05. NOBODY IN HER BODY

 死体を乗せられ、解剖台が音を立てた。
 明度の高い照明に照らされているために、死体の青白い色が過剰に演出されている。
「下手糞な手術だな」
 検死医官のその言葉に、効き過ぎている冷房のせいで巨体を揺らしていたハリーの表情が更に険しくなった。
 教会で発見された女性の死体には、胸元から下腹部にかけて手術痕のように大きな傷口が幾つも走り、その上を黒い糸が何度も横切っている。肌の青白さに黒い糸が映え、さながら素人が作った低予算映画に登場するゾンビを連想させた。
 検死医官はテープレコーダーのスイッチを入れると、
「初見、女性、髪はブロンド。目は灰色。出産経験は今のところ不明。腹部が膨らんでいる。腹部に妊娠線が無いことから、加害者の手によって何かが入れられている可能性が高い。傷口が幾つかある」
 傷口の数を数える検死医官を尻目に、ハリーはその死体の顔を睨む。 
 死体の腹部は妊婦を思わせる程不自然に膨らんでおり、所々、糸が千切れそうになっている。
 検死医官は鋏とピンセットを手に取り、傷口の片隅に食い込んでいる小さな糸玉を摘むと、それを少し引き上げた。
 糸を引っ張られたことにより、傷口が更に締まったが、検死医官がその糸を鋏で切ると、傷口が緩み、辺りに不快な臭いが漂った。
 部屋の隅から唸り声が聞こえた。其処には、顔面蒼白になっているブライアンが居た。
「お前なぁ、何年、警官のバッジを着けているんだ?死体の臭いぐらい、いい加減に慣れろよ」
ハリーが嫌味を投げつけると、
「こんな趣味の悪い猟奇殺人事件でも冷静になれる豪胆さが欲しいですね」
と、ブライアンが虚勢を張る。
「吐くなら、廊下に出てからにしてくれ」
 検死医官の言葉にブライアンは千鳥足になりながら部屋を出て行った。
「情けない奴だぜ、全く」
 そうぼやくハリーも、「あんたも、此処では楊枝を噛まないでくれ」と言われ、渋々、楊枝をズボンのポケットに押し込む。
「何だ、これは・・・?」
 ピンセットによって糸を抜き取られた傷口の奥には、ビニールの小袋が幾つも見えた。
 検死医官は、袋が破けないよう、慎重にピンセットで小袋の一つを取り出した。血によって赤く塗られたビニール袋を脱脂綿で拭うと、中身は白い粉だった。
「鑑識に連絡してくる」
 そう言い終わらない内に、ハリーは部屋を出て行った。

 パソコンのモニター画面の左下を見遣る。
 紙上掲載原稿の締め切り時間までまだ時間があるとは言え、WEB記事を担当している部署への提出締切が迫っている。
 女は焦りを抑えつつ、キーボードを叩くスピードを更に速める。
「ゴッサム市警察は、本日、“かんてぃかーぼう”を行う予定である・・・」
舌足らずな口調が、モニターの陰から彼女を突いた。
 女がキーボードから手を離し、視線だけを上げると、片手をひらひらと動かしながら、にやにやと笑う、彼女と同年代の若い男の顔が彼女を覗き込んでいた。
「マイクが新聞を読み上げる時って、こんな感じ?」
「マイクは元気よ。今日は聖歌隊の集まりがあるから、教会に行っているわ。それでウィル、邪魔しに来たの?」
 ヴィッキーはウィルの登場によって貴重な時間が失われたと言わんばかりに、手元の原稿をパソコンに打ち込む作業に戻る。
「おいおい、それが同僚に言う言葉かい?」
 ウィルはそう言いながら、ヴィッキーが座るデスクの隣の椅子に、断りも無く腰掛ける。
「“元”同僚だから言うの。それより、この間の教会前のリポート見たわよ」
「カメラ映りが良かっただろ?」
「テレビ部に配置転換を申請したと思ったら、いきなり警察を怒らせるような真似をしないで。あんなことされたら、新聞部の私達が取材しにくくなるじゃないの」
「馬鹿な刑事が悪いのさ」
「・・・・・・ウィル」
「何だい、ママ?」
 ヴィッキーは溜息を吐くと、慎重に周囲を見回した。皆、己の仕事に手が一杯のようで、誰も二人に注意を払っている様子は無かった。
 ヴィッキーはウィルに向き直り、小声で、
「この間、ジョーカーに面会したそうね」
「どこでそれを知ったんだい?」
ヴィッキーの真剣な表情に気圧されたのか、ウィルも真顔で尋ね返す。
「編集長に電話していたでしょ。ジョーカーへのインタビュー番組を放送するから、ジョーカーに関連する記事を番組宣伝として載せてくれって」
「盗み聞きは好くないぜ!」
 ウィルの大声に、ヴィッキーは慌てて彼の脚を蹴り上げる。
「何がいけないんだ?ジョーカーに関連する番組は視聴率が上がることぐらい、知っているだろ?」
 痛みに顔を歪めながらも視聴率を理由に反論するウィルに、ヴィッキーは呆れた。
「ふざけないで」
「おいおい、盗み聞きしていたことを棚に上げるのかい?」
「私はあなたを心配して言っているのよ」
「母性本能を刺激する程、俺はイイ男のようだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「悪かった。心配してくれるのは有難く思う」
「『でも凶悪犯罪者への興味は尽きない』?」
 ウィルは正解の証として、深く頷いた。
「下手に深入りし過ぎて、あなたまでいつか犯罪者になりそうで不安なの」
「そこまで深入りすることはないと思うけどな」
 それでも尚、不安げな表情を浮かべるヴィッキーに、ウィルはこう言った。
「動物学者が観察対象である動物の真似をするか?己と根本的に異なる存在を研究したところで、動物に変身するなんてありえないさ」
「相手はチンパンジーじゃないわ。同じ人間なのよ」
「同じ人間でも、俺達善良な市民とは此処が違う」
 ウィルはそう言って、己の頭を指差した。

