第九章
都心から数時間、新幹線に乗った先に位置するN市。
周囲は高い山に囲まれた盆地であるためか、冷房の効いた涼しい新幹線車内から降りた堺を、熱く蒸した空気が出迎えた。
前世紀はオリンピック開催地として持て囃されたが、今ではその名残を留めるのは、駅構内のガランとした空間の隅にある一枚の記念プレートだけだった。
堺は駅を出ると、胸ポケットから目的地までの経路を書いたメモを取り出し、駅前のロータリーに並ぶバス停留所の乗り場を確認した。
メモをポケットに戻そうとした時、ポケットの中に入れていた携帯電話に指先が触れた。
ふと、井筒が遺した封筒のことや、N市に来たことを常磐に伝えようかと考えたが、
「T町バスターミナル行きバス、間もなく発車します」
と、堺が乗ろうとしていたバスのアナウンスに急かされ、電話をかける機会を失ってしまった。
バスの座席は他の乗客によって埋まっており、何人かは吊革に掴まって立っていたが、皆、中心街からそれほど離れていない停留所で次々と降りていき、駅から二十分走ったバスが山間の狭い道に差し掛かる頃には、乗客は堺だけになってしまった
それから更に一時間ほどバスに揺られたころ、ようやく終点であるT町バスターミナルに着いた。
バスターミナルと称するからには、路線バスが何本も駐車しているのかと思いきや、実際にはバスを二台並ばせるのが限界なことが見てとれる、古びた建物であった。壁際にベンチが一つあるだけで、腰掛ければ悲鳴をあげそうな程、そのベンチの脚は錆びている。
堺は想像と現実との差にやや呆然とし、インターネットで経路を調べる際に、建物や周囲の地図も確認しておけばよかったと後悔した。
「あの、ここら辺でタクシーはすぐにつかまりますか?」
運転席に座って運転日誌を書いていたバスの運転手は、バスを降りた堺の声に顔を上げ、
「タクシー? それなら電話で呼ばないと来ないですよ。電話番号なら、そこの待合室の掲示板に書いてますから」
運転手が指さす先には、古い木製のドアがあった。
堺がその戸を開けると、戸は軋んだ音を立てた。
待合室というわりには、利用者数の少なさを自覚しているのか、ベンチが二つ並んでいるだけの、狭く、薄暗い部屋だった。天井を見上げると、細長い蛍光灯が二本だけ並んでいる。
堺は掲示板に貼られていた、日焼けしたポスターに記載されているタクシー会社の電話番号でタクシーを呼ぶと、十五分程で堺がいるバスターミナルに着くと言われた。
待合室を出ると、堺を此処まで運んだバスはどこかへ行ってしまった後だった。
バスターミナルの前を走るメインストリートらしき道路は、狭い一車線道路で、行き交う車の影も音も無かった。
向かいには社殿だけの神社があり、堺は道路をゆっくりと渡ると、その社殿の階段に腰を下ろした。
車庫、ではなくバスターミナルの屋根を見上げると、屋根の庇の下には燕の巣があった。
糞が落ちてこないよう、巣の下にはプラスチックの敷物が据え付けられている。
腕時計を見ると、時刻はまだ午前九時を回ったところだった。それでも標高の高い山間の村ゆえ、太陽との距離が近い分、コンクリート道路から照り返す暑さは堺の身体を攻め立てる。
喉の渇きを癒やそうと自動販売機を探すも、堺の視界には飲料メーカーのロゴが側面に書かれた自動販売機は一台も入らなかった。
落胆すると、余計に冷たい飲み物への欲求が強くなった。
その時、胸ポケットに入れていた携帯電話が振動した。着信画面には『日本ファン・ウェブ 常磐』と表示されている。
最後に常磐と病院で会った時から数日しか経っていなかったため、以前のように直ぐに出る気にはなれなかった。
しかし、いつまでも子供じみた真似は許されない。
堺は仕方なく、電話に出た。
「もしもーし、堺さん」
剽軽な声が突然流れ、堺は驚いた。
「傷の調子はどうですか?」
何故か柳河が訊ねてきた。
