向けられ、ブルースは急に気恥ずかしくなった。
「私の生まれた田舎町は、犯罪件数は少なかったものの、悪い思い出しかありません。そのせいないのか、幼い頃から都会への憧れがとても強くって」
「いい思い出が一つも無いってことはないだろう? 何かないのか?」
「そうですね・・・」
 アダムスは少し目を細めたが、何かを思い出したのか、口元が少し笑った。
「双子の兄と遊んでいた時が、一番楽しかったかな・・・」
「へえ、双子だったの? 一卵性の?」
「ええ、子供の頃、兄は事故で亡くなってしまいましたけど」
「すまない、嫌なことを訊いてしまって」
「気にしないで下さい」
 アダムスは静かに微笑んだ。
「もう、昔の話なのですから」

 その夜、ゴードンは市警本部屋上にて、街の灯りを眺めていた。
 コーヒーが入ったカップが指先を温めてくれるが、無防備な顔には冷たい夜風が当たる。
 煌々とした人工の灯りが眼下に溢れかえっているが、それでも視線を移せば、あちらこちらに光が届かない影がひっそりと存在している。
 人々はその影を忌避するかのように輝きに満ちた表通りを歩いている。そこにいれば、己の身は守られていると錯覚しているのだろうか。
 胸ポケットに入れていた携帯電話にメールが届いたことを告げるメロディが流れた。携帯電話を開くと、送信者は自宅にいる妻からで、子供たちはもう眠ったこと、あまり根を詰めて仕事をしないでほしい内容のメールだった。
 ゴードンは、あのパーティー会場に家族を連れて来なくて好かったと思った半面、また家族との距離が広がったような気がしてならなかった。
 息を吐いた時、背後に気配を感じたゴードンが振り返ると、周囲の灯りが届かない暗がりの中に、“影”が立っていた。
「誘拐事件の情報なら、君に渡せるものはほとんど無い」
 素っ気なく言うも、影は何も応えない。
 ゴードンは再び息を吐いた。
「現在、カルト教団との動きを追っているが、被害者の家族にマフィアとの繋がりが無いかも調べている」
「マフィアがあれ程の事件を起こすとは思えないが?」
 影が発した疑問に対し、ゴードンは首を横に振った。
「少し前に教会で発見された麻薬絡みの事件があっただろう?」
「聖母マリアを模した事件か」
「ああ。あの時、遺体を固定するワイヤーが、今回の事件で子供たちに使われていたワイヤーと同じものだった」
「・・・・・・」
「あのワイヤーは広く流通しているが、この近郊で売られている店は限られている。まして、あれ程の大量のワイヤーなんだ。偶然の一致とみるのは時期尚早だろう」
「・・・・・・」
「今解かっていることはこれだけだ」
 ゴードンは夜風で冷めてしまったコーヒーを飲んだ。
 気配は一瞬で消えた。
 ふと、彼は最後にベッドの上で眠ったのはいつだったかと思いだそうとしたが、思い出そうとする分、無駄な労力を使うことになると気付き、諦めた。

 その頃、ゴードンと同じように、最後に―硬いデスクに俯せになったり、狭苦しいパトカーの座席ではなく―ベッドの上で眠ったのはいつかと考えている者がいた。
「おい、ブライアン!」
 ハリーの声によって、ブライアンはしばしの夢想から現実に引き戻された。
「いつまでぼけっとしているんだ?裏口に車を回して来い」
と、ハリーが命じる。
「何処かへ出掛けるんですか?」
 ブライアンの質問に対し、ハリーは顔を更にしかめ、
「いいから黙ってやれ」
と、小さな声で言った。
 昨晩の事件による興奮と緊張状態のために署内の空気は殺気に満ちており、この空気から逃げ出そうとする者がいれば、捕えて椅子に縛り付けられることは間違いなかった。
「ハリー、ちょっと来てくれ」
 部屋の隅に置かれたホワイトボードの前で寄り集まっていた同僚たちに呼ばれ、
「何だ?」
と、ハリーは行きがけにブライアンの肩を叩いていった。
 ブライアンは、ハリー達がボードに貼られた現場写真について話し込んでいる隙に、ゴミ箱に溜まっているゴミを捨てに行く態で、そっとオフィスを抜け出した。
 ブライアンが裏口に車を停めて待機していると、ハリーが助手席に乗り込んできた。
 相変わらずむすくれた表情のハリーを横目に、ブライアンはエンジンを始動させ、街の中心部へと向かわせた。

