腐敗

  小さなノック音が耳に飛び込んできた。
 緊張の余り、手にしていたペン先が紙の上を滑り、枠の外へと飛び出した。
「・・・・・・」
 ノックをしてきた者の声が聞こえるかと耳を澄ますが、相手は何も言わない。これ以上、こちらを刺激する気は無いようだ。
 私は再び原稿用紙と向き合う。
 頭の中の情景が次から次へと変わりそうになるのを、必死で制御する。
 映画のフィルムを一コマ一コマ確認するかのように、背景における登場人物の立ち位置や、光源が生み出す影、声音、仕草、そして心情を逐一観察し、丁寧に文字という形に変化させるのだ。
 先程よりもやや強いノック音。直後に、小さな溜息。
 私は焦る気持ちを抑え、頭の中の主人公を歩かせる。
 主人公は書き手の気持ちなど知る由も無く、己の目の前に立ち塞がる問題に頭を悩ませている。
 共に目の前の問題を乗り越えられず、右往左往している点では、主人公も私も共通している。だが、主人公はあくまでも物語の主人公にしか過ぎない。生かすも殺すも、私次第なのだ。
 主人公を生かそうにも、問題解決の糸口が見つからない。
 主人公を殺そうにも、冒頭から続けられた物語が破綻してしまう。
 突如、大きな音と振動が私の心を揺さぶった。
 ドアの向こう、複数の声が聞こえる。
 再び、大きな音と振動。
 頭の中の主人公は姿を消してしまった。
 三度目。
 こころなしか、ドアの真ん中が膨らんでいるように見えた。
 四度目。ドアが軋んでいる!
 私は原稿用紙を胸に抱えた。防具としては何の役にも立たないというのに。
 五度目。遂にドアが砕かれた!
「・・・・・・」
 何かを叫んだような気がするが、実際には声は出なかった。
 真っ先に、狭い部屋の中に足を踏み入れたのは、腐った臭いだった。その次に、腐臭の持ち主が続く。
「・・・・・・よぉ」
腐臭の持ち主が声を掛ける。蹲っているため、腐臭の持ち主が異様に巨大な存在に見える。
「お前が散々放置プレイをかましたお陰で、すっかりコイツが駄目になっちまったよ」
 腐臭の持ち主が手にしていたものを私に投げつけた。
 悲鳴が腹の底から出た。腕を振り回し、それを部屋の隅に放り投げる。
「可哀想になぁ、生まれた時は世界を驚かせる存在になると謳われていたのになぁ」
 腐臭の持ち主が憐みの目で、腐った肉塊となってしまった頭部を見遣った。
「俺もよぉ、最近、内臓が腐り始めたようで、息が臭いんだよ」
 腐臭の持ち主がしゃがみ、私の顔に吹きかけるように言った。
「っ・・・!」
 あまりの臭いに私は吐きそうになったが、ここで吐こうものなら、どんな仕打ちを受けるか判らない。私は込み上げてくる胃液を抑えるが、その代わりに涙が出てしまった。
「なあ、今のアンタから見て、俺はまだ使える要素があるよな?」
 私は呼吸を我慢し、腐臭の持ち主の目を見つめながら、激しく頷いた。
 早く、早く使わなければ。
 この腐り始めたネタを!

あ と が き
 先日の大掃除で見つけた、昔のネタ帳。
 使える要素もありましたが、今となっては「これの何処が面白いの?」と思うほどつまらないネタもありました。
 徹底した不幸キャラを主人公にした長編作品ネタも出てきました。あまりの不幸っぷりに、ネタのメモなのにお腹がいっぱいになりました。
 他の作品に組み込むことも出来ず、日の目を見ることなく腐らせてしまって申し訳ないという気持ちから、思いついた話です・・・。

