第八章

 「災難でしたねえ」
 退院を明日に控えたその日、常磐が見舞いにやって来た。
「常磐さんたちにまで心配かけてしまって」
 堺の手の紙皿には、常磐が持ってきてくれたカステラが乗っている。見舞客と一緒に食べられるように、使い捨ての小皿やフォーク類も病院の一階にあるコンビニで買ってきたという。
「堺さん、少し痩せました?」
 眉間にやや皺をよせて深刻そうに訊ねる常磐に、堺は、
「あれだけ血を流して病院食も続けば、痩せますよ」
「止めてくださいよ、笑いに困る冗談は」
 常磐が苦笑いして応える。
 事件前の頭痛はすっかりなりをひそめた。念のために検査をしてもらったが、どうやら夏風邪だったようだ。
「あの人の」
 言いよどんでしまったが、それを振り切るように、堺は言った。
「桂木さんの本が売れているらしいですね」
「そうなんです。版元が潰れてしまっている上に、電子書籍化もされていないので、紙ベースの本がネットオークションで高値で取引されてますよ。中には図書館から持ち出した本を売ろうとした輩もいて、ちょっとした騒ぎです。彼の出身校の同級生を名乗る人が彼の学生時代の様子を書き込んだり、写真を載せたり、テレビや新聞よりもネットの掲示板の方が情報が早いくらいです。
 そうそう、プログラマーをストーキングしていた人物の正体が、ネット上で悪戯動画を投稿していた学生であることが判明したようですよ。警察が動き出すのも時間の問題でしょうね。あ、ちなみに原稿の締め切りは予定通りですから」
 常磐が興奮したように早口で語ったと思いきや、何気なくさらりととんでもないことを言い放った。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ」
 堺の慌てぶりに、常磐は少し顔をしかめた。
「まさか、刺されたショックで、締め切り日のことをお忘れになったんじゃ」
 本気なのか、それとも冗談なのか。心配する様子を見せる常磐に堺は苦笑いしつつ、
「締め切りのことは忘れてませんよ、もちろん」
と、答えた。
「書店員へのインタビュー記事は出来上がってます。入院中にパソコンを持ち込んで、原稿を書いていたのです」
「なんだ、脅かさないで下さいよ」
 常磐が大袈裟に肩をなでおろす。
「編集部では、プログラマーの弁護士の動き次第ですが、今のところは予定通りインタビュー記事を掲載することを考えてます」
「そのことなんですけど、あれから考えていたんですよ。あの、プログラマーへのインタビュー。中断はしているけれど、あのインタビューを、果たして記事にしてしまってもよいものなのだろうかって」
「・・・・・・どういう意味ですか?」
 堺の意図するところをくみ取れなかったのか、常磐が困惑した表情で訊ねた。
「人が死んでいるのです。病気ではなく、その」
 堺はまたも言いよどんでしまった。
 あの肉を突く音が、思い出したくもないのに、他の音を聴くことで誤魔化そうとする堺の耳元でもがいている。
「殺された」
 常磐の冷静な声音に、堺の耳は救われた。
「そう。だから曲がりなりにも、その、人の最期を載せるのは、遺族や彼の親しい友人の気持ちを考えると、正直、記事にするべきじゃないと思うんですよ」
「は? 何言っているんですか?」
 思わぬところから不意打ちを食らった堺は、ぎらついた常磐の目とぶつかった。
「あなたは誰のために記事を書いてきたのですか?」
 堺は何かを言おうとした。応えようとした。だが、その『間』すらも、相手は許さなかった。
「僕は単純に話題になることを見込んで、このインタビュー企画を提案したのではありません。誰かが冷静な視点でこの現状を記録しなければ、ますます創作界は衰えると思ったからです。『日本ファン・ウェブ』の読者のためだけではありません。あらゆる人々にその危機感を持ってもらいたいがために、僕はあなたにこの企画を依頼したのです」
 常磐の畳みかけてくる勢いに負けじと、堺も反論した。
「常磐さんが目指しているものは立派だと思います。でも、今回は人が死んでいる以上、記事を読んだ人が、常磐さんが考えているような危機感を、全員が持てるとは考えられないのです。一時の話題性と野次馬根性で記事を読まれることは、常磐さんが本意とすることではないでしょう?」