 ハリーは時折、マスコミ勢を警戒しているのか、バックミラーやサイドミラーで後方を確認しつつ、大きな交差点に差し掛かるたびにブライアンに進行方向を指示していた。
 だが長く走らせている割には中心街から出ようとせず、同じ大通りを三度も走ることもった。
「それで、どこへ向かうんですか?」
 ブライアンが耐えかねて訊くと、ハリーは、
「行けばわかる」
としか答えなかった。
 やがてハリーは、
「そこの角を右に曲がって、しばらく行ったところのレストランで止めろ」
と、具体的な指示を出した。
 ようやく車の運転から解放されると思ったのもつかの間、ブライアンは店の看板を見るなり、エンジンをフル回転させようとした。だがその目論見はハリーの力強い手によって掴まれた肩の痛みのせいで、一瞬で瓦解した。
「おい、何処へ行こうって言うんだ?」
 肩の痛みに耐えながら車を停めたブライアンは、震える声で抗議した。
「ここ、マフィアの会合場所として使われているって噂の店じゃないですか」
「噂じゃなく事実だ」
 ハリーがドアを開けながら言った。
「マフィアが時々、会合に使っているだけで、店のオーナーは“永世中立”の立場を宣言している。商売の邪魔をしない限り、オーナーは警察にも情報を流してくれる。この店に入ったからといって、店の中で殺されるようなことは無い」
「だからといって、店の正面に車を停めるなんて危険ですよ。せめて数ブロック先か、この店の裏口に停めるとか」
 ブライアンが尚も小声で抗議すると、
「知っているか、ブライアン」
 ハリーは運転席に座るブライアンを覗き込みながら言った。
「この店の裏口はな、表通りと違って薄暗くってよ。人間が転がっていても暫くは気付かれないことが多いんだ」
「ご、御冗談を・・・」
「何なら裏口に行ってみたらどうだ?」
 ブライアンは唾を飲み込み、
「一緒に行きます!」
と、転げ落ちるように運転席から飛び出した。

