第七章

 編集部の会議室に入ると、柳河と常磐が待っていた。
 室内の冷房が強いのか、堺の身体は寒さで震えそうになった。
 柳河の顔からは、初めて会った時の陽気さは消え、バランスボールの上に乗った身体を小刻みに左右に揺らしている。
「すみません、突然お呼びして」
 堺が椅子に座ると、常磐が口を開いた。
「今日、堺さんをお呼びしたのは、次の原稿の件です。まず、最終回のインタビュー相手である『魔改造プログラム』の制作者から、弁護士事務所を通じて取材許可が得られました。取材日は明日です。堺さんが取材に行かれることと、堺さんの携帯電話の番号は、先方に伝えてあります」
 常磐はそこで言葉を切った。
「ただ、プログラマーに関する原稿は、堺さんからの寄稿という形で新たに契約を結びたいのです」
「そりゃまた、どうしてですか?」
「先方の弁護士がかなり強引な手法をとるらしく、細かい表現にやたらと拘るんだそうです。こちらとしては無暗にトラブルを起こしたくないのです」
「障害者の害を、平仮名で表記することですか?」
「そんなレベルじゃないんです」
 常磐がかぶりを振る。
「自分の言葉が少しでも原稿上で変えられると、怒って弁護士が飛び込んでくるらしいのです」
「それは別に不思議なことでもないでしょう? こちらとて、出来上がった原稿は常磐さんへ送る前に、必ず取材先に確認をいただいてから送ってますし」
「一言一句削らずに、追加も修正もせずに載せろと言うのですよ? それが出来なければ契約不履行を理由に裁判を起こすらしいですし」
「らしいらしいって、噂ばかりじゃないですか。そんなにびくつくことはないですよ」
 堺の声に含まれる苛立ちに中てられ、常磐が肩をすくめる。
 すると柳河が見かねたのか、
「堺さん」
と、二人の間に割って入って来た。
「プログラマーの取材場所なんですがね、プログラマーの自宅らしいのです」
 柳河まで『らしい』という言葉を使うことに、堺の更に高まった苛立ちが顔に出たらしく、
「我々も、プログラマーと直接の接触はまだしていません。プログラマーへの取材は、裁判の時に彼の弁護を務めた弁護士事務所を通じて取材許可をもらったので、どうしても伝聞になってしまうのです」
と、堺に説明した。
「それで?」
「自宅の場所は明日の朝まで伝えてこないとのことです。とりあえず、待ち合わせの場所はY駅なのですが、そこで連絡が来るまで待つようにと言ってきました」
「随分と仰々しいですね」
 常磐と柳河が一瞬であったが、互いに視線を見合わせたのを堺は見逃さなかった。
「ストーカー対策だそうです」
 柳河が答えた。
「ストーカー?」
「ええ、攻撃的なメッセージを送られてくるのではなく、行く先々でよく姿を見かける人物がいて、どうもストーカーされているのではないかと感じているらしくて」
「・・・・・・」
「プログラマーはあの身体でしょう? もし何かあっても、すぐには動けないので・・・」
「警察には相談しているんですか?」
「姿を見かけるだけで、自宅までつけられているとかはないので、警察も対処しかねているようです」
「・・・・・・」
「とにかく気を付けたほうがいいですよ。もしプログラマーに何か起こったら、どんな大事になることやら」
 堺は新たな契約の件を了承した。
 頭の痛みがますますひどくなった。

 翌朝、指定された待ち合わせ場所であるY駅の改札口を抜けると、何処からか堺の姿を見ていたのか、ポケットに入れていた堺の携帯電話が振動した。堺がポケットから携帯電話を取り出すと、画面には非通知とある。
「もしもし?」
「堺さんですか?」
 あまり特徴の無い、低い声が問いかけてきた。
「そうです」
と応えると、
「タクシーに乗って、S町十五丁目一番地まで来てください」
と言うなり切られてしまった。
 S町というと、堺が今いる場所から電車で数駅離れた町である。これもストーカー対策なのかと、堺は訝しがりながらも駅前のロータリーに並ぶタクシーに乗りこみ、運転手に行き先を告げた。
 運転手も、ちょっと不思議そうな顔をしたが、何も訊かずに、黙って車を走らせた。
 十分ほど走ると、タクシーは住宅が立ち並ぶ一角に停まった。
 少し離れた家の玄関には屈強な若い男が立っている。