「理解できないやつのために、何故わざわざこちらが配慮しなければならないんですか?」
 常磐の目が一層険しくなった。
「はぐらかさないで下さい」
「はぐらかしてませんよ。逃げようとしているのは、堺さんの方でしょう?」
 堺は常磐を同じ土俵の上に引き戻そうとするが、相手はそれをかわした。
「常磐さん、今回の出来事に真正面から向き合おうとするには時機が悪過ぎます。編集長だって」
「時機が悪いって、じゃあ、いつなら好いんですか? 来年ですか? 十年後ですか?」
 この場にいない上司の存在を出されたことが気に障ったらしく、常磐の声音が一層鋭くなった。
「いつまでも時機を待っていられる悠長な時代は、とっくの昔に終わっているんですよ。遅くなればなるほど、皆、事件のことも忘れて、『魔改造プログラム』の存在が当たり前の世界になってますよ! あなたは、それでいいんですか!?」
 突然、緊張感を破るように携帯電話の着信音が鳴り響いた。
 常磐の携帯電話だった。
 常磐は大きく溜息を吐くと、渋々電話に出、
「すみません、折り返してもいいですか?」
と、相手に訊ねた。相手がそれ対して何かを答えていると、病室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
 堺が声をかけると、ドアが開き、堺を担当する看護師が入って来た。
「こんにちは、堺さん」
「こんにちは」
 堺は強張った笑みで挨拶する。
 看護師は病室内での携帯電話を使用する常磐を、やや冷ややかな目で一瞥した。
 常磐は「では後日」と言って会釈し、携帯電話を耳に当てながら病室を出て行った。
「堺さん、ご家族の方がお見えになってますよ」
 常磐が出て行くと、看護師が堺にそう告げた。
「家族・・・?」
「明日のために荷物を少し持って帰ろうと思って」
 誰が来たのかと思ったら、戸口には奈緒が立っていた。

 タクシーで家に帰ると、いつの間にか自宅のドアに『取材申し込みは郵送にて受け付けます』と書かれた張り紙が貼られていた。
「近所迷惑になるから貼ったの」
 奈緒の言葉に堺は事件当事者の苦労を感じさせられた。
 家を空けていたのは一週間ほどだったが、堺としては数年ぶりに帰ったような気持ちだった。家の中のにおいも、懐かしさではなく、どことなくよそよそしく感じられた。
「洗濯物は干してあるから」
 堺の荷物を持って洗面所に向かいながら、奈緒が言った。
「ん、ああ」
 居間に入ると、テーブルの上には郵送物の山が並んでいる。よくよく見れば、堺への取材申し込みの封書や、励ましの葉書、書籍の在庫に関する問い合わせなど、内容ごとに分類されて置かれている。
 洗面所から戻って来た奈緒が、堺が不思議そうに郵便物の山を眺めている様子を見て、
「あなたが病院にいる間、家の掃除をするついでに分けておいたの」
と、教えた。
「そうか、手伝わせてすまなかったな」
「昔、やっていたことだから」
 そう言う彼女は早くも台所に立ち、何かを始めている。
「おいおい、お茶ぐらい、俺が淹れるよ」
「何言っているの、怪我人のくせに」
「だからって・・・」
 奈緒は久方ぶりの台所に立つことに対し、何の気負いも感じさせず、当たり前のように薬缶に水を入れてガス台に置いた。
 手持無沙汰になった堺が、せめて届けられた郵便物を見ようとすると、奈緒は有無も言わさずそれをひったくり、さっさと輪ゴムで束ねると、コンビニのビニール袋にまとめて放り込んだ。
「おい、まさか捨てる気じゃなかろうな?」
「退院したんだから、せめて今日ぐらい仕事を休んでも構わないでしょう?」
 小言を受け、堺は黙った。彼女なりに堺の身体を気遣っているのだろう。薬缶が笛を吹き、お湯が沸いたことを知らせた。
 奈緒がお茶を淹れ、テーブルに置いた。
 堺がよく飲んでいる緑茶の香りが、ようやく家へ帰って来たことへの安らぎを堺に与えた。
 二人は向かい合わせに座り、黙ってお茶を飲んだ。
 時計の音が微かに聞こえる。
 とても静かだった。
「あ、電話」
 入院中にかかって来たであろう電話のことをふと思い出して立ち上がったが、見れば受話器が外れている。
