03.疑似親子
夏の盛りは過ぎたものの、樹々の葉はまだ秋の色に染まることを拒むかのようにかろうじて緑の色を保ってはいたが、朝夕に吹く風は日に日にその冷たさを増していた。
アスセナは一人、木立の中を歩いていた。
ユニキドは焚火の準備をしている。日暮れまでにはまだ少し時間があったが、山を越えた先の町まではまだ何時間もかかるので、早めに野宿をすることにしたのだった。
アスセナは先程水が流れる音を耳にしていたので、そこに向かっていた。
やがて水の音は大きくなり、樹々の間から一本の細い川がその姿を現した。右手には急峻な滝があり、そこから川の水が勢いよく落ち、彼女の立つ所にまでその水しぶきがかかる。
アスセナはほとりに座り込むと、両手で川の水を掬い、顔を洗った。朝からずっと山道を歩き続けていたため、疲労と埃にまみれた肌に、冷たい水の心地よさが染み渡る。
アスセナは、ぼんやりと水面を見つめた。
水を滴らせるその顔は日に焼け、目尻の皺も増えたような気がする。髪の艶も衰え、色もくすんでいる。
思えばユニキドと村を離れてから一年は経っていた。
当初は身の内を巣食う孤独感を埋めたくてユニキドと生きようと決めたが、ユニキドは何処かに定住する気は無いらしく、東へ西へ、北へ南へと彷徨うように旅をした。
時々大きな街ではユニキドは何処かへ出掛けて行った。アスセナは土地勘も無いので、黙ってユニキドの帰りを待った。
ユニキドは何も言わずに数日間姿を見せないこともあったが、宿の主はユニキドから既に何か受け取っているのか、アスセナに宿の支払いを促すことはせず、やたらと愛想が好かった。
このまま人混みに紛れてユニキドの元を離れようと考えたことは何度かあったが、村を出たことが無かったアスセナにとってユニキド以外に知っている者はおらず、何の伝手も無い女が生きていけるのかと不安になり、その不安はあの時の強烈な孤独感を引き連れて現れるので、結局アスセナは犬のようにユニキドの帰りを待ち続けるしかなかった。
アスセナが息を吐いた時だった。後ろで髪を束ねていた髪紐が切れてしまい、拘束を解かれた髪の毛が彼女の背中に広がった。
「・・・・・・」
アスセナはぼんやりと髪の毛先に指をくぐらせた。
最後に髪を切ったのはユニキドと初めて会う直前、少しでも綺麗に見えるようにと整えてもらった時だった。以来、彼女は髪を切ることもなく、悪戯に髪を伸ばし続けていた。
今まで髪を切ることに気を向ける余裕が無かったため、気付けば毛先はばらばらに乱れている。
次にどこかの街で宿に泊まった際に鋏を借りて自分で髪を切ることを決め、アスセナが切れた髪紐を拾い上げようとしたその時、気配を感じて振り返った彼女は危うく真っ白い鹿に頭をぶつけそうになった。
「っ・・・・・・」
思わず身を仰け反らせた彼女は、自分の目の前にいるのは白鹿ではなくユニコーンであることに気付き、更に後ずさった。後ずさるうちに左手が冷たい川の中に浸かってしまい、その冷たさによってようやく彼女は落ち着きを取り戻した。
両目の黒さが際立つ程、そのユニコーンは全身が真っ白だった。足元の蹄さえ土に汚れておらず、空中から現れ出たようだ。
ユニコーンは尻尾をゆらゆら揺らしながら、その長い顔をアスセナの顔に摺り寄せた。たてがみが彼女の濡れた顔を撫でる。自分よりも一回り大きな存在に震えるアスセナとは正反対に、そのユニコーンは彼女の顔を親し気に擦っている。
野生の生き物なのだろうか、しかしここまで人に慣れた生き物も珍しい。恐らく誰かに飼われていたことがあったのだろうが、その飼い主は?