 堺が料金を払ってタクシーから降りると、玄関前にいたスキンヘッドの男が近付いて来た。
「堺さん、お待ちしておりました」
と無愛想に声をかけてきた。
 ドアを閉じたタクシーがエンジン音を響かせながら表通りへと走り去る音が、堺の背中で聞こえた。
 男は、
「井槌の介助をしております、後藤です」
と名乗った。
 介助士というより、ボディガードと名乗るべきじゃないかと、堺はそんなことを考えた。
 後藤に案内され、堺は後藤が先程まで立っていた平屋建ての一軒家の玄関に入った。
 スロープ付きの玄関でスリッパに履き替え、二人は廊下の奥へ進んだ。
 廊下の突き当りには引き戸があり、後藤が引き戸を軽くノックしてから開けると、リクライニング式ベッドに身を預ける、小太りの中年男が来訪者を出迎えた。
 部屋の壁は本棚に囲まれており、よく見れば、その本棚の中はすべて漫画の単行本だった。今は無き大手出版社のシンボルマークが、背表紙タイトルの上にずらりと並んでいる。
 ベッドの主は唇を突き出し、激しく動かした。すると唇の動きから一歩遅れて、ベッドサイドの機械から、
「こんにちは、堺さん」
と、人工的な声が流れた。
「どうぞ、お座りください」
 後藤に促され、堺は入口傍にあった椅子に腰かけた。
 中年男は激しく唇を動かし、機械に声を出させた。
「このようなやり方で、失礼します。御存知でしょうが、私は、先天的に、重度の身体障害を抱えています。五感は知覚できます。目も見えてます。もちろん、あなたの質問も、耳で聞こえます。記事にも、このことは、必ず、書いてください」
 短い一節を連続して機械が発する。
「わかりました。掲載前に内容の齟齬が生じないよう、一度原稿をお見せしますので、確認をお願い致します」
「了解しました。では、早速、始めてください」
 後藤が黙って堺に熱い茶を出してくれた。
 訊きたいことは沢山あった。

 ――お名前をどうぞ。
「井槌です」
 ――職業は?
「プログラミングで生計を立てています」
 ――プログラマーになろうと思った切っ掛けはありますか?
「プログラミングは、知識と、ある程度の技術があれば、身体を大きく動かさずとも、出来るので、自活を目指して、小さい頃から、学んでいました」
 ――今までどんなプログラミングをされてきましたか?
「世間で、『魔改造プログラム』と呼ばれているプログラムの他に、マジックハンドアームと、パソコンをつなぎました。手元にものを持ってこさせる。キーボード入力をさせる。二つの機能を加えました。この発声装置も、自分で改良しました。スマホの単語予測変換機能を強化し、長い発言を、可能にしました。他には簡単なゲームをいくつか作って、ゲーム配信会社に納めています」
 ――プログラミングについて情報交換をするような、仲間はいますか?
「います」
 ――どんなことを話すのですか? やはりプログラミングについての情報交換が主なのでしょうか?
「新しいプログラミングや、暗号解読の技法、仕事の紹介を、することもあります」
 ――そのような仲間とはどこで知り合うのですか? インターネットですか?
「そうです。ネット掲示板です。ちょうど、あなたが、第一回目の記事で、インタビューしていた、アマチュア作家の、集まりと同じようなものです。あの人たちは、オフ会を開いているようですが、私が利用するのは、ネット掲示板ですね。プライベートな集まりではありませんが、その掲示板の、利用者は、非常に、少ないです」
 ――何故、『魔改造プログラム』と呼ばれるプログラムを作ろうと、思い立ったのですか?
「『作家になろう』ゲームの、小説作品のみを、対象とする縛りを、大好きな漫画でも、応用できないかと、思って、プログラムを組みました」
 それが「大好きな」漫画を貶める行為であることに反省する気持ちはないのかと、怒りを通り越して、薄ら寒さを堺はその身に感じた。
 ――制限があったことが不満だったのですか?
「不満ではありませんが、物足りなさを、感じました」
 ――あなたが逮捕された時の報道では、ゲームを改造し、それを不特定多数の人間が手に入れることができるネット上に公開したという理由で逮捕されましたが、あなたは当時から一貫してそれを否定していますよね? 何故ですか?
