08. SECOND PAIN

 他社の情報収集状況を確認するために編集室の一角に置かれたテレビの前には、案の定、人だかりができていた。
 普段は何かと騒がしい編集室も、今は誰も口を開く者は居らず、時折電話のベルが鳴ってもなかなか受話器を取ろうとしなかった。それでも電話が鳴り止まないと、ようやく舌打ちをして誰かが横柄な態度で電話応対をしている有様だった。
 ウィルがテレビ前の群衆をかき分けようとすると、人の輪の外縁にいた一人がウィルの存在に気付き、
「おい、ちょっと通してやってくれ」と、皆に声を掛けた。
 テレビ前に群がっていた人々が声を発した編集員を振りった。それと同時に、ウィルの到着を知り、無言でテレビの前から動いた。
 人々が作った道の奥に、テレビがあった。
 ウィルは両側に居並ぶ人々の顔に見向きもせず、大股でテレビの正面へ歩いて行くと、丁度、GCN社の看板番組であるニュース・スタジオから、ゴッサム市警察署本部前からの中継映像に切り替わった。
 ゴッサム市警察署本部の建物や他社の中継アナウンサーをバックに立つ、ウィルよりも若い女性アナウンサーが映った。
 画面の下部には「白昼の誘拐事件発生 犯人からの声明は未だ無し」と、不安感を只管煽るようなテロップが繰り返し点滅している。
 誰かがウィルのために椅子を持ってきてくれたが、ウィルは礼も言わずに座った。
「ゴッサム市警察署本部前から中継です。昨日白昼に起こった、教会から子供達と牧師が誘拐された事件ですが、犯人からは未だに何の連絡もなく、犯人の目的は不明です」
 若い女性アナウンサーは他社の中継スタッフに負けじと声を張り上げている。
「ゴッサム市警は全力を挙げて誘拐された子供たちの行方を追っているとコメントを発表しております。しかし、ここ最近相次いで発生している、若者たちによる監視カメラ破壊行為のために、教会から子供たちを誘拐した際に使用されたと思われる車両の捜索には時間がかかる可能性があると、警察関係者は指摘しております」
 中継が終わり、画面はスタジオ内に戻された。
「くそっ! これで終わりか!?」
 ウィルが罵り、他局にチャンネルを変えようと椅子から立ち上がると、
「他局も似たような状況だ。皆、ゴッサム市警察署本部前か、教会前、各被害者の自宅前から中継を流している」
 誰かが冷静にそう言うと、ウィルは更に激昂した。
「俺が知りたいことは、そんなことじゃない! ヴィッキーの! 現在の居所だ!」
 怒鳴り散らすウィルに、ウィルとテレビを囲んでいた編集員たちは一斉に視線を逸らした。
「おい! 誰も知らないのか!?」
 それでも応えが無いことに怒ったウィルは、傍にあった椅子を思い切り蹴り飛ばした。椅子は大きな音を立てて床の上を転がった。それでもウィルは腹の虫の気が治まらないらしく、周りに居た編集員の一人の腕を掴んだ。
「自宅の電話に出やしない! 携帯電話の電源も切られてる! ヴィッキーが居そうな場所を当たってみたが何処にも居ない!」
 腕を掴まれた壮年の編集員がウィルを振り解いた。
「ヴィッキーと彼女の息子のことを心配している人間がお前だけだと自惚れるな!」
「何だと!?」
 一触即発の最中、女性編集員が突然悲鳴をあげた。
 悲鳴をあげた先を睨み付けようとしたウィルだったが、視線の先に立っていた人物に思わず素っ頓狂な声を出した。
「ヴィッキー! 何だ、その荷物は!?」
「暫く家に帰れそうにないから、此処に泊り込もうと思って着替えの服を持ってきたの」
 いつの間に居たのか、ヴィッキーは背中から大きなリュックサックをデスクの上に置きながら言った。
「ウィル、仕事に行かなくていいの?」
 渦中の人物に声を掛けられ、ウィルは、
「今日の担当は別の人間だし、まだ呼び出されていないから。それより、ヴィッキー!今まで何処に行ってたんだ!?皆、心配してたんだぞ!」
と、口ごもりつつも、後半からは調子を取り戻したかのように大声で問うた。
「心配させて御免なさいね、市外のダイナーで時間を潰していたの。家に帰れるような状況じゃなかったから」