アスセナがそっとユニコーンの首筋を撫でてみると、ユニコーンはその場にしゃがみ込み、頭を彼女の膝の上に載せた。
「えっと、あなたの飼い主は?」
何処にいるのかと訊こうとしたが、その瞬間、何かが彼女の身体にぶつかり、アスセナは見事に川の中にひっくり返った。突然の出来事に混乱した彼女は溺れるのではないかと辺り一面を叩いたが、直ぐに踝までしかつからない浅瀬であることに気付き、顔を赤らめた。
「び、びっくりした」
呆然としたアスセナが立ち上がろうとすると、彼女の腰に何かが巻き付いている。
「え・・・?」
するとその何かが動き、アスセナに向かって声を発した。
「ねえ、僕のママになってよ」
「ママ?」
「僕、アモルっていうの! このユニコーンは僕の友達で、一緒に住んでるの。あなたの名前は?」
「アスセナ」
勢いに気圧されて見知らぬ相手に対して不用心にも名乗ってしまったことを後悔する間も与えず、アモルは、
「アスセナ、僕のママになってよ!」
と、再度繰り返した。
赤土色の肌をした身体は少年よりも幼い男児そのものだったが、頭部は人外のものだった。頭頂部にはわずか数本ばかりの髪の毛とも枯れた植物のつるとも見えるものが生え、それらは小さな両肩にかかっており、嬉しそうに笑うその口は人の形だが、並ぶ歯は犬のように鋭い。何より特徴的なのは目だった。顔の半分近くを占める大きな一つ目の中に、4つの深緑色の瞳が横に並んでいる。
「あの、まず、服を乾かしてから、あなたの話をゆっくり聞きたいんだけど」
アスセナが苦し紛れに提案すると、
「そうだよね、ごめんなさい、ずっとあなたのような人を探していたからつい飛びついたりして。アスセナ、僕たちの家に案内するよ」
アモルがアスセナの腕を掴んで立ち上がらせようとしたので、アスセナは、
「の、野宿しようと思って大きな荷物を向こうに置きっぱなしにしているから、それを取りに行っても良いかしら?」
「もちろん、良いよ! 何なら一緒に行くよ?」
「いえ、此処で待っててちょうだい。直ぐに戻って来るから」
アスセナが立ち上がると、アモルは彼女の腕を離し、今度は手を握った。
「直ぐに戻って来てね、アスセナ?」
妙に力の籠った握り方に、アスセナの背筋に寒気が走った。
アモル達の姿が木立に隠れて見えなくなると、アスセナは走り出した。
それ程ユニキドのいる所から離れていないはずなのに、アスセナの脚は震え、なかなか辿り着けなかった。
ようやくユニキドの姿が見えると、アスセナは「ユニキド!」と叫んだ。
燃え盛る焚火の傍に腰かけていたユニキドは、アスセナの様子を見て訝しんだ。
「ユニキド、今直ぐ此処を離れましょう!」
「はあ? 何を言って」
「アスセナ―!!」
背中に何かが当たり、アスセナは危うく焚火に突っ込みそうになった。
「アモル!」
「遅いから迎えに来たよ」
にこやかに笑ってはいるものの、アスセナの腰に回したアモルの腕の力は更に強められた。木立の中に静かに立つアモルの連れ合いのユニコーンも、アスセナから目を離そうとしない。
「大きい荷物って、何処に・・・」
周囲を見回したアモルは、己を見つめるユニキドの視線に気付くと大きな一つ目を細め、
「誰、このおっさん」
と、言い放った。
アモルの暴言に、顔を引き攣らせたユニキドが立ち上がり、
「お前こそ誰だ、クソガキ」
と応酬した。
「うわー、大人の癖にそんな汚い言葉を使うなんて。あれ、アスセナ、もしかして大きい荷物ってこいつの事? こんな奴と一緒に今まで旅をしてきたの? 大変だったでしょう?」
「あぁ!?」
ユニキドの怒りがアモルから自分に向けられたように感じたアスセナは咄嗟に片脚を後ろに下げる動きをしてしまった。これでは後ろめたさを感じていることを明かしたようなものだった。それなのにアモルはユニキドの怒りに更に油を注いだ。
「僕はアモル、アスセナの息子」