「私は改造したのではなく、あの『作家になろう』ゲームを、参考にして、一からプログラムを、組み立てたのです。『作家になろう』ゲームでは、文章作品を、データとして、使っていますが、私が組んだ、プログラムでは、絵画作品を、データとして使うことを、前提にしてあります。プログラムの、指示コードが、ある程度、同じになってしまうことは、仕方ないことだと思います」
 ――プログラムを作った期間は?
「仕事と並行して、少しずつ組んだので、二年かかりました」
 ――『作家になろう』ゲームをプレイしようと思った切っ掛けはありますか?
「作風を真似して、小説を作るとは、どんなプログラムが、組まれているのか、純粋に気になったからです」
 ――実際にプレイされたのですか?
「もちろんです。プレイすることで、この動きには、どんな指示コードが、組まれているか、ある程度、推測するのです。そして、プログラムを開いてみて、自分の推測が当たっているかどうか、確認するのです」
 ――ゲームをプレイされて、どんな感想を持ちましたか?
「文学に、詳しくないから、あまり面白味は、感じませんでした。学生時代に、教科書で読んだ、作品をコメディ調にしてみたけれど、その作家の作品に、通じていないため、作風として、コメディ要素が、どれほど反映されているのか、判りづらかった」
 ――漫画でも作れないかと、先程仰っておりましたが、漫画の方が近代文学よりも詳しいからですか?
「そうです。漫画を描くには、とても、労力が要る分、私は、商業、趣味を問わず、漫画を、描く人に対して、強く、尊敬しております」
 ――プログラムを公開した理由は?
「見せびらかしです。当時、私が利用していた、ネット上の掲示板には、自作のプログラム・コードを見せ合っていたので、私もそれが出来た時、他の仲間と、同じように公開しました」
 ――プログラミングはあまり公開すべきものではないように思うのですが、お話をお聞きする限り、随分オープンなんですね。
「下手に隠していては、何も発展しませんから。他者のプログラミングを見て、学ぶこと、気付かされる点は、たくさん、あります。互いに刺激し合い、その先に、素晴らしいコードが、組まれれば、我々プログラマーは、満足なのです。
 ――あなたが作ったプログラムを公開することによって、アマチュアやプロの創作者に影響は出ると考えたことは?
「私は、影響は出ると、考えてません。そもそも、何かしらの影響を、与えるために、このプログラムを、組んだのではありません。私はこんなプログラムを、組みました、と言って、ネットに公開しただけです。それを、人々が、どう使うかまでは、その人の自由です。自分たちの、使い方の結果に、作り手が、責任を負わされることは、間違っていると、私は考えます」
 ――道具の開発者が悪なのではなく、その道具を使う者が悪であると?
「そうです。包丁然り、自動車然り。使い方を、誤らなければ、道具は、本来は、便利なものなのです。それを悪意を、持って利用すると、他の人や、己に、害を与えるものになってしまうのです」
 ――道具をどう使うかは自由と言われましたが、間接的に一つの、いや複数の業界や商業作家が姿を消した事実をふまえても、やはり、あのプログラムの使い方は個々人に任せるべきだというお考えですか?
