06. A VISITOR

 深夜。古びたアパートの一室。
 日焼けにより変色してしまった映画ポスターが無雑作に貼られた薄い壁を通して、近隣から赤子の泣き声とそれをうるさがる男の怒鳴り声が飛び交う中、その女は僅かな音量でテレビを見ていた。
 灯りが点けられていないその暗い部屋には、廃品置場から拾ってきたと思われるほど、古く、今にも瓦解しそうな家具があちこちに置かれていた。女が腰掛けている一人用のソファも、座面や背もたれを覆う革の大部分が破けている。
 ソファの前には、何年も前に発行された雑誌がうず高く詰まれており、テーブルとして使われているのか、その頂には空になった皿と、水の入ったグラスが一つずつ置かれていた。そのグラスの底には義眼が一つあった。
 女は右手に持ったフォークを左右に揺らしていた。

 その頃、アパートの一階にある玄関ホールに、一人の男が現れた。
 男は勝手知っているかのように、ためらうことなく、ホールの奥に据え付けらた旧式のエレベーターに乗り込む。
 エレベーターのドアであるシャッターを閉めると、男は訪れる部屋がある階のボタンを押した。
 エレベーターは男の体重さえも耐え切れないかのように、軋みながらも、ゆっくりと上昇していった。

 フォークの動きが止まった。
 日中に教会で起きたという集団誘拐事件を扱ったニュース番組が流れていたが、女はもはやテレビに構っている様子はなかった。
 フォークが再び動き始めた。
 先程よりも激しく揺れて。

 薄暗い、わずかな灯りが照らす廊下を、男は歩いていた。
 男の両側には規則的にドアが並んでいるが、男は真っ直ぐに歩調を緩めることなく、廊下の突き当たりにある部屋を目指していた。

 ドアの下の隙間から、廊下の明かりが漏れていた。
 その僅かな明かりの中に、黒い影が過ぎった。
 直後、部屋のドアが蹴破られたが、女はそれに身じろぐことなく、悠然とソファから立ち上がり、ドアを蹴破った男の方を振り向いた。
「来ると思っていたよ」
 左目の無い女が笑みを浮かべながら、そう言った。
 女は手にしていた拳銃の引き金に掛けていた人差し指に力を込めた。
 男はその動きを見るや、傍らの杖を胸の前に構える。
 引き金が引かれた。
 瞬間、男は女の懐に飛び込んだ。
 後ろに退いた女に、男の杖が振り下ろされる。
 咄嗟に女は頭上の杖の動きを持っていた銃で止めようとするが、男の片足が女の腹に食い込んだ。
「っ!!」
 軽々と蹴り飛ばされた身体が背後の壁に打ち付けられた。
 女は背中の痛みを堪え、瞬時に身を起こすと、懐に隠し持っていたナイフを取り出し、男に切りかかった。
 が、男は杖を構えて女の攻撃を受け止めた。それどころか、女の身体に覆い被さるように力を込め、圧し掛かってきた。
 女は必死に男の動きを止めようとするが、情勢は不利になる一方だった。
 遂に男の身体を支え切れなくなり、床に尻をついてしまった。
 歯を食いしばって耐える女に対し、男はこの部屋を訪れた時から一切表情を変えていない。
 女は起死回生の手段として、男の身体の重みを左に抜けさせた。力の向きが急激に変わり、男は一瞬たじろいだ様子を見せた。その隙を逃すまいと、正面にあった男の左脚にナイフで渾身の一撃を与えた。
「ぐぅ・・・」
 女の口から呻き声が出たのは男の脚の異様な硬さゆえか、それとも反動で己の背中が床に触れたことゆえか。
 首元を何かがかすめた。左を見れば、男の杖先が床に突いている。
 上を見れば、男が無言で女を見降ろしている。
「警察かマフィアか、と思ったけれど、単独で行動する危険を犯すはずがない・・・。あなた、誰?」
 女が訊ねると、襲撃者は微笑んだ。

 深夜のダイナーのガラス戸を開けると、気だるげな表情の店主が振り返った。
 片足を庇うように歩く、杖を持った若い男。その男に続いて、やや青くなった目元を堂々と晒すアジア系の若い女が入ってきた。
 頭髪が姿を消してしまった店主はその手の組合せの客には慣れているのか、表情を変えることなく、カウンターの片隅に置かれたテレビに視線を戻した。
 店内には他にも何人かの客が居たが、深夜ということもあってか、皆どこか虚ろな目をしていた。
 二人が店の奥にあるボックス席に向かい合って腰かけると、くたびれ、薄汚れたエプロンを着けた店主の妻が直ちに現れ、
「御注文は?」
「コーヒー」
 即答する男に対し、女はテーブルの上に置かれたメニュー表に視線を彷徨わせ、やや遅れて「パンケーキ」と答えた。
 店主の妻がカウンターの中に居る店主の隣に戻ったことを確認すると、
「それで用件は? 私の顔を余計に醜くした慰謝料が、ダイナーのパンケーキ一皿分なんて言わないでしょうね?」
と、女が問い質した。
 男は微笑を浮かべながら、
「どんな姿になっても、あなたは美しいですよ」
 男の言葉に女は口の両端を更に下げた。
「世界中の女がそういう言葉を喜ぶと思わない方があなたのためよ」
「これは失礼しました」
 男がお手上げのポーズをとった。
「私はあなたのパトロンになりたいのです」
 男の唐突な発言に、女は顔をしかめた。
「ごめんなさい、よく聞き取れなかったらもう一度お願い」
「私はあなたのパトロンになりたいのです」
 男が丁寧に繰り返すと、女は背もたれに預けた身体を左右に揺らしながら、
「ご、ご、御冗談を」
と、不快な気持ちを表現した。赤茶色の合成皮が擦れて音を立てる。
「私はあなたの作品を心の底から気に入ったのです」
 身体を揺する動きが止まった。
 突然、二人の間に割って入るようにコーヒーとパンケーキが無言で置かれた。
 店主の妻は客人の反応を気にすることなく、伝票をテーブルの端に置くと、中年太りの身体を重たげに揺らしながらカウンターへと戻って行った。
「先程、あなたは私が何者であるかを訊ねられましたね。お答えします。私の名はアダム・J・クリスチャン。あなたが作る作品を愛し、あなたの創作活動を応援する男です」

2015年4月29日