ユニキドの絶句と同時に、アスセナがクシャミをした。
毛布にくるまったアスセナの濡れた髪が大方乾くまで、口を開く者は誰もいなかった。
アスセナが隣に座るアモルを見れば、アモルは焚火から目を離してアスセナの視線を捉え、にっこりと笑う。正面に座るユニキドに目をやれば、アモルを睨むばかりでアスセナには一瞥だにしない。背後の木立を振り返れば、アモルの連れのユニコーンが木立の中でしゃがみ、時折、眠そうに頭を下ろしている。
「おい、クソガキ」
「クソガキじゃない、アモルだ」
「お前、さっき何て言った?」
「アスセナの息子」
ユニキドの視線がアスセナに移り、アスセナは慌てて、
「違うから。さっき初めて会ったばかりで、いきなりママになってと頼まれて、こっちも何が何だか・・・」
段々と声が萎むアスセナの様子に、ユニキドは溜息を吐いた。
アスセナは「アモル」と声をかけた。
「なあに、アスセナ」
ユニキドに対して見せる態度とは正反対のあどけない声を出すアモルに、ユニキドはわざとらしく舌打ちした。
「さっき、あなたが話した、私にあなたのママになってほしいという話なんだけど」
「もちろん、僕のママになってくれるでしょ? こんなダメ男なんて、こっちから捨ててしまえばいいんだよ」
ユニキドの大袈裟なまでに大きなため息が聞こえ、アスセナの心臓は更に縮み上がった。
「あの、あなたのママになるかはまだ決めてないんだけど、どうしてママになってほしいのか、その理由を聞かせてほしいの」
するとアモルの表情が急に強張った。
「アスセナは、僕の話しを信じてくれる?」
妙に緊張した様子を見せるアモルを安心させるべく、「信じるわ」とアスセナが言うと、アモルはアスセナの目を見据え、「ありがとう」と言った。
「僕は今、人間の姿じゃないけれど、前はアスセナと同じ人間だったの。僕が5歳の時、此処からずっと遠くに離れた森の中で、とても大きなとかげみたいな奴に襲われたんだ」
アスセナが「誰か、周りに人はいなかったの?」と訊ねると、アモルは上目遣いでアスセナを見、首を横に振った。
「いたのかもしれない。でもあいつに襲われて死んじゃったかもしれない。あいつは村で一番背が高いって言われてたおじさんよりもずっと背が高くて、一番太い木よりも脚が大きくて、大熊の手よりも大きな手だった」
話しをしている内に当時の恐怖が蘇って来たのか、アモルの目が急に涙であふれ、唇は嗚咽を漏らすまいと大きく曲がった。
「アモル、怖いと思ったら、その話はしなくていいのよ?」
アスセナが声をかけるも、アモルは首を大きく振り、続きを話し始めた。
「あいつの中は苦しくて、息が出来なくて、真っ暗で、熱くて、頭もお腹も、脚も手も痛くて、ずっと泣いてた。泣いてたら、いつの間にかあいつの中から外に出られてたんだ。
それであいつもいなかったから、助かったんだと思って、急いで村の方に帰ったの。
でもママもパパも村の友達も、村の人も、みんな僕のことがわからなくて、狐が来た時みたいに石を投げて追いかけてきたんだ。
みんな、怖い顔をしていて、僕も怖くなって森の中に戻った。
それでもまだ追いかけて来るんだ。
だからもっともっと森の中に入って行ったら、全然知らない場所に来てた。
咽喉が乾いて、水を飲もうと泉を覗き込んでみたら、僕はこんな姿になってたんだ」
ユニコーンが後ろから現れ、アモルに寄り添って座り込んだ。
「哀しくて泣いていたら、こいつが来てくれたんだ」
アモルはユニコーンを振り返る。
「こんな姿になったから、もう戻っちゃいけないんだと、はっきりわかった。でもやっぱりママに会いたい時があるんだ。だからここを通る女の人に一晩だけでもいいからママになって下さいって頼むんだけど、皆怖がってどこかに行っちゃうんだ。
ママになってくれたら、沢山食べさせてあげるし、綺麗な服だって着せてあげられるし、何だってママのためにやるからって言ってもダメなんだ。僕が人間じゃないから、信用できないから」