 淡々と答えるヴィッキーに、ウィルは尚も何か言おうとしたが、今度はドアが壁に思い切り叩き付けられた音によって、それは阻まれた。
 振り返れば編集長が鼻息を荒くして、編集室出入り口にて重いドアを片手で押さえながら立っている。
 今にも飛び掛かって暴れ回りそうな形相に、ウィルもヴィッキーも、その場に居合わせた人々は一様に凍り付いた。
「ヴィッキー、話がある。俺の部屋まで来い」
 かなり慌ててやって来たのか、それともこの緊急事態に直面して焦る心を落ち着かせようとしているのか。編集長の小柄で太った身体は一言一句話す度に大きく揺れた。
 ヴィッキーは黙って、編集長の傍に歩いて行った。
「それからウィル! お前はさっさとテレビ部に戻れ!」
 編集長に怒鳴られ、ウィルは肩を竦めた。

 編集室の奥隅に編集長室があった。
 編集室に面した壁はガラス張りになっていたが、編集長は部屋のドアを後ろ手で閉めるなり、ブラインドを下ろした。
 彼は下階に響かせるかのように荒々しい足音を立てながら、室内の中央に置かれたデスクを回り、デスク向こうの己の椅子に勢いよく腰を下ろした。革張りの椅子が編集長の重みに苦しそうに喘いだ。
 編集長は表情をしかめたまま、ヴィッキーにデスク前に置かれた、編集長が座っているものよりも小振りな革張りの椅子に座るよう、手で指し示した。
 ヴィッキーが大人しくその椅子に座ると、編集長は大きく息を吐いた。
「・・・・・・」
 ヴィッキーは編集長のことだから何を言われるかと待ち構えていたが、相手はなかなか言葉を発そうとせず、ヴィッキーを睨み付けながら、肘かけに置いた手を忙しげに開いたり、閉じたりしていた。
 やがて編集長はおもむろに立ち上がると、足音を立てずにドアに近付いた。
 ヴィッキーが編集長の動きにいぶかっていると、編集長は勢いよくドアを内側に開けた。途端に、ドアに寄りかかっていたらしい編集員たちが一斉に雪崩れ込んだ。  笑って誤魔化そうとする編集員たちと冷たい目で見下ろすと、編集長は上体を屈ませてしっしっと盗み聞きしていた編集員たちを追い払った。その様は威嚇する猫そっくりである。
 編集員たちが我先にと逃げ散って行ったことを確認すると、ようやく編集長のしかめっ面も幾分和らいだ。
 編集長はひどく草臥れた様子で再び椅子に座ると、
「身内にこの件のことで連絡したのか?」
と、疲れた声でヴィッキーに訊ねた。
「駅の公衆電話から○○州の母の家に何度か電話をかけたけれど、なかなか繋がらなくて」
 ヴィッキーが答えると、編集長は髪が後退したために広くなっている己の額を撫で上げた。
「そうだろうな。今頃取材陣が取り囲んでいるだろうよ」
 編集長は苦々しげに呟くも、
「同じ穴の狢のくせに同族嫌悪を起こすとはな」
と、己の発言に対し自嘲した。
「警察からの連絡が無い以上、“同業者”は誘拐された子供たちの家族に目をつける。事件が起きて一晩かけて此処に来たお前の判断は正しい。今、外を歩くことは危険だ」
 ヴィッキーは編集長の言葉に頷いた。
「隣の州だが、モーテルに部屋を予約してある。当分はそこで「編集長、私は仕事をしに来ました」
 提案を遮られたために編集長の口先は奇妙な形になったまま、その動きを止めてしまった。
「一刻も早く息子に会いたいのに、その気持ちを抑え付けて、ただ何もせずに自宅で待つよりも、事件の取材に気持ちを向けたいのです」
 編集長の唇が微かに震えたかと思いきや、編集長は机の上に置かれていた書類や写真立てを片腕でなぎ倒した。
 けたたましい音を立てて、床上に散ったものに目を向けることも無く、編集長は小じわが寄った目尻を吊り上げ、
「これは命令だ!」
と、強硬に怒鳴った。
 普段の編集長なら何かを指示する時、『命令』という言葉は決して使わない。しかしそれでもヴィッキーは負けじと反論した。
「何も出来ずに手をこまねいて待たされる身の苦しさを、あなたは知った上での命令ですか!?」
 途端に歯軋りする編集長の顔を見て、ヴィッキーは内心勝利を確信したが、編集長はヴィッキーの意見にまだ反論の余地があると見たのか、急に冷静になったらしく、再び表情が落ち着き、