 廊下を、若い男が歩いていた。
 脚が不自由なのか、小奇麗なスーツを着た男の右手には杖が握られており、男が歩く度に杖の先がリノリウムの床とぶつかり合った。
 都心に在る教会には珍しく、車の走行音も聞こえてこず、男の足音と杖の音だけが響いていた。
 やがて男は大きな両扉の前に立ち止まった。
 男がゆっくりと扉を開けると、そこは長椅子が幾つも並べられたホールだった。ホールの奥には祭壇があり、その祭壇の傍らには十数人の子友達が並んで立っていた。
 子供達は神父が動かす指揮棒に合わせて成果を歌っていたが、その内の一人が男に気付き、隣に立っていた少年を片肘で突いた。突かれた少年も、男に気付いた。
 二人の遣り取りに気付いたのか、他の子供達も突然の訪問者を一目見ようと、指揮棒を無視し始めた。
 神父は男に背を向けていたため、最初は男の存在に気付かず、子供達の注意を戻そうと指揮棒を振り回していたが、子供達の視線の先を辿り、ようやく男の存在を知った。
 ホールの入口で所在投げに立つ男の姿を見つけると、神父は手ぶりで彼に長椅子に座るように伝えた。
 男は入ってきた時と同じように、静かに扉を閉めると、入口の傍の長椅子に腰かけた。
 神父は子供達の注意を引き戻そうと、指揮棒で譜面台を叩いた。
 子供達も聖歌の練習に戻ろうとしたが、再び、突然の乱入者によって阻まれた。荒々しくホールの扉が開かれたと思いきや、黒い装甲服に身を包んだ集団が現れたのだ。
 装甲服の集団の先頭に立っていた男が、
「静かに!その場を動かないで!我々は警察だ!」
と、大声で告げた。
 その言葉を聞いた子供達は、普段とは異なる事態に興奮したのか、一斉に騒ぎ始めた。神父が子供達を落ち着かせようとするが、それで静まる程、子供は大人しくない。
 必死で子供達の騒ぎを収めようとする神父の苦労を余所に、装甲服の男が神父に近寄り、耳打ちした。
 神父が驚きの表情を浮かべ、装甲服の男を振り返る。
 最後にいる他の装甲服の男達は黙って、長椅子の間の通路に立っている。
「さあ、みんな、急いで外に出るんだ」
 神父が子供達に呼び掛ける。
「外で何をするの?」
 一人の子供が訊ねるが、神父は苛立たしげに「さあ、早く。離れ離れにならないよう、手を繋いで」と、言うだけだった。
 子供達と神父は興奮収まらぬ中、装甲服の集団に囲まれながら、ホールを出て行った。
 静かになったホール内に、携帯電話の電子音が響き渡った。
 長椅子に座っていた若い男は、ジャケット・スーツの懐から携帯電話を取り出し、耳元に近付ける。
「・・・・・・はい」
 電話の相手が、男に何かを告げる。
「ああ、わかった。では計画通りにそいつらを運んでくれ。・・・・・・いや、彼女は私が迎えに行こう」
 男は電話を切ると、長椅子の背と杖を支えに、立ち上がった。
 ふと男が祭壇に目を遣ると、腹部から血を流し、項垂れるイエス・キリストの十字架像があった。十字架の背後にあるステンドグラスから外の光が差し込んでいるせいか、キリスト像は七色の光を背負っているように見えた。
 男はキリストの像をしばらく見つめていたが、静かな足取りでホールを後にした。

2015年1月29日