アスセナの脳裏に、村を出ざるをえなかった時のことが思い出された。
村を離れることに未練が無かったと言えば嘘になるが、親も亡く、独り身であったから離れる覚悟も持てた。しかしこんな幼い身で人外に襲われた恐怖を抱え、しかも家族から受けるはずだった愛を突然拒まれた時の絶望感は、アスセナの想像の域を超えていた。
「ママに会いたいけど、もう会っちゃいけないから」
なおも泣きじゃくるアモルを哀れに思ったアスセナが抱き寄せようとしたその時、ユニキドが、
「泣き真似だけは流石に年季が入ってるな」
と言い放った。
「泣き真似って、どうしてそんな酷いことを言うの!」
アスセナが怒るもユニキドはそれを無視し、
「おいクソガキ、お前、今いくつだ?」
と、アモルに訊ねた。
「クソガキじゃないもん」
アモルが鼻をぐずぐず鳴らしながら言った。
「いつまでもクソガキの振りをしているからクソガキって言われるんだ」
「ユニキド、あなたはアモルが嘘をついているって言いたいの?」
「嘘つきなんて言ってない。このクソガキが5歳の時に襲われたのは事実だろうよ。それで? 5歳だったのは、何百年前の話だ?」
アモルは息を吐いた。
「なあんだ、知ってたのか」
アモルの声には先程までの幼さが消えていた。
「いつから気付いてたの?」
妙に大人びた声音が、アモルの小さな口から発せられる。
「お前がユニコーンを連れて現れた時、薄々そうじゃないかと思ってはいたが、お前の話を聞いて確信したよ」
「ユニキドは、アモルの事を知っていたの?」
アスセナが驚いて訊ねると、ユニキドは「人外の間では有名な話さ」と答えた。
「ユニコーンを連れた、子供の姿をした人外がいる。その人外は元々は人間の子供だったが、子孫を残そうとした人外に襲われ、胃袋の中に入れられてしまった。子供が胃袋から吐き出された時には、その人外の身体に作り替えられてしまった。それ以来、その子供の人外は人間を殺して血を吸いながら、数百年間ずっと生きている」
「子孫を残そうとして、胃袋の中に入れて・・・?」
ユニキドの言葉にアスセナが驚いていると、
「僕たち人外は人間の繁殖方法と根本的に違うし、それぞれの人外でも異なっているんだよ。僕も襲われた時は全く解からなかったけれど、此処に来た色んな人たちに訊いているうちに、食べられたわけではないから、おそらく繁殖目的で襲われた可能性が高いだろうって教わった」
と、アモルが付け加えた。
「アモルを襲った人外は何処へ行ったの?」
「ずっと探しているんだけどね、全く手がかりが無くて。ユニキドは何か知らない?」
「その人外には俺たちの言葉は全く通じないという噂話しか知らねぇな」
「そう・・・」
落ち込むアモルに、アスセナは、
「その人外の場所を知って、どうするの? 会いに行くの?」
と、訊ねた。
「うん、あいつはトカゲみたいな姿をしていたけれど、あいつの胃袋から出てきた直後から、ずっと僕の姿はこのままなんだ。この姿になって、もう500年は経っている。いつかはあのトカゲみたいな姿になるのかも知れないけれど、そのいつかが全く判らないんだ」
「・・・・・・」
「せめて、あいつに会えば何か判るかもしれないんだけど、誰に訊いても居所を知らないんだ。もしかしたら、もう死んでいるのかもしれない」
アモルは疲れたようにユニコーンに寄りかかった。
「アモル、どうして私に声をかけたの?」
「アスセナ、あなたは処女でしょう?」
思わず黙り込んでしまったアスセナを気にすることなく、アモルは続けた。
「僕はママになってくれる人が欲しかった。でも人外の僕とただの人間とでは生きられる時間が違い過ぎる。だけど僕が相手の生き血を吸えば、相手は僕と同じように不老になり、永く生きられるようになる。ただし、相手が純潔でなければ僕が生き血を吸っても、その効果は無い」
