10. A FORTUNE COOKIE
仮眠のための一時帰宅を許されたブライアンは、アパートに帰るなり、上着をソファに放り投げ、日の光を恐れる吸血鬼のようにカーテンを閉め、ベッドに飛び込んだ。毛布を被って眠ろうとしたが、目は閉じているのに頭は妙に興奮しており、なかなか直ぐには寝付けなかった。
ようやく眠気が訪れ、微睡みと毛布の暖かさに幸福を感じていると、突然携帯電話の着信音がその幸福を破壊した。
ソファに放り投げたジャケットの中から叫ぶ携帯電話を取り出し、電話に出ると、
「おう、こっちに来る時は飯を買ってきてくれ」
とそれだけを言われると、電話は切られてしまった。
誰が電話をかけてきたのかと数秒悩んだが、あの横柄な声の主はハリーしかいない気付き、ブライアンの眠気はすっかりどこかへ立ち去ってしまった。
ブライアンが捜査本部となっている会議室に入ると、室内にはハリー以外誰も居らず、部屋の隅に置かれたテレビからは野球中継番組が流れていた。
「随分と早く来たんだな」
ハリーのとぼけた発言をブライアンは無視し、
「皆、どこに行ったんですか?」
ブライアンが資料に埋もれそうになっているハリーの傍に、ゴッサム市警本部近くにある中華料理店で買ってきたチキンとポテトが入った紙袋を置いて訊ねた。
「今夜はゴードン本部長就任パーティーだから、警備という名目で、俺ら以外出払っているよ」
空腹のためか、なかなか進展しない捜査のためか、相変わらず不機嫌そうにハリーが答えた。
誘拐事件は大勢の人員を投入しているにも関わらず、子供たちの足取りは依然として掴めなかった。報道番組のコメンテーターたちはカルト宗教や反国家テロリスト集団の仕業を視野に入れて捜査すべきだと主張する者もいれば、人身売買組織によるものと言い張る者もおり、混迷を極めていた。しかし犯人像への意見は違えど、今のゴッサム市警は無能であるという意見では一致していた。
「こんな時に就任パーティーなんて開いて、余計に噛みつかれませんかね?」
ブライアンが誰もいないのに、辺りを憚るかのように小声で言った。
「誰が噛みつくんだよ、ピットブルか?かみつかれることを怖がっていたら、警察は要らないさ」
そういってハリーは手元の資料から目を離さずに、紙袋に片手を入れ、ポテトを掴み出して口に押し込んだ。
ブライアンも椅子に座り、机の上の資料を脇に除け、食事を始める。
「ん?何だ、こりゃ?こんなもの頼んだか?」
ハリーが紙袋から取り出したそれは、近所の中華料理店のロゴスタンプが乱雑に押されている紙包みだった。ブライアンは、
「あ、フォーチュンクッキーですよ」
「フォーチュンクッキー!?お前、何歳になったんだよ!?」
呆れるハリーに、ブライアンは
「いいじゃないですか、テイクアウト注文すると必ずくれるんですから」
ブライアンはハリーからフォーチュンクッキーの紙包みをひったくると、クッキーを割った。
「それで?何て書いてあるんだ?当たりが出たらもう一個チキンをサービスしてくれるのか?」
ブライアンがクッキーの中に入っていた紙片を広げる。
ハリーも横からのぞき込む。
紙片には、『Everything comes to him who waits(待てば海路の日和あり)』と書かれていた。
「ふん、果報は寝て待てってか?ったく、事件解決の手がかりが向こうから来てくれるのかね?」
空になったポテトの箱を揉み潰しながら、ハリーが鼻を鳴らした。
ゴッサム・シティの中心部にあるホテルが、就任パーティーの会場として選ばれた。
ホテルのスタッフに案内されてゴードンが控室である小部屋に入ると、既に小部屋に居た、就任パーティー開催を強引に推し進めた広報課長が開口一番、「ご家族の方は?」と訊ねた。