「おかげさまで、何とか過ごせてますよ。えーと、常磐さんはどうされたんですか?」
N市にいることを知られたくないので、堺の声は自然といつもよりも大きくなった。
「いやあ、常磐のあんぽんたんが、取材のため出掛けたくせに社用携帯を会社に置き忘れていったんですよ。まあ、直ぐに戻ってくるでしょうけれど、大事なことを早く堺さんにお伝えしたくってね」
「大事なことって何ですか?」
「『魔改造プログラム』制作者へのインタビュー記事の件です」
堺の汗が一瞬で引いた。
「弁護士から連絡がありました。依頼人が亡くなり、遺族からも、亡くなった人間を貶めるような内容でなければ、インタビュー記事を書いても良いそうなので、今まで通りの感じでインタビュー記事を書いてください」
「わかりました。深く踏み込んだ質問をする前に事件が起きたので、内容量はこれまでよりも半分ほどになると思いますが、どうしましょうか? 前半をインタビューに充てて、後半は今後の業界についての考えを入れたものにしますか?」
「そうですねえ・・・」
柳河が考え込む。
すると、堺からやや離れた所に一台のタクシーが止まった。
タクシーの運転手は車から降りると、バスターミナルの待合室に入って行った。だが、直ぐに出てきて、社殿の階段に座り込んでいる堺の姿に気付き、近付いて来た。
「すみません、記事の内容についてどうするか、ちょっと検討してみてください。これから出掛けるところがあるので、また折り返し、こちらからお電話します」
「了解です。常磐ともう一度、話してみますね」
携帯電話を耳元から離すと、運転手は愛想よく笑って、
「堺様ですか?」
と、話しかけてきた。
「そうです」
「お待たせしまた、木曽タクシーです。どうぞ、お乗りください」
丁寧なことに、わざわざ後部座席のドアを開けて、堺が身体をぶつけないよう、ドアを押さえてくれる。
堺は早速、タクシーに乗った。
「この住所に行ってください」
と、行先を書いた紙を運転席に座った運転手に見せた。
堺が差し出したメモを見た運転手はちょっと驚いた様子だった。
「へえ、あの集落の奥まで行かれるんですか」
「ええ、まあ」
「御親戚の方ですか?」
「い、いえ、古い知り合いと会う約束をしてまして」
遠い親戚と誤魔化せば、どこの血縁者なのかとあれこれ聞かれるかもしれないと堺は不安になった。
幸い、運転手はそれ以上深く訊くことはせず、バスが通って来た道よりも更に狭く急なカーブがいくつも続く登り道を走りながら、最近は熊が畑を荒らすようになったことや、雨や曇天の日が続き、この村の名産品である林檎の実りが悪いなどと、堺の反応には構わず、一方的に話し続けた。
やがてタクシーは三叉路の道の内の一本に入り、車が一台ようやく通れるような狭い道を、ビニールが外された農業用ハウスの骨組みに見下ろされながら進むと、四軒の家が並ぶ集落があった。
目的地に着いたのかと思いきや、タクシーはその集落を通り越し、さらに奥へと続く林道へ入って行く。
段々、堺は此処へ来たことを後悔し始めた。
井筒が遺した封筒の中身には、タクシーの運転手に告げた行き先の住所が印字されたメモが一枚だけ入っていた。そこに行けば何かが判るに違いないと、無謀にも堺は翌朝早朝に新幹線に乗り、N市に来たのだった。
昼でも薄暗い林道を走っている途中で、木立が途切れたところがあった。
道路脇のガードレール下から見える谷底に、一軒の家が建っている。
井筒の秘密はあそこなのだろうかと、堺の心中は不安と興奮でせめぎ合った。
道は下り坂になり、タクシーはゆっくりと谷底へ下りていく。
「帰りはどうなさいますか?」
目的地が近い証なのか、運転手が急に堺に訊ねた。
「また、改めて電話します」
「そうですかぁ。電話番号はわかります? 何なら、タクシー・カードをお渡ししましょうか?」
「念のため、一枚カードを下さい」
そんなやり取りをしている内に、タクシーは遂に谷底の一軒家の前に着いた。