「今回の事件も、5年前の事件と関係していると思うか?」と訊ねた。
 ヴィッキーは首を横にふり、
「私が知る限り、教会の聖歌隊メンバーの家族の中でマフィアと深いつながりがある人はいないから、恐らくマフィアとは無関係かと」
「だからと言って、だれも5年前の件に触れないとは限らないだろう?いや、5年前の事件があるからこそ、他所は他の家族よりもお前を追い回すぞ」
「仕事に支障を来たさせて、ライバル社の人材を減らそうという計画ですね」
 編集長はヴィッキーの挑発に乗らず、
「いいか?警察からの連絡があるまではモーテルの中にいろ。モーテルまでは他の奴に車で送らせる。その方がずっと安全だ」
と繰り返した。
 ヴィッキーが尚も反論しようとしたが、遠慮がちに部屋のドアを叩く音によってそれは遮られた。
「何だ!?」
 編集長の大声に怯えるかのようにゆっくりとドアが開かれ、雑務担当として雇われているアルバイトの女学生が顔を覗かせた。
「あの、ゴッサム市警本部からヴィッキーさんに電話が入ってます」
「そんなこと、内戦でつなげばいいだろ!?」
「内戦をかけたのですが、通話中になっていたものですから」
 編集長に睨まれ、ますますドアの蔭に隠れる女学生を尻目に、ヴィッキーが電話機の行方を捜すと、受話器が外れたまま床の上に転がっていた。
 編集長が学生を追い立て、ドアは再び閉められた。
 ふとヴィッキーが傍らに立った編集長を見上げると、彼の額には大粒の汗が張り付いていた。
 初めて見る編集長の緊張っぷりに、ヴィッキーはどこか現実とは違う世界に自分はいるのではないかと思い始めた。
 そう思い始めると、ヴィッキーの心は急に霞がかったようにぼんやりとし、それまでの躊躇いも消えてしまった。
 ヴィッキーは受話器を拾い上げ、外線とつながっていることを示す、赤く点滅しているボタンを押した。

 「昨夜は遅くまで起きておられたのですか?」
 なかなかやって来ようとしないエレベーターを前に、欠伸をかみ殺したブルースの背後から声をかける者がいた。
 ブルースが振り返ると、にこやかな笑みを浮かべた、医療系の商品開発を担当している部門長が立っていた。その隣には杖をついて立っているブルースよりもやや年下と思しき、若い長身細躯の男が立っている。
「まあ、そんなところだ」
 ブルースは“儀礼的な笑み”を作って、そう答えた。実際には昨日の誘拐事件のことで情報を集めていたのだが。
「丁度良かった、ご紹介しますよ。つい先日、先代から社長の座を引き継いだばかりのミスター・クリスチャンです」
 部門長に紹介を受け、杖をついた男ははにかんだ笑みを浮かべながら、ブルースに手を差し伸べた。
「アダム・J・クリスチャンです。お噂はかねがね伺っております」
「ブルース・ウェインです。あまり変な噂じゃないと好いんだが」
と冗談めかしながらアダムと握手すると、アダムは、
「あなたの手腕の素晴らしさばかりで、部下にこれ程信頼されるなんて、かえって羨ましいと思うくらいですよ」
と、褒め称えた。
「そんなに素晴らしいと言っているのかい?それなら本人の耳に入ってきてもいいものを」
「本人の耳に入ったら、それは“お世辞”になりますよ。私はお世辞は言わないのです」
 真面目な顔をしている部門長の話ぶりに、一同は笑った。
「ところで、社長と言っていたけれど、何の会社だい?」
「義肢装具専門の製造会社です」
「彼は義肢の接触面にかかる体重負荷を、これまでよりも大幅に軽減できる素材の独自開発に成功したのですよ。彼の技術にはパラリンピックに出場している選手からも注目されているんですよ」
 部門長の言葉にアダムは恥ずかしそうに微笑んだ。
「私自身、子供の頃に手術で片脚を失っているので、義肢の負担を少しでも減らしたいと思っていたものですから」
「それは凄いな。素材や技術開発に詳しいフォックスと気が合いそうだ。近々空いている日は?彼と会ってみないか?」
「折角ですが、今週いっぱいは予定が詰まってまして」
 残念そうに言うアダム。
「いやいいんだ。都合の好い時が判ったら、直ぐに連絡してくれ」