ゴードンが答えようと口を開きかけたが、相手はすぐに察したらしく、「まさか欠席だと言われるんじゃないでしょうね!?」と詰め寄った。
「そのまさかなんだ」
ゴードンが肩を竦めると、広報課長はのけぞり、
「何ということ!せっかくの晴れ舞台だというのに!ああ、失礼、本部長のご家族への悪口と受け取らないで下さいよ!」
「家族の欠席は私が頼んだんだ。政治家のパーティーじゃないんだし、そこまで大袈裟にやりたくない。何より、今は例の誘拐事件で世間の目も厳しい」
ゴードンの言葉に広報課長は目を剥き、
「だからこそやるんですよ!世間の目が厳しく、現場の士気が下がっている今、新しいボスとしてあなたが彼らに、市民に宣言するのです。悪は許さない!と。さすれば士気もあがる。何もしないでいるより、少しは何か言わなければ、彼らはもっとやる気を失くしますよ!」
息巻く広報課長に気圧され、ゴードンは内心、此処へ来たことを後悔し始めた。ただでさえ、着慣れない礼服に窮屈さを感じているのだ。
「さあさあ、スピーチの準備は出来てます?」
「ああ、まあ」
「それは好かった。こちらの準備は終わりましたので」
広報課長は部屋にいた二人のスタッフの方を振り返り、「あとは打ち合わせ通りに」と言うなり、「早く会場に行きましょう。皆さん、もうお見えになっていますから」とゴードンの背中を押し、騒々しく出て行った。
二人が出て行くと、部屋に残っていたスタッフは顔を見合わせ、笑い合った。
「贅沢な人だなあ。いきなりトップに昇進できただけでもありがたいのに、こんなパーティーまで開いてもらって」
「謙虚な人なのさ。お前とは大違いだ」
ドアをノックする音が、冗談を言い合う二人の会話を中断させた。
受付入り口前に屯していた報道陣からの質問攻めを適当に交わし、ブルースはパーティー会場に入った。
開催日までの日にちが浅かったにも関わらず、それでもゴッサム・シティの名士たちのほとんどが顔を揃え、広いホールのあちらこちらで互いの近況を語っていた。
その語らいの群れ群れに埋もれるように一人佇む姿を見つけ、ブルースは近寄った。
「やあ、アダム」
急に声をかけられたので相手は驚いたようだったが、ブルースの顔を見るなり、恥ずかしそうに笑って、
「こんにちは、ミスター・ウェイン」
「堅苦しく呼ばずに、ブルースでいいよ」
ブルースがそういうと、アダムは「はい、ブルースさん」と言った。
ブルースが何か言おうとするのをすかさず片手で止め、「僕の方が年下なので」と付け加えた。
「今日は誰かと一緒に来たのかい?」
「先日お会いした医療部門長と一緒に来たのですが、会場に入るなり、『あとは自由行動だ』と言って、何処かへ」
「ハハ、彼のやりそうなことだ」
ブルースは笑った。
「そうなんですか?てっきり彼の知り合いの方に紹介されるのか思っていたので、いきなり一人にされてちょっと不安だったんです。こんなにたくさんの人が集まるパーティー会場なんて、生まれて初めてなので緊張して」
落ち着かなげに周りを見回すアダムの様子に、ブルースはまた一頻り笑った。
「おいおい、こんな規模で目を丸くしてどうするんだい?」
「そりゃ、あなたは昔から慣れているでしょうが、私のような庶民にとってはへまをしやしないか不安なんですよ」
「大丈夫さ、やたらと堅苦しい話題を出さなければ、どこのパーティー会場でも受け入れてくれるさ。皆、楽しい話が好きだから」
それでもなお、不安そうな様子をアダムの表情から読み取ったブルースは、丁度傍を通りかかったウェイターからドリンクを流れるようにかっさらい、一つをアダムに差し出した。
「まずは、此処だけでも乾杯しようじゃないか」
アダムはブルースからグラスを受け取り、
「そうですね、何に乾杯しますか?」
「君との再会と、ゴッサムの新しい顔に」