堺は料金を渡し、タクシーを降りた。
「じゃあ、戻りますので」
運転手はそう言ってドアを閉めると、狭い道を方向転換もせずにバックした状態で、今来た道を器用に戻って行った。
エンジン音が遠ざかるにつれて、野鳥や蝉の鳴き声に加え、風が梢を擦る音がいやに耳にはっきりと聞こえるようになった。それ以外の音は無く、人間社会から隔絶されたような孤独感に、堺はみぞおちが絞られたような感覚に襲われた。
周囲を木々に囲まれたその平屋建ての家の前には小さな畑があり、様々な野菜が育てられている。畑の雑草はほとんど抜かれている。小まめに手入れがされている証拠だ。
庭に面した窓には網戸が閉められているが、レースカーテンが掛けられているため、室内の様子は伺えなかった。物音も聞こえず、人がいる気配も感じられない。
周囲を見回すも、移動手段となる自動車やバイクの類は無かった。
もしかしたら、この家の住人は何処かへ出掛けているのかもしれない。
取り敢えず、呼び鈴を鳴らしてみようと、堺がその家に向かって一歩踏み出したその瞬間、玄関の引き戸がいきなり開いた。
引き戸の向こうから現れた相手は相手は堺を見るなり、警戒の表情を浮かべたが、
「こんにちは」
と、口元に笑みを浮かべて先手を打ってきた。
「こんにちは」
堺も挨拶を返す。堺としては笑みを浮かべたつもりだったが、緊張のせいか、固い笑みであることは鏡を見ずとも察せられた。
「車のエンジン音が聞こえたので、出てきたのですが、セールスならお断りしてますよ」
バンダナを頭に被ったその男は笑みを崩さず、更に手を打ってきたが、堺は、
「いえ、セールスではありません。ある人から教えてもらって、この場所に来たのです」
と、やや上擦った声で答えた。
嘘は言っていない。
相手はちょっと顔を傾げた。
「『魔改造プログラム』を開発した井筒さんから、この場所のメモを受け取ったのです」
そう言っても、相手は首を傾げたまま、なおも動かなかった。
堺はしびれを切らし、あの封筒と紙を見せた。
「井筒さんの弁護士から渡された封筒の中に、此処の住所が書かれた紙が入ってました」
相手は肩を竦め、空を見上げた。
「今日は暑くなりそうですね」
堺もつられて顔を上げる。雲一つない青空だった。
視線を戻すと、相手は一歩、奥へと下がり、
「立ち話もなんですから。どうぞ、中へ」
と言った。
「あの」
「遠慮しないで下さい。客人は久しぶりなのですから」
「はあ」
堺としては、この人が井筒が隠したかった秘密の一端を握る人物なのか、定かではなかったが、虎児を得るために虎穴に入った猟師の如く、敷居を跨いだ。
古家にありがちな高い框を上ると、相手は引き戸を開け、
「おかけになってください」
と、堺を部屋に案内した。
その部屋は二脚の椅子に挟まれた小さなテーブルが一つ、絨毯も敷かれていない板張りの床の隅には雑誌が何冊か積まれていた。他には何も無く、寒々しいほどの広さを感じさせる。
促されて堺が椅子に座ると、相手はテーブルの隅に置いていた急須を持って、奥の台所に入って行った。
堺は相手の背中をそっと伺った。
身長は堺と同じくらいだったが、身体は全体的に細く、華奢だった。
相手が不意に振り返り、
「緑茶しか出せるものが無いんですけれど、それでもよろしかったですか?」
堺は首を縦に振り、
「お構いなく」
と、言った。
相手は微笑み、冷蔵庫を開け、氷をグラスに入れてゆく。
「此処まで来るのに、大変じゃなかったですか? バスターミナルからもずっと離れていますし」
そう言って、相手は堺のところに戻って来た。
「タ、タクシーで来ましたから、平気です」
無理に言い切った堺に、相手の微笑みは更に深くなった。
堺の前にグラスとおしぼりが置かれ、冷たい緑茶が注がれると、グラスの中の氷が音を立てる。
堺は、テーブルを挟んで、目の前の椅子に腰かけた相手を見遣った。
