09. THE EVE
ドアを開けると、視界の隅で誰かが立ち上がったのが見えた。
ヴィッキーがそちらに目を向けると、ウィルがいた。
「モーテルまで送るよ」
許可証を意味するゲストカードを首から下げているウィルに声を掛けられ、ヴィッキーは微笑もうとした。しかし顔は強張り、口の端が引き攣っただけだった。
ウィルもヴィッキーにつられたのか、心なしかその表情に一層の疲れを増したようだった。
「よくここまで入れたわね。この間の中継の件で恨まれているんじゃないの?」
ヴィッキーの充血した目から顔を背け、「顔を知られている方が、かえって先方も対応しやすいのさ」と、ウィルが小声で答えた。ウィルの肩越しに、二人の方を遠くから見つめる数人の制服警察官がいた。
「編集長から聞いた。モーテルまで送るよ」
再度、ウィルが言った。
「同業者がうろうろしているこの状況から、どうやって連れて行ってくれるの?トランクにでも入れるつもり?」
歩き出そうとするヴィッキーの前に回り、ウィルが行く手を遮った。
「待てよ。もうすぐ警察からの公式会見が正面玄関前で行われる。生中継もされる。その隙に裏から出るんだ。トランクには入れない」
「トランクなんて冗談よ」
こちらを不安げに見つめるウィルに、苦痛を紛らわそうとしてジョークを言ったつもりだったヴィッキーはかえって戸惑った。
「その公式会見は何時からなの?」
「17時。あと10分程で始まる」
ふとヴィッキーはどのくらいの時間を、あの取調室のような小部屋で過ごしたのか、ここへ着いた時間から逆算しようとしたが、そもそもここへ着いた時間が思い出せなかった。
「私、いつから此処にいるのかしら?」
「少なくとも1時間は居るよ。俺が此処に来たのが1時間前だから」
「そう・・・」
ヴィッキーが歩き出すと、ウィルは今度は脇に除け、彼女の後ろからついてきた。
階段を一段下りる度にヴィッキーの身体は左右に揺れ、ウィルはそのあぶなかっしい足取りに冷や汗を流した。
ようやく一階に下り着いた時、裏口の戸が慌ただしく開かれる音が聞こえた。ウィルが様子を窺おうとするよりも先に、ヴィッキーの身体は廊下にはみ出していた。
「ヴィッキーじゃないの!」
その叫び声にウィルは思わず舌打ちした。幸いヴィッキーの耳には入らなかった。
何故此処に来たのかヴィッキーは相手に問いかけようとしたが、自分と同じ理由であることに気付き、それ以上の言葉を飲み込んだ。
「警察に呼ばれて来たの。現状を伝えたいから来てくれって連絡があって」
ヴィッキーは後ろに控えていたウィルを振り返り、「カレン・・・、息子の聖歌隊仲間の・・・」と紹介した。
ウィルは「どうも」と憮然とした表情で答えた。
「主人も今、こっちに向かってるの。たまたま出張で海外に行っててね。飛行機のエンジントラブルで直ぐに来れなくて」
カレンはこの場に夫がいないことを言い訳がましく喋り立てる内に感極まったらしく、両肩を震わせ、遂に泣きじゃくり始めた。
「大丈夫よ、きっともうすぐ着くわ」
ヴィッキーが慰めるが、カレンはヴィッキーの両手首を掴み、嗚咽した。
「子供が一人、死体で見つかったって、殺されていたって、さっき速報で流れたの。もしあの子だったらどうしようって、気が狂いそうだわ!」
「カレン、死体で見つかった子はあなたの子じゃないわ」
「ヴィッキー!」
ウィルがヴィッキーを連れ出そうと腕を掴んだ。
しかしヴィッキーはウィルを無視し、
「さっき確認が行われたの。あの子が、マイクが写っていたわ。見つかった子は私の子なの」
カレンが驚き、ヴィッキーから手を離した。
「ティムや他の子たちが、神父様がどうなったかはまだわからないみたいなの。でもきっと戻ってくるわ。私は信じてるの」
「嘘!嘘よ!」
カレンが大声で叫んだ。
「あの子が殺されていないって、どうしてそう言い切れるのよ!?」
「カレン・・・」
思わぬ反応に困惑したヴィッキーが後ずさりするカレンに近寄ろうとした。しかし、ウィルに腕をつかまれ、それ以上動けなかった。
「ヴィッキー、止めろ。お互いに疲れてるんだ」
ウィルがヴィッキーの耳元で囁くが、ヴィッキーは友人の間に生じた拗れを少しでも解消してからこの場を去りたかった。