「悪戯電話がひっきりなしにかかってきて、留守番電話の録音メモリーがいっぱいになったから、受話器を外したの」
「・・・・・・」
 堺は腰を下ろした。
「君には迷惑をかけっ放しだな。いや、文華や君の旦那に対してもそうだな」
 堺がすまなそうに言うと、奈緒は一瞬、堺を睨んだが、直ぐに目を閉じ、苛立ちを抑え、
「お互い様よ」
と、返した。
 再び沈黙が訪れる。文華の時とは違った緊張感を強いられる。
「文華は、元気か?」
「元気よ、学校には毎日行ってるわ」
 無表情で奈緒が答えた。
「少しは仲良くなったみたいか、旦那と?」
「留守中にメールを送ってはいるけれど、文華からは返事は無いわ。勝枝さんからはメールが来るけど。今日は文華がカレーライスを作ってくれて、それを食べたとか。料理なんて、私がいる時は作るのを手伝わないくせに、珍しいわ」
 そう話す奈緒の口端が僅かに上がっている。
 文華も彼女なりに新しい父親の存在に対し、自分の中で折り合いをつける方法を模索しているのかもしれない。
「そう言えば、文華は高校に入ってから、何か部活はやっているのか?」
「部活じゃないけれど、図書委員会に入ってるの」
「図書委員!?」
 思わず堺は大声を出してしまった。
「そうよ、それがどうかしたの?」
「いや、学校の図書室はまだあるんだなと思って」
「当り前じゃないの、国は図書室を学校から廃止させてないんだから。そんなこと、取材で知っているんじゃないの?」
「いや、まあ、インタビュー相手が皆、社会人ばかりで、学生はいなかったから。あんまり学校の現状は知らなくって」
「そう・・・。文華の学校の図書館は毎日開いているみたいだけれど、学校司書の職員が一人いるだけで、利用する子はほとんどいないんですって」
「それじゃ、図書委員の仕事は何をしているんだ?」
「図書室の掃除」
「冗談だろ?」
「私は文華から聞いた言葉を、そのままあなたに伝えているつもりだけど?」
 のけぞる仕草を見せた堺に不満そうな奈緒の顔を見て、堺は笑い飛ばす気も失せた。
「学校司書のその人、肩身が狭いんじゃないのか?」
「さあ、学校での様子は、あの子、あんまり話さないから」
 他に図書委員の子はいるのか? 書室は授業中に使われることはあるのか? 図書司書の職員とはどんな話をするのか? 蔵書数はどのくらい? 蔵書の中で最も多いジャンルは?
 訊きたい質問は数あれど、それを訊く勇気が湧かなかった。奈緒に訊くよりも、文華本人に訊いた方が早いという気持ちはあったが、事実を知る苦しみを避けたい気持ちもあった。
「進路のことは、考えてるみたいなのか?」
 かろうじて奈緒に訊けそうな質問を見つけたので、早速問うてみると、奈緒は吹き出した。
「笑うようなことじゃないだろう?」
「そうね、でも文華が考えている将来の仕事について知ったら、あなた、きっとひっくり返るだろうなと思って」
 堺が、文華が図書委員会に入っていることを知った時よりも驚く姿を想像しているのか、笑いを堪えながら言った。
「ひっくり返る? 曲がりなりにも娘が考えている職業なんだろう? 何を聞いたって驚かないさ」
「じゃ、言いますけどね」
 奈緒は居住まいを正した。
「あの子はね、司書になりたいんですって」
「司書!?」
 上下の唇は互いに左右に動き、視線は天井や壁、テーブルを彷徨い、両腕を上げはしたものの、行き場を失くし、足は閉じたり開いたり。まるで壊れた玩具のように堺の身体の各部分が驚きを表現した。奈緒は堺の様子を半ば呆れた顔で眺めている。
「それは、その、あれか? 学校司書の人の影響なのか?」
「小学生の頃からずっと図書委員をやってるし、本に携わる仕事をしたいんですって」
 そんな昔から文華が図書委員を務めていることを、堺は今更ながら初めて知った。
「ま、まあイイんじゃないのか。司書は資格がなければなれない職業だし、資格は無いよりはあった方が良いしな」
 驚いたことを誤魔化す堺を、奈緒は訝し気に見つめた。
「あなたは賛成しているの?」
「娘の将来の仕事なんだ。立派じゃないか。生活に困る困らないは別として、応援するのが親の務めだろう?」
 堺は奈緒からの視線を逃れるべく、お茶を見つめた。
「・・・・・・」
「反対なのか?」