浅黒い顔の中で、男の大きな目がじっと堺を見つめている。青年のように見えるし、老人のようにも見える。どことなく世捨て人のような雰囲気だった。
「大丈夫ですよ、毒なんて入ってませんから」
相手は鷹揚に笑って、お茶を飲んだ。堺も一口飲んだ。
「『魔改造プログラム』開発者の井筒さん絡みで、こちらへ来られたそうですが・・・?」
「突然の訪問、改めてお詫びします。自分は、こういう者です」
と、まるで刑事ドラマに登場する刑事のような口振りで、堺はバンダナの男に名刺を差し出した。
相手は名刺を受け取って、一瞥し、
「堺さんですね。私の名前は」
「名前は言わないで下さい」
堺は、己の名前を告げようとした相手を、片手を挙げて制止した。
「此処のことは、井筒さんが遺したメモを読んだから知りました。しかし、此処に来ることは誰にも話してません。井筒さんの弁護士や、警察、家族にも言わず、一人で来ました」
バンダナの男の顔から、徐々に微笑が薄れてゆく。
「井筒さんの弁護士から、此処の住所が書かれたメモが入った封筒を渡された時、井筒さんとしては、生きている間はどうしても隠しておきたかった秘密が入っていると言われました」
「わざわざ此処へ来たのは、その秘密を知りたかったからですか?」
「そうです。出羽亀かもしれませんが、井筒さんが隠したかった秘密を知りたかったのです」
堺の心臓の鼓動が徐々に高まって行く。
「井筒さんの秘密を知ったからといって、それを世に知らしめるつもりはありません。どんな秘密であろうと、墓場まで持っていく覚悟です」
バンダナの男は目を閉じた。
「彼が死んだことはラジオのニュースで知りました。介助士の方も亡くなったけれど、一人、大怪我をした人がいると言ってましたが、それはあなただったんですね」
堺は頷いた。
「井筒さんが遺した封筒のこと、御存知だったんですか?」
「ええ、彼の方から、此処の住所を書いたメモを封筒に入れても良いかと訊かれましたので。まあ、私自身が彼の秘密みたいなものですから」
「あなたは、彼の秘密を何か知っているのですか?」
相手は、目を開き、こう言った。
「『魔改造プログラム』を制作した人間は、この私なんです」
その言葉を耳にした堺の全身は一瞬で強張った。
「彼が隠したかった秘密は、そのことなんです」
「い・・・」
声を出そうとしたが、言葉が続かなかった。
「井筒さんは・・・、あなたの身代わりに、逮捕されたということですか?」
「身代わりと言うと、ちょっと語弊がありますね」
バンダナ男は少し顔をしかめた。
「彼は私になりたかったのです」
「それは、どういう・・・?」
「変身願望と言いますか。彼は、今の自分以外の誰かになることを、とても強く願っていたのです」
井筒の生前の姿を思い浮かべているのだろう、男はゆっくりと話し始めた。
「井筒さんは、生まれつき己の身体をほとんど動かせないことに、非常に強い怒りと悲しみを抱いていました。あの感情は、健常者である私には到底、理解できないものです。井筒さんとは、『作家になろう』ゲームの発売直前の頃――丁度、私が『魔改造プログラム』を組み始めた時のことです――プログラミングに関するチャットで知り合いました。もちろん、最初は彼が身障者であることなんて、全く知りませんでした。
お互いに年齢が近いとわかって以来、頻繁にメールでやり取りをするようになって、しばらく経った時のことです。プライベート・チャットにて、私が、今朝は地面が凍っていたので、滑って転んでしまったということを書き込んだら、井筒さんから、自分は滑って転ぶということを体験したことが無いという返事をもらいました」
堺は、冷たい緑茶を一気に飲み干した。
「続けて、自分は重度の身体障害者であること、身の回りの世話をしてくれる介助士のように、自由に動き回りたい。自分の脚で階段を上り下りしたい。とかく、健常者になったら何をしたいか、延々と書き込まれました」