「ブルースさん、前半は女性に言うべき言葉ですよ」
ようやくリラックスした笑みをアダムが見せた。
ドアを開けると、制帽を目深に被ったホテル・スタッフが二人立っている。傍らには料理盆を載せた台車が一台あった。
「お疲れ様でーす、ゴッサム市警からの差し入れです」
ドアを開けた一人が、後方にいた同僚を振り返る。
「聞いたか?差し入れだとよ」
二人のスタッフはずかずかと台車を押して部屋に入る。
「パーティー会場では軽食ぐらいしか出ていないのに、随分と豪華だな」
二人が近寄って蓋をあげようとしたその時、一人が物言う暇も与えられることなく床に倒れ込んだ。
驚いたもう一人がパニック状態になって声をあげようとしたその瞬間、彼もまた、頭を撃たれ、重い身体を床に打ち付けた。
「さて、間もなく開演時間ね」
台車と共に現れた一人が、消音器を取り付けた銃を手にしているもう一人の方に話かけた。
「ええ」
即死した二人が身につけていたインターカムを取り外しながら、ボブがそっけなく答えた。
「楽しみだなあ、アダムも会場には来ているんでしょ?どんな顔をするのかな」
制帽のひさしの下、JIGは微笑んだ。
壇上に登る。
身体を正面に向けると、期待の籠った数えきれない視線が己に当てられた。
ゴードンは自信の無い顔になっていないことを祈り、マイクに口元を寄せた。
「皆さん、ゴッサム市警本部長就任パーティーへ、急な招待にも関わらずお越しいただき、感謝しております」
ゴードンがそう言うと、誰かが拍手を始めた。するとその拍手の音は一気に大きくなり、会場内にこもる熱気を感じられた。
「先だって、ジョーカーによる一連の凶行により、この街はとても多くの傷を負いました」
ゴードンが再び口を開くと、拍手は止んだ。
「この街に芽生えていた希望も失いました」
ゴードンの脳裏に、一瞬、二つの顔を持った男の姿が浮かんだ。
「しかし、我々はまだ生きています。生きている限り、この地に留まる限り、ゴッサムという街は存在します。街は一人の人間だけでは成り立ちません。たくさんの人間がいてこそ、街が存在します。
私はこの街を、仕事だからという理由で守っているのではありません。この街には私の家族が、友人が、そして大切な仕事仲間が住んでいます。その上、彼らと過ごした思い出の場所が沢山あります。皆さんにとっても、ゴッサム・シティで過ごす内に出来た思い出があることでしょう。私はその大切な思い出を、事件や犯罪という悲しいイメージを伴った思い出にはしたくないのです。
私はゴッサム・シティを愛しています。これからはこの街から犯罪を一掃できるようにすることが大切なのでしょうが、それと同時に、今までの悲しい過去を乗り越える強さを育てていくべきであると考えております。その強さは街が我々に直ちに与えてくれるものではありません。このゴッサム・シティで暮らす我々が強い心を持つことで、自ずと育っていくものなのです。
明日が今日よりも素晴らしい日になることを願うように、今日よりもほんの少し強い心を持てるよう、一人一人が願い、努力すれば、ゴッサム・シティはとても素晴らしい街になります。
これからも悲しい出来事は起きるでしょう。しかし、決して希望を持つことを忘れないで下さい。希望は、我々に生きる力を、与えてくれます。
私は皆さんと共に、この街を強く、素晴らしい街にしていくことを、ゴッサム市警本部長として、一人のゴッサム市民として望んでおります」
ゴードンが清聴への感謝を述べると、会場内は再び拍手の嵐で巻き起こった。
壇を下りると、広報課長が駆け寄り、ゴードンの手を掴むなり、激しく上下に振った。
「素晴らしいスピーチでした!明日の新聞が楽しみです。これでゴッサム市民も安心しますよ!」
「そうだといいんだが」