 ハリーが店の入り口の重い扉を押し開けると、正面にはカウンターデスクが、左手には店内へと続く扉が据え付けられていた。カウンターデスクの向こうには黒いジャケットを着た女が立っている。
「やあ、店長に話があるんだが、居るか?」
 ハリーの言葉に、女はますます顔を顰めた。
「居るなら、俺たちに会ってくれるか訊いてくれるだけでも、こちらとしては充分なんだがね」
 女の口元が舌打ちしかねない程に歪んだが、インカムに何か囁き、直ぐに返答を聞いたのか、
「厨房でお会いするそうです」
と答えた。
 ハリーは礼も言わずに店内へと続く扉を開け、ブライアンも慌てて続いた。
 広いホールには既に客はおらず、店員たちが客席の後片付けをしていたが、入って来たハリーとブライアンの姿を見ると、一様に顔を顰め、ブライアンは居心地の悪さを感じた。
 一方、ハリーはその冷たい視線を恐れもせず、図々しく奥へ突き進み、厨房のドアを開いた。
「ハリー刑事!」
 にこやかな笑顔と共に、調理台の傍に、ブライアンと同じくらいの年と思われる男が座っていた。
「悪いな、アーニス。こんな遅い時間に来て」
 普段の横暴な態度とは正反対のハリーの姿に、ブライアンの咽喉から変な声が出そうになった。
「客人はいつだって大歓迎ですよ。そちらの方は初めてのお越しのようですね」
「今回の仕事で、無理矢理組まされたんだよ」
ハリーが、『無理矢理』の部分を強調して答えた。
「彼のお守りは大変でしょう?」
アーニスはブライアンに顔を向けて言ったが、
「ああ、全く大変だよ」
と、ハリーが“代弁”した。
「賄い料理を出せればいいんですけどね、生憎サラダしか残っていないんですよ」
「俺は食わないから、別に要らない」
「そちらは?」
 ブライアンがハリーに視線をやると、ハリーは珍しく、
「好きにしろ」
と言った。
「それじゃ、お言葉に甘えていただきます」
 ブライアンが応えると、アーニスは嬉しそうに笑い、
「直ぐに用意しますよ、座って待ってて下さい」
と言い終わらぬ内に、巨大な冷蔵庫からサラダボウルを取り出す。
 ハリーとブライアンは、大きな調理台の傍に置かれた椅子にそれぞれ腰かけた。
「今日は、“会合”は無かったのか?」
 ハリーが小皿にサラダをよそうアーニスの背中に訊ねた。訊ねられたアーニスは、「今日どころか」と、鼻で笑い、
「最近、“会合”はちっとも開かれてませんよ」
と、サラダに少量のドレッシングをスプーンで掛けながら答えた。
「最後に開かれたのは、ジョーカーが逮捕されてからですね」
 振り返ったアーニスの両手には、綺麗に盛り付けられたサラダの小皿が二つあった。用意がいいことに、銀のフォークも添えられている。
「僕も相伴にあずからせてもらいますよ」
 アーニスはブライアンの前に小皿を置き、二人の正面に座った。
 ブライアンがレタスを一口食べると、ドレッシングの味が絡まった爽やかな味が口中に広がった。
「とても美味しいですね」
 ブライアンの言葉に、アーニスは、
「そう言っていただけて、とても嬉しいです」
と、笑った。
 ブライアンが続けて二口、三口目と食べるが、アーニスはなかなか自分のものを食べようとはしなかった。
 ブライアンが食べないのかと目顔で訊ねるとも、彼は何故か身動きもせず、ブライアンの顔を見つめている。その視線はブライアンと絡まず、ブライアンの口元を凝視している。
 ハリーも、なかなか本題に入ろうとしない。
 気まずい空気が厨房内に満ち始めた時、突然、背後から硬いものが叩き付けられたような音が彼らを襲った。
 後ろを振り返ると、いつの間にか長身のスキンヘッド男が居り、調理台の上に置かれた肉塊をミートハンマーで叩いている。
 ハリーが小さく舌打ちした。
「やあ、お疲れ様!」
 アーニスが陽気に声をかけるとも、男はこちらを一瞥しただけで、それ以上は何も応えようとしなかった。
「それで、どんな用件で来たの?」
「麻薬絡みだ。この間、教会で三人の死体が見つかった件で、何か情報は無いかと思ってな」
「何だ、ハリー刑事の上司の事件じゃないんですか?」
と、あからさまに落胆した表情を見せた。
「それはそれ。これはこれだ」
 ハリーがアーニスをはぐらかす。
「あの事件は売人も客側も殺されてたって件ですよね。うーん、わざわざ利益を横取りしようとして争いを起こさせるような短絡的な考え方の持ち主は、僕が知る限り、この街には一人も居ないよ」
「随分と自信のある言い方だな。何か、そう言い切れる理由はあるのか?」
「今のマフィアたちはお互いを監視し合っているのです。もしかしたら、こんなことは初めてなんじゃないかっていうくらい、静かなものですよ」
「そうは言っても、腹の中では別のことを考えているかもしれないんじゃないですか?」
「二人とも疑り深いなあ」
 ハリーとブライアンの疑問に、アーニスは呆れたように笑った。
「今はね、冷戦時代なんですよ。誰かが動けば、皆一斉に立ち上がる準備は出来ている。では、誰が最初にテーブルから立ち上がるのか。自分が立ち上がれば、他の組織同士が手を組んで攻撃されるかもしれない」
「だから皆、じっと動かないでいるのか」
「そうです」
「それじゃ、“永世中立”を誓った者として、麻薬売買人を殺した犯人は、マフィア以外の人間がやったと言うのか?」
「さっきもお答えしたように、私が知る範囲の人間に、あんな大それたことをする人はいません」
 突然、客席ホールへと続く仕切り扉が乱暴に押し開けられ、
「オーナー!件の客が予約の電話を入れてきました!」
 飛び込んできた店員の言葉にアーニスは立ち上がり、ブライアンには聞き慣れない言語で何かを喚きながら厨房を飛び出して行った。
「おい、アーニス!落ち着け!手を出すな!」
 ハリーも、アーニスを呼びに来た店員も、慌ててアーニスの後を追う。
 立ち上がる切っ掛けを失ってしまったブライアンが呆然としていると、香ばしい匂いが漂ってきた。
 気付くと、先程までアーニスが座っていた席に、ミートハンマーで肉塊を叩いていたスキンヘッドの男が座っている。ブライアンと視線を合わせようとはせず、そっぽを向いている。よくよく見ると、スキンヘッドの男の右耳は何かで切り取られたかのように、耳殻の大部分が欠けている。
 男とブライアンの間には、匂いの源である薄切れ肉が黒いソースを身にまとい、白い皿の上に横たわっている。
「えっと・・・」
「教会の事件を調べているのか?」
「ええ、まあ、何か知っていたら」
「最近、商売の邪魔になりかねない女がうろうろしていることぐらいしか知らない」
 スキンヘッドの男が、薄切れ肉にフォークを突き刺す。
「その女っていうのは、今さっきオーナーが飛び出て行った客のことなんですか?」
「あの客はデザートが来る前に煙草を吸ったことがある。だからオーナーに憎まれている。ハリー刑事は、オーナーがあの客を殴ろうとして止めさせたことがある。だから店員に嫌われている」
 そう言うと、男がフォークに刺した薄切れ肉を口中に入れ、咀嚼した。
「商売の邪魔になりそうな女の特徴は?」
 男はゆっくりと飲み込むと、答えた。
「片目のアジア系の女だ」

2017年10月18日