男は視線を外に向けた。部屋の中に差し込む光が、男の彫りの深い顔立ちに影を作る。
「それを知った私は思いついたのです。彼を健常者の身体に変えることは出来ないけれど、中身を別の人間に変えることは出来る、と」
男の顔が堺に向けられる。
「・・・・・・」
「昔から厭世気味だった私は、彼のその変身願望に付け込んだのです」
「井筒さんを、あなたの性格そっくりになるように変えて行ったということですか?」
男は鷹揚に頷いた。
「物事に対して、私と同じように考えられるよう、訓練したのです」
「それは、洗脳なのでは・・・?」
「確かに一種の洗脳ですね。でも、彼が自ら望んだことです。この先何が起ころうと、彼はそれまでの自分を捨て、最期まで別人になりきる覚悟を持っていました」
「警察は、彼がプログラムを組んだ人間ではないことを知っているのですか?」
「知らないでしょうね。私は彼にプログラムデータをアナログ文書で郵送しましたから。それに、彼も私と同じくらいプログラミングの技術と知識は持っていますので、あのプログラムを自ら組んだように見せかけることは簡単です。私とのやりとりをしていたプライベートチャットでの会話記録を管理するサーバーは、日本の警察では手出し出来ない国にありますから、私が何処の誰なのかは、井筒さんが遺した封筒を開けた人間だけしか知りえません」
「データを郵送したなら、どうやって封筒を開けたんですか?」
身体をほとんど動かせない井筒に、封筒を開けることは至難の業だったはずだ。
「マジックハンドとパソコンを繋ぐプログラムを開発した本人ですよ、マジックハンドに鋏を持たせることも可能です。書類をシュレッダーに入れることも出来たでしょう」
堺は唾を飲み込み、訊ねた。
「あなたは、何故あのプログラムを開発したのですか?」
「井筒さんが、堺さんのインタビューに対して答えたことと同じですよ」
「あなたの答えを聴きたいのです」
男は肩を竦めた。
「井筒さんは、警察の取り調べや裁判の時と同じように、あなたのインタビューでも、己の能力を誇示するために作ったと答えていましたか?」
「ええ、そのように答えました。しかし、井筒さんがあなたの考え方を体得していることを知った今、ひけらかすために公開したという答えは建前のような気がするのです」
堺は男の反応を伺ったが、彼は目を瞬かせただけだった。
「あなたが今、話してくれたことが事実なら・・・。井筒さんとしては、あなたになりきろうと、能力誇示が理由であることを心の底から信じて、世間に対しても、私に対してもそのように答えたのだとしたら」
そこまで言った途端、男はくすくすと笑い出した。
「堺さん、あなたはとっても面白い人ですねぇ。なんだかサスペンスドラマの謎解きをする主人公みたいです」
尚も笑うバンダナ男に、堺は拍子抜けしてしまった。
「堺さんが推測した通り、あれは表向きの理由です。私が『魔改造プログラム』と呼ばれるプログラムを開発した理由を、正直に井筒さんに教えていたら、彼はずっと前に殺されていたでしょう。これでも私は彼の身を案じて、そのように伝えたのです」
「しかし、結局、彼は殺されてしまった」
「そうです、とても残念なことです」
バンダナ男の他人事のような物言いに、凪いでいた堺の感情が一瞬で嵐に変わった。
「残念? 本当に残念だと思っているんですか? 桂木さんが、どういう気持ちで井筒さんを襲ったのか、理解しているんですか?」
堺の突然の激昂ぶりに、相手は驚き、僅かに身を仰け反らせた。
「あのプログラムのせいで、どれだけ大勢の人間が苦しんだか、人生を狂わされたか、あんたには、あんたに・・・」
声が自然と震えた。
今までインタビューしてきた当事者たちは、『魔改造プログラム』の影響を少なからず受けていた。彼らは皆、その影響から逃れようともがき、打開しようとするも、やがて己の無力さに気付かされた。
それは堺自身も同じだった。
