海辺にて

 遠くから声が聞こえる。
 自分の名前を呼ばれているようにも聞こえるが、打ち寄せる波音にかき消されるために、遠くからの声が果たして己の名前であるのか、定かではなかった。
 幼い彼は目を閉じた。
 真っ青な世界が消え、真っ暗な世界が現れた。
 遠くからの声は、今や波音によって全く聞こえなくなった。
 彼は起き上がろうとせず、徐々に迫り来る波音に耳を傾けた。
 遂に波が彼の身体に覆い被さった。
 と、思う間もなく、彼の耳や鼻孔から海水がこぼれたが、彼はその不快感に対しても微動しなかった。
 頭上から、名前を呼ばれた。
 目を開けたその瞬間、波が彼の視界を横切った。

 白い、いや仄かにあたたかみのある色の天井だった。
 彼は部屋の天井と同じく、夕日に染まったベッドから起き上がり、海辺に面した大きな窓の前に立った。
 日の光が彼の黒い身体を温める。
 彼はこの時間が一日の中で一番好きだった。水平線に沈む太陽の動きが、巨大な動物のように感じられるからだ。
 ふと、橙色の世界の中で、小さな影が見えた。
 彼は目を細めて、その小さな影の形を捉えようとするが、あまりにもその小さな影が遠くにいるため、その形の輪郭はぼやけている。
 彼はせめて形だけでも知りたいと思い、窓を開け、外に出た。
 生温かい空気が彼の身体に触れた。直後に、漣波の音が彼の逸る心を落ち着かせる。
 彼は柔らかい砂地に足を下ろした。砂が足指の先に食い込み、裸足をくすぐる。
 ゆらめく“影”に近付くにつれ、それが人間であることが判った。
 その人間は夕日の光を吸収してしまったかのように、全身がオレンジ色に照っていた。
 彼はその白い人間の隣に立ち、
「やあ」
と、声をかけた。
 オレンジ色に染まった白い男が振り向く。白い肌の中で、黒い瞳が彼の青い瞳を見つめ返す。
「やあ」
 白い男は抱えた膝頭の上に頭を乗せ、静かに微笑みながら言った。
 彼は白い男が一糸まとわぬ姿であることに、声を掛けるまで気付かなかった己を後悔した。
「えーと・・・」
 黒い瞳から視線を逸らし、この場を去る言い訳を探していると、白い男は、
「座ったら?」
と、彼の逃げ道を塞いだ。
 彼は白い男の隣に仕方なく座り、白い男と同じように膝を抱えた。
 海辺には二人以外には誰も居らず、目の前の夕日と、太陽を呑み込む海だけが、二人の動向を無言で観察していた。
 彼が白い男を横目で見遣ると、白い男は先程と変わらぬ姿勢のまま、彼を見つめていた。
 彼は微笑み返そうとするも、つい白い裸身のことを思うと、ぎこちない笑みになってしまい、結局彼は海の向こうへと視線を戻した。
「恥ずかしい?」
 白い男が彼の心中を察したかのように訊いた。
「え、いや」
咄嗟に答えるも、白い男は「君とて同じような格好をしているのに?」と、追い打ちをかけた。
 彼の両頬が一瞬にして熱くなった。彼は白いシャツとズボンを穿いていたが、下着の類は身に付けていなかったのだ。
「君とは違う!」
 白い男に見透かされたことへの怒りのせいか、わずかに声が裏返った。
 それでも白い男は微笑みを浮かべ、
「上辺だけね」
と、言った。
 尚も彼は反論しようとしたが、白い男は彼の両肩に手を置くなり、身体を押し倒した。
 砂が襟から手を伸ばし、髪の毛の間で遊ぶ。
 白い男の身体が彼の両肩の付け根に圧し掛かり、白い男を押し退けようにも、まともに腕を動かせなかった。
 白い男は相変わらず微笑を浮かべている。
 白い男の黒い瞳に己の姿が映り、彼は目を逸らした。
 白い男が彼の腰の上に座ったために、白い男の局所が布越しに彼のそれに当たり、彼は気恥ずかしさと恐れから目を閉じた。
 白い男は彼のシャツのボタンを一番上からではなく、二番目から外し始めた。
 三つほどボタンが外されると、冷たい指先がシャツの隙間から滑り込んできた。
 己の体温との差に驚く一方、白い男の指先が彼の温かな胸の上をゆっくりと散策するその感覚に、彼の身体は図らずも反応してしまった。
「恥ずかしい?」
 白い男は、今度は囁くように小声で繰り返した。
「っ・・・・・・」
 目を開き、白い男の目を見据えようとするが、己の影を見た途端、その意気も霧散してしまった。
 開かれたシャツの隙間に冷たい風が吹き込み、彼の身体は一層強張った。
 白い男の嘲るような小さな笑い声が波音に絡む。
 彼が海の向こうを見ると、ほとんど日は沈んでおり、打ち寄せる波が彼と夕日との間に立ち塞がっていた。
 波は徐々に二人に迫っていた。
 波が近付いていることを彼は知らせようとしたが、白い男は彼の唇を塞ぎ、舌先を彼の口内で暴れさせた。
 波が二人の身体を包んだ。
 引き波によって動かされた砂が彼の身体に押し留められる。
 幼い時も、今と同じように波に身体を包まれたことを思い出した彼は、海水で痛む目を瞬かせながら、訊ねるように呟いた。
「昔、名前を呼んでいたあの声は・・・」
 白い男は、彼の名を口にした。
 その時、夕日が水平線の向こうへ姿を消した。

あ と が き
 “昼”と“夜”を二人の男に置き換え、昼と夜が入れ換わる様子を描いたものです。
 大昔のネタ帳には、白い男が近隣の人間を全て呑み込んでしまったという設定が書かれておりました・・・。

2015年3月4日