「確かに何の根拠もないけれど、でも信じていれば」
「信じるって、何を信じればいいのよ!?」
徐々に人が集まり始めた。騒ぎを聞きつけたのか、ハリーとブライアンが上階から下りてきた。
「あなたの子を殺すような奴らよ!?あの子だって、生きているかどうか、ぁあぁああ!」
大声で泣き喚き、しゃがみ込んだカレンを女性警官が落ち着かせようと宥める。
ウィルはヴィッキーの腕を強く引っ張り、外に連れ出した。
ヴィッキーは後ろを振り返った。カレンが大声で泣き喚く姿が見えたが、その姿は一瞬にして閉じられたドアによって見えなくなった。
ウィルはヴィッキーの顔を見向きもせずに、無言で前を向いたまま歩き続ける。
「あの・・・」
「二度とあんな真似をするな」
ウィルの冷たい声にヴィッキーは思わず反抗しようとしたが、続くウィルの言葉がそれをたたき落とした。
「彼女の言う通り、犯人の目的がわからないのに不用意なことを言うな。噂を立てることに責任が持てるのか?」
ヴィッキーが立ち止まると、ウィルも立ち止まった。
「みんな、疲れているんだ」
ウィルがそう言うと、ヴィッキーも「そうね」と同意した。
遠くの方で、マスコミがざわめく声が聞こえた。
「行かせて良かったんですか?」
ブライアンの問いかけに、爪楊枝を噛んでいたハリーが睨んだ。睨まれたブライアンは身を縮めた。
「行かせまいとすれば、更に大騒ぎになってただろ?」
広い会議室の中と言えども、他の刑事たちが居る手前、ハリーは誰のことかは口にせず、答えた。
夕方に行われた会見では、犯人を刺激しないために現在の捜査状況については曖昧に発表し、子供達の家族や教会の関係者に対しても「目下捜査中」と答えただけであった。正面玄関で待ち構えていた報道陣は記者会見の内容の薄さに不満そうな顔で立ち去り、家族らも何の希望も与えられなかったことに苛立ちを露わに、ゴッサム市警の無能ぶりを罵りながら帰っていた。署員の間でも、捜査情報をもっと開示すべきだと、上層部の対応に早くも不穏な空気が流れていた。
デスクワークがあまり好きでないハリーは、部屋の中を行ったり来たり、気まぐれに硬いパイプ椅子に腰かけたりしながら、今回の誘拐事件に巻き込まれた子供たちの資料を読んでいた。
「そりゃそうかもしれませんけど・・・」
「なんだよ?」
「夫を過去にマフィア間の抗争に巻き込まれて殺された上に、今回の事件で子供が亡くなって・・・。パパラッチ勢の餌食ですよ。警察の保護下に置くべきなんじゃないんですか?」
ブライアンがなおも食い下がると、ハリーは頭を振り、
「毎度毎度、事件が起こる度に警察を派遣させてたら、きりがないぞ」
それでも釈然としないブラインを見て、ハリーは溜息を吐き、ブライアンの隣にあった空いている椅子に跨った。
「なあ、警察学校で言われなかったか?この世から犯罪を無くすことは出来ない。事件が起きてしまったら、被害を最小限に留める。被害が大きい事件なら?」
「速やかに事件を解決せよ」
ブライアンが答えると、ハリーは大げさに何度も頷いた。
「その通り、よくわかっているじゃないか」
わざとらしく拍手するハリーからブライアンは目を逸らし、資料室から持ってきた古い書類を見遣った。
ヴィッキーの夫は新聞記者だった。生前は文化面を担当しており、ヴィッキーとはそこで知り合ったという。
二人は結婚し、数年後には子供も生まれた。
子供が一歳になる頃、夫は取材のためにあるレストランへ出かけた。そこへ偶然にもあるマフィアの幹部が取り巻き数名を連れて訪れた。彼らがレストランに来たのは本当に偶然の出来事だった。
身辺の危険を感じていた幹部はわざといつもとは違う店に入り、己の寿命を先に延ばそうとしたのだ。―結果的に彼は寿命を延ばすことに成功したが、ベッドから生涯離れることが出来ない身となった―。
レストランに入る彼らの姿を見ていた対立マフィアの一人はこれを好機ととらえ、直ちに銃撃を開始した。店内は混乱に陥り、厨房入口に立っていたヴィッキーの夫は流れ弾に当たり、即死した。
マスコミはマフィアの抗争に巻き込まれた、善良な市民たちの死を悼んだ。