「・・・・・・」
「ユニコーンのこいつは処女にしか懐かない。僕らは女性を見つけたら、必ずこいつが先に確かめてくれる。こいつが女性に近付くか否かで処女を見分けてたんだ」
アモルは急にクスクスと笑い出した。
「時々、若い姿のままで永く生きられるからと喜んで僕の前にやってくる人もいるけれど、こちらが生き血を吸ってやったら、用は済んだとばかりにさっさと消えてしまうんだ。
他にも、おかしな奴がいてさぁ。僕のママじゃなくて妻になりたいって言ってきて、僕と交わろうとするんだよ? だけど僕のあそこが人間のあそこと全く違う作りをしていると知った途端に、凄いショックを受けててさぁ」
アモルは一頻り大きな声で笑った。
「そういうやつらはね、後々面倒になるから殺しているんだ」
笑い過ぎて涙を流しながらアモルは言った。
「あ、勿論、殺すのはそういう面倒なことを引き起こしかねない奴だけだよ! 普段は動物や魚の血を吸っているんだ!」
アモルが慌てて言った。
「私が、処女だから、私にママになってほしいの?」
「そう。若い女の人って、どうしても姉のように見えるんだよね。だからアスセナを見つけた時、この人がママになってくれたらどれ程素晴らしいだろうと思ったんだ」
アスセナの表情から何かを察したのか、アモルは「がっかりした?」とアスセナの顔を覗き込んだ。
「不快に思ったらごめんね。でも僕にとってはとても大事なことだったんだ。アスセナが処女じゃなければ、僕は最初からアスセナに近付こうと思わなかった」
アモルは急に前のめりになり、アスセナの両手を握った。
「アスセナ、僕はアスセナにママになってほしい。これは本気なんだ」
「でも・・・」
「良い話じゃないか」
ユニキドの声に、アスセナは驚いた。
「アスセナ、これ以上惰性で俺についてくる必要はない」
ユニキドの落ち着いた声に、アスセナの鼓動が速まった。
「ユニキド、私は」
「俺は別にお前がいてもいなくても、どうでもいい。お前の代わりの処女なら、他に幾らでも見つけられる」
アスセナはゆっくりとアモルの両手を握り返した。
「これだけ望まれているなら、こいつと一緒の方が生きやすいと俺は思うが? それとも何処か大きな街で見知らぬ大勢の人間に囲まれながら生きていこうと思っていたのか? 20の女ならいざ知らず、40過ぎた田舎女の存在を受け入れてくれる程、人間が優しいとは思えないがね」
ゆっくりと言い聞かせるように話すユニキドの言葉の一つ一つに反応するかのように、アスセナの握る手の力が少しずつ強くなっていき、口の中がどんどん乾いていく。
アスセナがアモルを見遣ると、アモルは期待に満ちた目で見つめている。
「アモルは、私とずっと一緒にいたいの? 本当に私が良いの?」
「僕はアスセナとずっと一緒にいたいし、本当にアスセナが良い」
「大丈夫だよ、ほんのちょっとだけ首筋を噛むけれど、すぐに痛みを感じなくなるから」
「本当に、痛くないの・・・?」
「うん、身体も今と変わらないよ」
アスセナは黙って、髪をかき上げ、首筋を晒した。
アモルの指先がアスセナの首筋に手をかけ、口が近付いて来た。ユニキドはその様子を、表情を変えることなく見ている。
歯先がアスセナの首に触れようとしたその瞬間、アスセナはアモルの両肩を掴むなり、強い力で引き離した。ユニキドの眉間に皺が寄った。
アモルは始めの内は呆然としていたが、自身の肩にかけられているアスセナの両手に己の手を重ねる時には微笑んでいた。
「アスセナ、いいんだよ」
「ごめ・・・、ごめんなさい」
俯いたアスセナは謝罪の言葉を続けて発しようとしたが、言葉は見つからず、その声は身体と同じように震えていた。
「どうしてアスセナが謝るの? アスセナはちっとも悪くないよ」
「・・・・・・」
「アスセナ、ごめんね。もう、ママになってなんて無理なお願いしないから」