「いいえ、ただ需要は少ないし、将来、司書資格が廃止されるんじゃないかと思って」
「司書を廃止するということは、国から図書館が無くなるということだぞ。そんなことは絶対に」
「起こらないとは限らないでしょう?」
 奈緒が言外に込めた意味を悟った堺は、言葉に詰まった。
「まあ、俺みたいに巻き添えで刺されるような仕事でなければいいさ」
 笑う堺は冷たい目で見られた。
「プログラマーの人にインタビューした時の記事、書くの?」
「まだはっきりと決まったわけじゃないけれど、今のところは予定通り、記事を書くことになっている。編集部でも揉めているそうだ。先方の亡くなった人の弁護士がどういう動きをするかによって、色々と変わるらしくてな」
「大変ね・・・・・・」
 奈緒が疲れたような声を漏らした。
「あの」
「何?」
「編集部には話しているんだが、この仕事が終わったら、会社を閉じようと思うんだ」
 堺の言葉に、奈緒の目が見開かれた。
「閉じたら、少し時間が出来るから、そしたら皆でどこかへ」
「皆って、私と文華とあなたの三人ってこと?」
「泊まりに行くのじゃなくても、食事でも」
 堺としては奈緒の再婚相手である勝枝氏に気をつかったつもりだった。しかし彼女は、堺と同じ気持ではなかった。
「何それ? 今になって罪滅ぼし?」
 険のある口調に、堺はむっとした。
「そんな言い方はないだろう? 今まで、家族三人でゆっくり過ごせなかったから」
「自分一人が忙しいふりをしてきたくせに、散々寂しい思いをさせてきたのはどっちかしらね?」
「それはお互いさまだって、あれ程言ったのに」
「あなた、一度だって、私たちにありがとうって言ったことあった!? ご飯の時も、仕事のことで何を話しても上の空だったじゃない!?」
 堺も激昂し、立ち上がりかけた。だが、今と似たような口論を離婚直前に何度も繰り返していたことを思い出した途端、急に胸中を渦巻いていた嵐の気持ちが冷めて行った。
「すまん。苛立たせるようなことを言って」
 奈緒は怒りの矛先を失い、それでも何か言いたそうだったが、唇を噛み、何かを呑み込んだ。
「気が向いたらでいいんだ。旦那の事もあるだろうから」
「・・・・・・考えておく」
 気まずい空気のまま、奈緒はそれから一時間と経たない内に帰って行った。

 早めの昼食を食べ終えた後に、堺が郵便物を整理していると、弁護士事務所を差出人とする封書があった。
 嫌な予感を抱えながら恐る恐る封筒を開けてみると、自分は井筒の裁判を担当した者だが、井筒の件で是非とも話したいことがある、面会したいという内容だった。
『とにかく気を付けたほうがいいですよ』
 井筒との取材前、柳河に言われた言葉が思い出され、堺の額から大粒の汗が滲み出た。
 もう一度、封筒に入っていた文書を、右上に記載された日付から読み返す。
 先程は読み落としてしまったが、至急、返事がほしいという一文が最後に書かれている。
 壁に掛けられた時計を見ると、正午を過ぎたところだ。
 常磐に相談してから連絡しようという考えが浮かんだが、井筒の弁護士の用件も聞かずに相談するのは早計だという考えも浮かんだ。
 このまま弁護士事務所への連絡を明日以降に持ち越したところで、催促の手紙なり電話が来るだろう。
 堺は警察へ自首に向かう犯罪者のような気持ちを抱えながら、携帯電話から事務所の番号をダイヤルした。
「はい、高須法律事務所でございます」
 電話口から女性の明るい声が流れた。
「あ、わたくし、七海出版の堺と申します。そちらから、あの、井筒さんの件でお話ししたいことがあると、手紙と言いますか、その、ご連絡がほしい旨があって、連絡しました」
 緊張のあまり、しどろもどろになってしまったが、相手の声の明るさは変わることなく、
「少々、お待ちください」
と、言うなり、保留音に切り替えられ、昔の流行歌のメロディが流れた。
 堺は、身体の奥底から息を吐き出した。
「もしもし」
「はい!」
 やや掠れた男性の声に、緩んでいた緊張感が再び締められた。
「七海出版の堺さんですね?」
 念を押すように問われ、
「そ、そうです」
と、堺の緊張はますます高まった。