現状を何としてでも変えたかった。ただ、どうすればよいのかが分からず、時間が残酷に流れ、焦燥感は増していったのだ。その焦燥感を、堺は時に無視し、受け入れようとし、逃げようとした。
だが、桂木は違った。
桂木はその焦燥感に向き合い、受け入れることを拒み、闘った。
そして、負けてしまったのだ。
「やはりあなたは面白い人です、堺さん。面白いというのは、私にとって、という意味ですが」
バンダナ男が唇の端を上げた。
「あなたの感性は、世間一般的なものです。あなたが、私が開発したプログラムに対して怒りを感じることは、“普通”の感性からみれば、至極当たり前のことです」
「普通の感性って、どういう意味ですか?」
なかなか本題に入ろうとしない、その話しぶりに堺は尚も苛立った。
「普通は普通です。あなたがイメージする、常識ある人間が持つ感性のことです」
堺は無言で顔をしかめ、最大限の不満を表に出した。
「私がこんな山奥で暮らしているのも、私と、世の中の感性に隔たりがあるからです。人世から物理的な距離を置いた方が、私の心が落ち着くのです」
「それが」
どうしたのかと問おうとした堺を、バンダナ男は片手を挙げて制した。
「私と堺さんとでは、物事に対する考え方が違います。これは断言できます。生まれも育ちも、これまで培ってきた経験も違うのだから当たり前ではないか、と思われるでしょうが、私があのプログラムを開発した本当の理由を知れば、あなたはきっと私のことをお怒りになるでしょう」
堺はそれを聞いて鼻で笑った。
「大丈夫、もう既に怒ってますから」
「その怒りは、私に殺意を抱くほどの怒りですか?」
「殺意ではありませんね。『魔改造プログラム』を徹底的に破壊したいほどの怒りです」
男は氷が溶けたために味が薄くなった緑茶に口をつけた。
「今の怒りがその程度であれば、きっと私を殺したくなりますよ」
「あんたもしつこい人だな! こっちは本当のことが知りたくて来たんだ! あんたを殺すかどうかは、あんたの話を聴いてから決める! 口出しは無用だ!」
かなり乱暴な言い方になってしまったが、それでも相手は己の調子を崩さなかった。
「失礼、私には叶えたい夢があるので、まだ死にたくはないものですから、どうも疑り深くなってしまうのです」
「死にたくない!?」
堺は厭味ったらしく、げらげらと笑った。
「あんなものを作っておいて、夢があるから死にたくはないって、御大層なこった」
堺は目の前の男を指差した。
「あんたが行ったことは人災だ! 人類への裏切りだ! 今まで何千年と築いて来た文化を、一瞬で壊してしまった」
「そうですね」
堺が力任せにテーブルを叩いたため、グラスが大きく揺れた。
「もう一度訊く」
額から頬を伝って、汗が流れ落ちた。
礼儀作法も、丁寧な言葉遣いも堺は捨てた。
「あんた、何であのプログラムを作ったんだ?」
男は両腕を広げた。
「私は苦しみ抜いた人間が、後世に長く語り伝えられるような、素晴らしい物語を生み出す奇跡を望んだのです。人類の古典となるような、そんな物語が生まれる瞬間を見たいがために、あのプログラムを開発し、世に出したのです」
「・・・・・・へ?」
呆然とする堺を、相手はニコニコと見つめている。
「ちょっと待ってくれ、あんたの話はどうも曖昧ではっきりしない。人類の古典が生まれる瞬間を見たいからだって?」
「ええ」
男は身体を前のめりにして話し始めた。
「もともとは、作家にとって苦難の時代になった時、彼らはどう反応するのか、という疑問を抱いたことが出発点です。この疑問は、『作家になろう』ゲーム発売時、このゲームによって我々人間の創作活動が制限される恐れがある。今後このようなゲーム開発が進めば、作家にとって苦難の時代となるであろうと、不満を述べる作家の意見が載せられた新聞記事を読んでいる時に、ふと考えたのです。