「ええ、、勿論」
 部門長がふと何かを思い出したらしく、
「そうだ、もしかしたらゴッサム市警本部長就任のパーティーで会えるかもしれませんよ」
と、堰切ったように言った。
「就任パーティー?確か新しい本部長は・・・」
「ゴードン氏ですよ。以前、ジョーカーやバットマンの一連の事件で大活躍なさった」
 ブルースは一瞬ではあるが、呆気にとられた。
 ブルースが知る限り、あまり派手なことを好まないゴードンの性格上、自身の就任パーティーを開くとは思えなかったからだ。大方、誰かが強硬に推し進めたのだろう。
「街中の名士たちを集めるみたいですよ。アダム氏の元には昨日、招待状が届いたそうなので、今日の内には招待状が届きますよ」
 呑気に構える部門長の言葉が言い終わると、ようやくエレベーターが到着したことを告げる音が静かに鳴り渡った。

 すぐ傍で声を掛けられたような気がして、ヴィッキーは「何か言った?」と周りに問うた。
「ウィルがいるぜ」
 前方からの声を聞き、ヴィッキーはようやく誰かが運転する車の後部座席に横たわっていることに気付いた。
 ヴィッキーは身を起こして外を見ようとしたが、
「起き上がらない方がいい」
と、運転をしている同僚に諌められた。
 ヴィッキーの具合を気遣っているのかと思ったが、
「下手に姿を見られたら俺やウィルにも止められないからな」
と言葉が続き、ヴィッキーはこの車の目的地がゴッサム市警察署本部であることをようやく思い出した。
 あちらこちらで待機している他局の取材陣に気付かれぬよう、車はゴッサム市警察本部前を素通りする体を装い、市警裏口がある細い通りに入って行った。
 やがて車が停まると、ヴィッキーは同僚が制止する声を無視し、目の前の裏口から署内へと駆け込んだ。
 裏口へと通じる廊下で屯していた数人の制服警察官がヴィッキーの姿を見て、不審な目を向けた。ヴィッキーが震える声を抑えながら名乗ると、彼らは一瞬強張った表情を見せたが、すぐにそれを隠してしまい、無表情になった。
 制服警察官の一人が手近に据え付けられた電話でどこかにかけ、二言三言ヴィッキーには聞き取れない小声で話すと電話を切り、
「案内します。一緒に来て下さい」
とヴィッキーに向かって言った。
 署内は目下捜査中の誘拐事件のせいなのか、それとも普段から変わらないのか、どこか慌ただしく見えた。署員はヴィッキーと共に階段で3階まで上り、廊下の奥の部屋の中に招き入れた。
 部屋の中央に机を挟んで向かい合って置かれた椅子が二脚あるだけの、小さな部屋だった。右手には大きなマジックミラーと思しき鏡があり、その部屋は取調室のようだった。
「此処で待っていて下さい」
 案内をしてくれた制服警察官はそう言ってドアを閉めた。
 ヴィッキーが椅子に座って間もなく、二人のスーツを着た男がいきなり部屋に入ってきた。
 温和というよりも弱々しい見た目の赤毛の若い男は、大きな封筒を机の上に置くと、ヴィッキーの向かいの椅子に座り、
「刑事課のブライアンです」と自己紹介した。
「こちらは同じく刑事課のハリーです」
ブライアンが部屋の隅に立つ、大柄で目付きの鋭い男を示した。ハリーはむすくれた顔でヴィッキーをじろじろと眺めている。
「ヴィッキー・タッカーです。息子の件で連絡を受けました」
 ヴィッキーが答えると、ブライアンは頷き、
「この写真に写っている子が、あなたの子であるか、ご確認をお願いいたします」
 ヴィッキーが微かに頷くと、ブライアンは封筒から写真を取り出し、ヴィッキーの前に並べた。写真はそれぞれ異なる角度から撮られており、全部で3枚あった。
 蛍光灯の下、その写真の中の肌色は異様に白く、その肌にはもう温かな血が流れていないことがわかった。
 ヴィッキーは写真から視線を離そうとしたが離せず、ふらふら彷徨わせながら訊ねた。
「どこで・・・、いつ・・・見つかったんですか?」
 ブライアンは情けない顔を更に情けなさそうにし、
「今朝、市内の裏通りのゴミ捨て場で、収集業者が見つけました」
 ヴィッキーの口から絶叫が発せられた。

2016年5月29日