「高須法律事務所の高須と申します。お手紙でお伝えしました通り、井筒さんの件でお会いしたいのですが、堺さんのご都合は如何でしょうか?」
「い、今のところはいつでも、明日でも」
「では、明日の午前十時はいかがでしょうか?」
「そ、そうですね、嫌なことは、ああ、いえ、そちらがお嫌でなければ、はい、十時で大丈夫です」
「それでは、明日の午前十時に、当事務所へ直接お越しください」
「はい、はい」
 電話が切れた瞬間、堺は椅子の上に崩れ込んだ。
 強引な手法に出る弁護士というイメージが、堺に過剰な恐怖を抱かせているのか、
「疲れた・・・」
自然と、口から溜息が漏れた。

 翌日、約束していた時間通りに、堺はオフィス街に群居するビルの一つに事務所を構える、高須弁護士のもとを訪れた。
 弁護士は長身細身の老いた男で、その姿は枯れ木を連想させた。
「あなたをお呼びしたのは他でもありません。依頼人である井筒氏の遺言によるものです」
 堺が唾を飲み込んだ音がいやに大きく耳に聞こえた。
「此処に」
 井筒の弁護士は、堺との間にあるテーブルの上に置かれた箱から、何重にもセロハンテープで巻かれた封筒を取り出した。
「井筒氏が最後に伝えたかったことが入ってます」
 堺が封筒と弁護士とを交互に見比べる。
「どうぞ、お受け取り下さい」
 弁護士が骨と皮しかないような手で、堺に受け取りを促した。
「あの、何故、私なんでしょうか?こういう大事なものは、家族とか、親しい友人に渡すものでしょう?」
「彼はこの封筒を、『魔改造プログラム』の裁判が行われる直前に作りました。もし自分が何らかの形で死んだ時、その死を見届けた人間にこの封筒を渡してほしい。この封筒には、警察には話さなかった、ある秘密が書かれている。この秘密を知らずとも警察は立件できる。彼はそう言いました」
「・・・・・・」
「この遺言に法的拘束力はありません。文書として一枚ありますが、これをどうするかは、あなたが決めてください」
「そんな! そんな大事なものを!」
 堺は必死に封筒を受け取らないで済む方法を考えてみたが、浮かぶ案はどれも支離滅裂なものだった。
「ちなみに、この封筒を受け取らないという手は禁じられてます。こちらへお越しになった以上、受け取りの意思があるものとみなしますゆえ」
「昨日の電話では、封筒を渡すなんて話、全く出なかったじゃないですか」
「誤解を与えてしまったようですね。こちらとしては、お会いするからには、お渡ししたいものを渡すという意味も含んでいたのですが」
「むむむ」
 弁護士のこじつけに堺は唸った。
「堺さん。この事務所から出せばいいんです。何なら駅のゴミ箱に捨ててしまっても構いません」
「そんなことをして、不審物として見られて私が警察に事情聴取されるに決まってますよ」
 精一杯の皮肉で言ったつもりだったが、相手はどこ吹く風といった体で、
「私は依頼人の願いを叶えたまでです。渡した後の責任までは持てません」
とぴしゃりと叩き潰した。

 結局、堺は封筒を何処かに捨てることもせず、家に持ち帰ってしまった。
 封筒のテープは剥がしていない。中身を開けずに警察に差し出すことも一つの手だろうが、既に終わった事件を蒸し返すことになる。果たして、それを受け入れてくれるほどの余裕があるとは堺には思えなかった。
「どうぞご自由にと言われてもなあ」
 封筒を振ってみたが、少しも音を立てない。
 井筒は、己が生きている間にこの秘密が公になることを恐れていたのだ。それほどの秘密を、ただ偶然、あの場にいたからという理由で引き渡された身としてはたまったものではなかった。
 堺は頭を振った。
「冷静になろう」
 己に言い聞かせるべく、声に出して呟く。
 弁護士は、この封筒の中身がなくとも立件できると言っていた。ということは、これは事件に影響を来たさない、ごく些細なものなのか。
 いや、この封筒の中には、井筒にとって、生き恥となることを恐れた程の秘密が入っているのかもしれない。公になることを恐れる必要が無くなった今だからこそ、明かせるのだ。
 井筒へのインタビューでは、堺が訊きたかったことの一部しか訊くことが出来なかった。
 内に潜む疑問への回答が少しでもあることを期待し、堺は封筒に鋏を入れた。

2017年12月27日