「その職業や、業界が、永続するとは、限りません。需要が消える時期が、今なのか、それとも、今よりも後なのか、その違い、だけですよ。堺さんが、日本で最後の出版社の社長であることは知ってます。私は、このような世界になっても、後悔してません。過去の作品を、踏襲していることに対する、周りの疑いの目に、耐えられないような奴が、作家を、名乗る資格は、ありませんよ。あなただって、文化の、担い手を自称するなら、そんな、弱気な輩と、一緒に、仕事をしたくないでしょう?」

 その時、玄関チャイムが鳴り、話が中断された。
 インタビュー中、部屋の隅の椅子に座っていた介助士の後藤が立ち上がり、部屋を出て行き、引き戸を閉めて行った。堺は一息入れるために、出されたお茶に口をつけた。
 すると、玄関から何やら大きな音が聞こえた。
 堺と井筒の視線が合った。
 一体、何事かと様子を見ようと堺が立ち上がろうとすると同時に、部屋の引き戸が乱暴に開かれた。
 真っ白い服を着たその人物はわき目もふらずに真っ直ぐベッドに向かうと、井筒の身体に覆い被さった。
「あ、あの」
 堺が声をかけようとした時には、その人は右腕を振り上げ、勢いよく振り下ろした。
 堺は、井筒を殴っているのかと思って、その白い背中に触れようと立ち上がりかけたが、乱入者が振り上げた手から、何かが顔にかかった。顔を拭うと、赤い色をしている。
 実がつまったものに何かが刺し込まれる音と、支離滅裂な単語の音が何度も聞こえた。その度に井筒の唇の動きを読み取る機械からは意味不明な音が流れた。
 堺の足からは力が抜けてしまい、彼は椅子から転げ落ちてしまった。堺の身体に連れられて引き倒された椅子の音に、ようやく堺の存在に気付いたのか、ナイフがくるりと振り返った。
 相手の顔を見た瞬間、堺の見ている世界が急にぐるぐると溶け、混じり合った。
 相手が何やら呟きながらこちらに向かってくる。
 真っ赤に染まった服が目に痛かった。
 堺は立ち上がって逃げようとするが、足は意に反し、地上に上げられた魚の尾びれのようにばたついた。
 血を滴らせた包丁の切っ先が電燈の灯りに当てられ、煌めいた。
 声を出そうにも、堺の口の中は唾液で満ち溢れ、唇の端から垂れ落ちた。
 相手の包丁を少しでもかわそうと空しく腕を振ったために、上半身を支えきれなくなった腰が砕け、汗まみれの背中がべったりと床に張り付いた。
 切っ先が太陽の如く、眩しく見える。
 激しい頭痛と眩暈の中、世界が真っ暗になった。

 あたたかく、やわらかな世界だった。
 誰にも邪魔されることなく、彼はその安らぎを堪能した。
 幼い頃、誰よりも早くに目覚め、寝ている母の布団に潜り込み、その母の温もりを感じながら再び眠りについた時のように、彼の気分は満ち足りていた。
 遠くの方で誰かが喋っている。何と言っているのか、聞く気も起きなかった。彼はこの幸福な世界から離れたくなかった。
 しかし、遠くから聞こえるそのぼそぼそとした声が、彼の気持ちを妙にざわつかせる。
 彼はそっと目を開けた。

 「あ」
 ずんぐりむっくりとした体格の中年男と目が合ったかと思いきや、
「堺さんですね」
と、声をかけられた。
「はい」
と声を出したつもりだったが、実際には掠れた声しか出なかった。
 中年男がカーテンの陰に隠れた。と、思うと、直ぐに白服の看護師が現れ、堺の左手の指に挟んでいた器具の調子を調べると、何も言わずにまたカーテンの蔭に隠れてしまった。
「わたくし、S警察署刑事課の中村です」
 中年男が懐から顔写真つきの警察手帳を取り出し、堺に見せた。
 堺が頷くと、刑事と名乗った中村は、
「此処は都内の病院です。現在は×月×日。えー、夕方十六時です。あなたは昨日刺されて、此処に運ばれました。刺された時のこと、覚えてますか?」
 本物の警察手帳を持った刑事だけでも現実感を伴わないのに、「刺された」という言葉は更に堺の心を非現実的なもののように感じさせた。
 刑事は黙っている堺を見て、堺はまだ混乱していると判断したらしく、
「あなたの体力が回復次第、事情をお聞きしにまた伺います。今は休んでいてください」
「あの」
 ようやく自分の耳にもはっきりと聞こえる程度の音量を出せた。
「何があったんですか? 教えてください」
 さっきよりも大きな声になった。
 刑事はちょっと嫌そうな顔をした。
「今、わかっていることだけでもいいんです」
「目を覚ましたばかりの怪我人に言うのは」