「心配性ですね、あなたは。市民に希望を持たせるという大仕事をなさったんですから、もっと自信を持たなくちゃ!折角のスピーチの威力も台無しですよ」
大勢の人に囲まれ、スピーチへの感想の言葉を掛けられているゴードンの姿を遠目に見ながら、「ゴードン氏はとても強い人なんですね」と、アダムが呟いた。
ブルースは、
「どうしてそう思うんだい?」
「彼はこの街の新しい顔であり、その期待も大きいものでしょう。それなのにプレッシャーに耐えられる力もあり、彼を支えている人たちもたくさんいる」
「・・・ああ、彼はとても強い人だ」
ブルースが同意すると、会場内が急に暗くなった。が、すぐにスポットライトがある一角を照らし、人々の視線は自然とそちらに向けられた。
照明は、先程ゴードンが挨拶をした壇上の後ろにあるステージ幕を照らしていた。
人々が見つめる中、何のアナウンスもなく、ステージ幕が上がり始め、それと同時に音楽が流れ出した。
ステージ幕を照らしていた光が、ステージ奥にまで届き、幕の後ろにいた集団を照らす。
緊張のためなのか、彼らはぎこちなく口を動かし、ステージの隅に置かれたオルガンを演奏する演奏者に合わせて讃美歌を歌いだした。天の国の光が地上を照らすと、地上に蔓延っていた悪が滅び、平和が訪れたという内容の歌詞は、先程のゴードンのスピーチに華を添えた。
随分と演出が凝っていると、ゴードンが傍に立っていた広報課長に声をかけようとしたが、相手は呆けたようにステージに目を向けている。ゴードンが訝って、ステージ上に並ぶ子供たちを見上げると、ステージの傍にいた女性が悲鳴をあげた。
一人の子供の顎が大きく外れ、不自然な動きを見せていた。にも拘わらず、ほかの子たちは一心不乱に歌っている。
慌てて広報課長がインターカムで控室にいるはずのスタッフと連絡をとろうとしたが、相手からは何の反応も無かった。
「あれは・・・」
ブルースがステージに居並ぶ子供達の正体に気付いた時、誰かが叫んだ。
「教会から誘拐された子供達だ!」
テレビから速報を告げるチャイムと、会議室のテーブルに置かれている電話のベルが同時に鳴った。
電話の近くに座っていたハリーが受話器を持ち上げ、緊急を告げる同僚の声を聞きつつ、テレビ画面に表示されたテロップをブライアンと共に読んだ。
「テレビでもニュースになっている!俺も会場に向かう!くそっ!なんだって、こんな時に!」
ハリーは乱暴に受話器を叩き付けると、直ちに立ち上がり、椅子にかけてあったコートと帽子をひっつかんだ。
「一緒に行きます!」
ブライアンも続こうとするが、ハリーは振り返り、
「お前は電話番、じゃない、後陣を守ってくれ」
「電話なんて、どこからかかってくるんですか!?」
ブライアンが抗議するも、ハリーは―彼にしては珍しい―笑みを浮かべ、
「フォーチュンクッキーのお告げにも、あっただろう?待つことが大事だって」
ブライアンがテーブルの上の紙片に気をとられた僅かな隙を突いて、ハリーはあっという間に出て行ってしまった。
いいようにあしらわれたブライアンは地団太を踏んだ。
ニュースキャスターはなかなか現場から映像が届かない事への焦りと、行方不明になっていた子供と牧師が見つかったことへの強い興味が入り混じった表情で、忙しなく何かを捲し立てていた。
ヴィッキーの視界の中のテレビが大きくなったり、小さくなったりを繰り返している。
音量のスイッチを切っていないはずなのに、テレビが何を言っているのか、彼女には聞こえなかった。ただ、己の声だけがはっきりと聞こえた。
「そうよ、あの子を殺してゴミ捨て場に置き去りにするような犯人ですもの」
テレビからの光が、散乱している空になったペットボトルの表面を撫でている。
「そうよね。そうよね」
頬を伝い落ちた涙が、日焼けした絨毯に染みを作った。
2016年10月29日