ブライアンは内側から漏れそうになった溜息を喉の奥に押しとどめた。他人の不幸を糧に生活するパパラッチ勢が書き立てた煽情的な見出しの新聞が、明日は街中のニューススタンドに並ぶのだと思うと、余計に両肩が重くなった。
「この事件は、恐らく一週間以内に終わる」
ハリーの呟きに、ブライアンは顔を上げた。
「中東の田舎町やアフリカじゃないんだ。こんな大量誘拐事件はすぐに足が付く」
「見つけられますかね」
ブライアンの自信の無さそうな声に、
「カルトだろうと、マフィアだろうと、俺たちの仕事は犯人を捕まえることだ」
ハリーが己を納得させるかのように、そう言った。
気配を感じてブルースが後ろを振り返ると、料理を載せたトレイを持ったアルフレッドが無表情で立っていた。
「やあ」
ブルースが挨拶するが、アルフレッドの反応は唇の片端を上げただけだった。
「今夜はどんな料理だい?」
優秀な執事の意図的な愛想の無さを気にせず、椅子から立ち上がってアルフレッドに近寄るブルースに、アルフレッドは、「チキンとそら豆のグリル煮です」と答えた。
保温のために料理を覆っていたカバーを持ち上げたブルースは、
「ありがたいね。考え事をするとすぐに腹が減ってしまう」
「デザートはチョコレートになさいますか?夕食後の頭脳労働のために」
アルフレッドの言葉にブルースはカバーを料理に被せた。
「一口サイズのチョコレートがあると、とても助かるね」
「念のためにお尋ねしますが、それはブルース・ウェインとしてですか?それともバットマンとしてですか?」
ブルースは微笑み、
「“コウモリ”はチョコレートを食べないさ」
アルフレッドは眉間に皺を寄せ、息を吐いた。
「せめて料理はテーブルで食べていただけますか?本や新聞を見ながら召し上がるのは、行儀作法として好ましくないかと」
「同感だ。資料を汚すわけにもいかないしな」
横を通り抜けるブルースに、アルフレッドは頭を左右に振った。
「私の記憶にある限り、この部屋に置かれているテーブルはその資料の下にあるはずですが?」
ブルースは身体を半回転させ、テーブルの上をテーブルクロスのように覆っていた、新聞の切り抜きやネットから印刷した資料の山を片隅に無理矢理寄せた。
「さあ、片付けたぞ」
山の一部がテーブルの下に落ちてしまったが、それでも自信満々のブルースを見て、アルフレッドは幼子の屁理屈に負けた大人のように観念して、ようやく普段通りの笑みを浮かべた。
トレイをテーブルの上に置いた時、今まさに世間で騒がれている誘拐事件の文字がアルフレッドの目に入った。
視線を移せば、宙の一点を凝視して考え事に耽る主の姿があった。
同時刻。
表向きの仕事から帰ってきたアダムが玄関の扉を開けると、廊下の突き当りにある浴室から髪を濡らしたJIGが顔を出した。
「おかえりなさい」
「ただいま、JIG」
JIGの顔が引っ込んだかと思うと、すぐにタオルを首に掛けたJIGが出てきた。半袖のTシャツとショートパンツを着、義眼も外しているのか、イルカの刺繍が施された眼帯を着けていた、
「作業は順調ですか?」
ネクタイを緩めながらアダムが訊ねると、JIGは頷き、
「“双子”が手伝ってくれたから、前処理はさっき終わったの。これでしばらくは状態を保てるわ」
二人がダイニングルームに入ると、スープの匂いが二人を包んだ。
“双子”―JIGは常に行動を共にしている黒人と白人の二人組をそう呼んでいた―はかいがいしく、皿をテーブルの上に並べ、夕食の準備を進めている。
「次回作の内容や展示場所は、もう決めてあるのですか?」
「勿論!次回はあの」
JIGが話そうとするのを、アダムは片手で止めた。
「あなたの次回作がどんなものになるのか、楽しみにして待っていたいので、今は言わないで下さい」
アダムの依頼にJIGは笑った。
「オーケー。あなたが鑑賞しやすい場所に展示するわね。ボブ!今日の夕飯は?」
JIGが椅子に腰かけ訊ねると、奥の台所でスープ鍋に人参やホワイトブロッコリーなどの野菜を入れていたボブが振り返り、「今日は、あ・・・」
ボブの視線に促されてアダムがJIGを見遣ると、彼女は背もたれに身を預け、すっかり寝入ってしまっていた。
2016年7月22日