「何が起きたのか知りたいのです。知らないままでいると傷に障りそうなので教えてください!」
 強引な主張に中村は折れ、仕方ないと言わんばかりに溜息を吐くと、ベッド脇に置かれていたパイプ椅子を広げ、どっかりと腰を下ろした。
 
 事件の通報は、井筒の自宅の隣家の住人からだった。
 配達中だった郵便局員が、井筒の家の玄関のドアが不自然に開けっ放しになっていることに気付き、不審に思って近づいたところ、玄関口に突っ伏している介助士の後藤を発見した。大量の血が流れていたので、局員は驚いて隣家に駆け込み、通報を依頼したという。
 その間に犯人は井筒宅を出て行ったらしく、警察と救急隊員が到着した時には犯人の姿は無かった。後藤も井筒もめった刺しにされ、大量失血による死亡がその場で確認された。
 堺が何故たったの一回だけ、それも脇腹を刺されただけで済んだのか、恐らく後藤を見つけて慌てふためく郵便局員の叫び声に気付いたからだろうと、刑事は自分の推測であることを断った上でそう言った。
 犯人は、近所を歩いているところを、現場に向かっている途中だったパトカーに発見され、その場で逮捕された。手に持っているナイフを隠すことも無く、剥き身のまま歩いていたという。
「犯人は、井筒さんが言っていたストーカーだったんでしょうか?」
「井筒氏が相談していたストーカーと同一人物であるかどうかは、現在確認中です」
 刑事は立ち上がってちょっと振り返り、
「家族の方が見えてます」
と言って、カーテンの向こうに消えた。
 すぐに見知った顔が現れた。
「あ、やあ」
 心の準備も出来ずにいたものだからおざなりな挨拶になってしまったと堺は後悔したが、相手は、
「警察の人から連絡があって」
 そう言うなり、ベッドに突っ伏し、堺が心配になる程大声で泣き出してしまった。
「大丈夫、大丈夫だから」
 そうは言っても、泣きじゃくる元・妻の奈緒の肩を叩く堺の手は震えていた。
 見上げれば文華と、勝枝氏も戸惑った表情で戸口に立っていた。
「心配かけてしまったようで」
 堺が起き上がって挨拶しようとしたが、
「起きなくていい!」
と、母の泣き声を上回る程の大きな声で止められた。
 文華は自分でも制御しきれなかった声の大きさに驚いたらしく、ばつの悪そうな顔になった。
「うん、そうだな。まだ安静にしていないとな」
 笑って応えると、文華の顔は泣き笑いになった。
「そうだ、スマホ。スマホ持ってないか?」
「持ってるけど、どうするの?」
 泣き腫らした顔をあげて奈緒が訊ねた。
「ニュースだよ。ニュースを見させてくれ」
「ニュースなんてこの時間にはやってないんじゃ」
「いいから、ウェブニュースなり動画サイトなり、なんかあるだろう?」
 苛立たし気に堺が急き立てると、文華がスマホを差し出した。
 手際が良いことに、ウェブニュースサイトの動画ページが表示されている。
 映像を再生すると、カメラのフラッシュが瞬く中、両脇を警官に挟まれ、顔を伏せることも無く、虚ろな目で正面を見つめる痩せた男の姿があった。
 テロップには、『魔改造プログラム』制作者が殺害されるとあった。
 リポーターが事件の概要や、犯人の名前が小説家・桂木であることを話している。
「かつらぎ、かつらぎ・・・桂木!?」
 驚いた堺が飛び起きようとしたので、慌てて母と娘が堺の肩を押さえた。
「何で、桂木君が・・・」
 視聴者の疑問に答えるかのようにスマホからは、
「桂木容疑者は取り調べに対し、容疑を認めており、事件の動機については、『こうでもしなければ、誰も私の作品を読んでくれない』と話しており」
 堺は動画を止めた。

 桂木は、会社が知名度向上策として打ち出した第一回新人文芸賞で、大賞作に選ばれた。
 彼は祝賀会の席で―その頃には何次会なのかもわからない程、皆、酒に酔っていた―、酒と照れによって顔を真っ赤にさせながら、何度も繰り返していた。
「自分の作品を沢山の人に読んでもらいたいんです。日本だけじゃなく、世界中の人に読んでほしいのです」
 クラゲの親戚の如く身体をテーブルに預けていた社長は、
「安心なさい、桂木君の作る小説なら、ハリウッドでの映画化もあっという間だ」
と、大きな声で囃し立てた。
「社長にそう言っていただけると、自信がつきます」
 目を輝かせる桂木に、堺は何と浅はかなのかと内心あざけわらった。
「桂木さん」
 酒の勢いもあってか、堺は桂木に耳打ちした。