アモルの小さな手がアスセナの頬を流れる涙を拭った。
「ね、アスセナの話しを聴かせてよ」
アモルが明るい声で言った。
「私の話し?」
「アスセナが生まれた場所とか、今まで訪れた街の話しとか」
「・・・それなら、アモルの話しも聴かせて」
「僕の? どうして?」
アスセナはアモルの手を握りながら答えた。
「アモルのこと、忘れたくないからよ」
アスセナがユニキドの方を見ると目が合ったが、ユニキドは目を逸らすなり横になってしまった。
「いいよ、それじゃアスセナの方から先に話して」
アモルは笑って、そう言った。
「私が生まれた場所は・・・」
アスセナは静かに話し出した。
生まれ育った故郷のこと、初めて見た海のこと、亡くなった家族のこと、大きな街のこと。
アモルも静かに話し出した。
母親が歌っていた子守歌のこと、冬が来る前に開かれていた祭りのこと、子供達の間で流行っていた遊びのこと。
いつしか二人は沼の底にいるかのように黙り込み、夜明けまでを過ごした。
夜が明けるや、ユニキドは「行くぞ」と言って立ち上がった。
ユニキドはさっさと出発したが、アスセナはまだぐずぐずしていた。
「行かなくていいの?」
こちらを振り向くことなく去っていくユニキドの後ろ姿を見て、アモルが言った。
「アモル、ユニコーンを連れて、私たちと一緒に行かない?」
アスセナの提案にアモルは一瞬驚いたような表情を見せたが、アモルは笑って、
「僕が行くと、ユニキドとずっと喧嘩することになるだろうから、僕たちは此処に残っているよ。それに、アスセナがユニキドと別れた時に戻ってこられるようにね」
と言った。
アスセナがユニキドの方を見ると、ユニキドの姿は大分小さくなっていた。
アスセナはアモルを振り返って、
「私が此処に戻った時は、今の姿じゃなくなっているかもしれないのに?」
「処女じゃなくなっているかもしれないってこと? それとも今よりも年をとっているかもしれないってこと?」
アスセナの問いに、アモルは意地悪く問い返した。
「でも処女であることが、あなたにとっては大事な条件なのでしょう?」
「それは初対面の相手に対しての条件だよ。アスセナと僕らはもう初対面じゃないし、お互いに相手の名前も知っている。僕はずっと此処でこいつと一緒に待っているよ」
アモルは静かに微笑み、言った。
「僕には時間だけはたっぷりあるからね」
後方からの足音にユニキドが振り向くと、アスセナがこちらに向かって走って来た。
ユニキドは立ち止まることなく再び前を向き、歩き続けた。
やがてアスセナが追いつき、ユニキドの隣に並んで歩き始めた。
ユニキドが前を見つめたまま、口を開いた。
「お前も酔狂な女だよな」
ユニキドが呟くように小さな声で言った。
「そうかもね」
アスセナも小さな声で応えた。
二人はいつものようにしばらく黙って歩いていたが、アスセナは遂に耐え切れず、胸の内を明かした。
「あんなに長く生きていても手に入らないものがあるんだなって思ったら、急に怖くなったの」
「はあ~、下らねえ」
ユニキドの溜息に、アスセナが驚いてユニキドを見た。
「長く生きてて手に入らないのは、あいつがいつまでもあそこに居座っているからだろ。動きもしない癖に天から降ってくるのを待っている方が馬鹿らしい」
腹立たし気に話すユニキドの姿に、アスセナは思わず、
「ユニキドって、案外若いのね」
と言った。その言葉に、ユニキドは「おい! 言っておくがな、俺はお前の何倍も生きているんだからな!」と怒鳴ったが、アスセナは笑って「はいはい」とあしらった。
アスセナの不揃いな毛先が風に揺れた。
あ と が き
長生きしても手に入らないものがある。それに気付いた時、年老いたなと実感しました。
私の場合、老いる中で気付いたことは内面のことばかりな気がします。
今回登場した少年アモルという名前は、ラテン語で「愛」という意味です。
2020年5月29日