私は、あのゲームの人工知能は、ごく僅かの作家の作風しか学習していないのですから、人間の作家の脅威になるとは思えませんでした。
では作家にとっての苦難とは何か? 政治的理由により創作活動を制限されたり、禁止されることか? いいえ、それ以上に苦しいことがあります。それは、誰も自分の作品を読んでくれないことです。
何らかの理由で制限されているわけではないのに、誰も己の作品を見てくれない。作家としての存在意義を問われる。それこそが、一番、作家にとって苦しいことなのではないか。
自作品を発表しても、大勢の人がいる場所で披露しても、誰からも見られない。気にも留められない。そんな状況でも、こちらを見向きもしない人々を振り向かせられる作品が生まれたなら、振り向かせた人間の数が多ければ多いほど、その作品は、大衆の心を動かしたとして、歴史に残る、いえ、残すべき作品として称えられるでしょう。
そう考えて、私は自分の得意なプログラミング技術を使うことにしたのです。
しかし、この願望は危険と隣り合わせです。衰退しつつある業界が、私が開発したプログラムのせいで短期間で消えることは勿論予想していました。そして、あのプログラムを開発した私に対して恨みを持つ人も現れるだろうと。
夢のため、私は何としてでも生きたかった。少しでも身の危険を避けたかったのです。そんな時、井筒さんが他の人になりたいという気持ちを抱いていることを知ったのです。
私は、自分の夢のために友情を蔑ろにし、彼のコンプレックスを利用しました」
破壊願望も、殺意も湧かなかった。
男が語った理由が、目的が、堺の想像を超えていた。
「私は待っているのです。あのプログラムが社会を変えたように、自作品によって社会を変える、救世主たる作家が現れることを」
堺の視界が、涙でぼやけた。
「救世主なんて、ちっとも現れないじゃないか」
堺は己のグラスを見遣った。中身は氷が溶けた水しかない。
「おかわりを、いや、要らない」
堺は溶けた氷を飲んだ。冷たい液体が五臓六腑に染み渡る。
「『魔改造プログラム』を一掃できるようなプログラムは、開発出来ないのか?」
「開発しても、『魔改造プログラム』の亜種を根絶することは出来ませんよ」
男の冷静な声に、堺は納得しそうになった。
「それでも、それでも、もう、どうにもならないのか?」
事態解決を半ば懇願する堺の姿に、
「堺さん、あのプログラムが文化を破壊していると言いますが、そんなことはありません」
男は首を左右に振った。
「確かに作家は昔ほど必要とされなくなりました。でも変わらないものがあります」
男は堺に言い聞かせるように、ゆっくりと話した。
「人々は、こんな世界になっても物語を求めているのです」
こんな世界に変えてしまった男の言葉は、堺には、人知を超えた魔が発しているように聞こえた。
「作家も読者も、物語を求め、楽しむ心を失うことを恐れるべきなんですよ。人々が物語を求める限り、作家は彼らを振り向かせられる余地はあるのです」
家を出ようとすると、先に外に出ていたバンダナ男は玄関の中にいる堺を振り返り、
「堺さん、傘はお持ちですか?」
と、訊ねてきた。
「もうすぐ雨が降りますよ」
堺が外に出て、空を見上げると、いつの間にか大きな雲が近付いて来ていた。
「雨が降ると涼しくなるのは好いんですけれど、畑仕事が捗らないことが困りますね」
バンダナ男が呑気にぼやいた。
「ずっと、此処に一人で暮らしているんですか?」
「そうですよ」
電話で呼んだタクシーのエンジン音が微かに聞こえた。
「辛くないんですか?」
堺の問いに、バンダナ男は堺に顔を向けたようだったが、空を見上げ続けている堺に、男の表情は見えなかった。
「辛くないですよ」
バンダナ男は再び、顔を空に向けた。
エンジン音が、徐々に大きくなってきた。
「私には夢があるのですから」
それは、堺の夢になることを宣言した桂木と同じくらい、清々しい声だった。
2017年12月27日