「祝いの席ですけどね、そんなに大層な期待をしちゃいけませんよ。うちなんて弱小ですし、しかも自費出版で賄っているんですよ? 作品の知名度なんて知れてますって」
 わざと醜く反らした唇から吐き出される皮肉の言葉を聞いても、桂木はちっとも怯えなかった。
「何を言っているんですか? 本を作る切っ掛けを与える仕事をしているのに」
「大袈裟な。作家に憧れてる人たちの自尊心を満たしてやっているだけですよ。自己満足な素人小説を読まされる身にもなってくださいよ」
 テーブルの上で突っ伏している社長の耳に入らぬよう小声で話す堺に対し、桂木は声を落とすことなく力説した。
「自己満足ではないですよ。自己満足で小説を書いたのなら、そもそも他の人に見せたりはしません。自分の気持ちを形にして、それを他の人に知ってもらいたいから、書いているんです。少なくとも、僕はそういう気持ちで書いてきました。僕の作品を読んで、読者の人生を変えるとまではゆかずとも、思い出に残れば本望なんです」
「若いねぇ、桂木さん。三十を超えると、色々と現実を知って、君のように夢を持てなくなっちゃうんだよ。自分も、若い頃は君のように夢を持っていたさ。出版社に憧れて就職活動を頑張ったけれど、何十社も受けて、拾ってくれた会社は此処だけ。何だかんだ言っても、自社で文芸雑誌を持つ出版社と、自費出版社は違うんだよね。もうね、その時点で、夢に期待できる程じゃないんだ、自分の実力はその程度なんだって、思い知りましたよ」
 桂木の持論に、堺は畳みかけるように己の持論を述べた。
「夢を追うことに年齢は関係ないですよ」
「それが若いってことですよ。世の中の荒波に当てられ、妥協に妥協を重ねないと生きていけない状況になったら、そんな悠長なことを言ってられなくなるんですよ」
 桂木は堺の言葉に反論する余地を探しているのか、黙り込んでしまった。
 堺は内心、それみたことかと嘲笑い、もはや味がわからなくなってしまったウィスキーのグラスに口をつけた。
「じゃあ、僕が堺さんの夢になります」
 急に桂木が口を開いたと思ったら、堺の理解を超えている内容だったために、酒を飲みかけていた堺はむせてしまった。
「いきなり何ですか?」
「堺さんの夢として、僕が誰よりも名の知れた作家になることを加えてください」
「加えてくださいって・・・」
「僕の名前が世界中に広がったら、この出版社の宣伝をします! そうしたら、堺さんのところにわんさか作品が送られてきますよ。それこそ、素人小説なんかじゃない、宝石の原石が沢山やってくるんです」
「ああ、そうだね、きっと原石がいっぱい来るだろうね」
 堺が適当にあしらおうとすると、桂木は、
「堺さん、僕がノーベル文学賞に選ばれたら、授賞式には必ず来てくださいね」
 泥酔しているのか、それとも本気なのか。
 堺にはどちらとも判別がつかなかったが、
「わかった、わかった。授賞式に備えて、パスポートの更新を忘れずにしておきますよ」
と、笑って応えた。桂木も、
「期待しててください」
と、胸を張った。

 「この人、児童文学でデビューしたんだよね」
 娘の声に現在へと引き戻された堺は、文華の顔を見上げた。
「うん、そうだよ。よく知っているな」
「お父さんが、昔くれた本を書いた人だから」
「ああ・・・」
 あの後、酒に酔った堺は家に帰るなり、寝ていた娘の元に行き、授賞式直前に出来上がったばかりの本を渡したのだ。
「サイン入りだぞ、期待の星だぞ」
とか何とか酒臭い息を吐いて奈緒に叱られた。
 その後の桂木は児童文学に手を出さなかったが、青少年でも読めるように過激な残酷描写や性的場面は書かず、細々と作品を発表していた。
 しかし無名の出版社の新人賞。デビュー作は新聞でも取り上げられるなど、少しだけ話題にはなったが、爆発的に売れることはなく、大型書店に彼の作品が一冊置いてあれば―店頭にではなく、裏の倉庫内の方に―いいような扱いが当たり前になった頃、『魔改造プログラム』が現れた。
 桂木は『魔改造プログラム』について直接言及することはなかったが、電話で話をする度に、彼の声がどんどん暗くなっていったことを堺は覚えていた。
 堺は悲しかった。
 あふれる涙が耳殻を伝って耳の中に入り込んでも、周囲がどこか痛むのかと心配そうに訊ねても、堺は気にも留めなかった。
 ただただ、うわ言の様に、
「痩せたなあ、痩せたなあ」
と、呟いた。
 夢が潰えてしまったことが、堺には耐えられなかった。

2017年12月27日