2015年3月5日

優秀な助手

 裸電球が明滅している。
 空気は埃っぽく、咽喉の奥を苦しませる。
 本当は広い部屋なのだろうが、部屋の中には所狭しと大きな机が幾つもその存在を主張し合っており、互いに工具や鉄製の拘束具を載せていた。
 雑多な部屋の中央の僅かなスペースに、その椅子はあった。
 椅子には人間が座っていた。顔をしかめ、軽く唸っている。
 やがて人間は目を覚ました。
 最初は己が何処に居るのか判らなかったようだったが、周囲を見回す内に、己の身が危険に瀕していることを悟った。
 人間―太り気味の中年男―は椅子から立ち上がろうとしたが、両手足を椅子に縛り付けられている上に、椅子が床面に直に据え付けられており、容易に逃げ出すことは出来そうになかった。
「クククク・・・」
 暗い部屋の一角から、妖しげな笑い声が中年男の耳を小突いた。
「だ、誰なんだっ!?」
 中年男が恐怖に震えた声で問うた。
「誰か?そんなことはどうでもいい・・・。私は君とゲームがしたくてね。ちょっと強引なやり方ではあるが、此処へ連れてきたわけだ・・・」
 ゆっくりと暗闇から現れたその高齢の男に、中年男は見覚えが無く、中年男は更に恐怖で身が縮まった。
「お、俺はあんたを知らない!警察にも家族にも言わない!」
 中年男の懇願を男は遮った。
「そうだな、警察にも家族にも言わないだろうよ。いや、“言えない”の間違いかな・・・?」
 不気味に笑う男に、中年男の表情は幼い子供のように苦しそうに歪んだ。
「泣き叫んでも無駄だね、あんまり私を疲れさせないでくれないか?まあ、私には助手が居るので、彼にやってもらうという道もあるな」
 そう言って男が指し示した先には、若い青年が立っていた。
 その青年は中年男の泣き声にも、高齢男の笑い声にも関心が無いのか、無表情で立っていた。
「彼は、数多の凶悪な連続殺人者の隣にこの助手ありと謳われるほどの優秀な人でねぇ。さあ、ゲーム・スタートだ!助手君、まずは先程説明したように、例のアレを持ってきてくれないか?」
 男が高らかに言うと、助手は男に一枚の紙を差し出した。
「・・・助手君、これは何かな・・・?」
 男が訊ねると、助手である青年は眉一つ動かすことなく、
「雇用契約書です」
と、言った。
「こ、雇用・・・?」
 見れば確かに雇用契約書の文字が大きく書かれており、その大きな文字の下には、ご丁寧にも職務内容や賃金に関する項目まで書かれている。
「仕事を始める前に、まず雇用契約書にサインして下さい。職務内容や賃金などは募集サイトの案内に記載されていたものに沿って書いてますので、ご確認もお願いします」
「〜〜〜っ!」
 興を殺がれたことへの怒りから、男は歯軋りしながら雇用契約書を破きたくなったが、優秀な人材を逃したくない気持ちからその衝動を必死で抑え、男は雇用契約書にサインした。
「フッ、それでは改めて始めようか。助手君、今度こそ、例のアレを持ってきてくれ」
「あのぉ」
 助手の間延びした声が響いた。
「例のアレって、アレの事ですよね?」
 助手が指差す先には、机の上に置かれた、医療用の錆びたメスだった。
「その通り。君の実力も見たいので、このゲームの序盤は君に任せよう。そのメスを使って、この腹の突き出た中年男と遊んでみたまえ。勿論、簡単に死なせてはいかんぞ」
「素手で触りたくないので、せめてゴム手袋を着けたいんですけど」
 助手の言葉に男は青筋を立てながらも、
「そうだな。脂に塗れた血液なんか浴びたくないものな、好きにしたまえ」
と、寛大さを表した。
「感染症を防止するために使いたんですよ。こんな黴やほこりだらけの部屋で怪我をしようものなら、どんな病気になることやら。とにかく、ゴム手袋は何処に置いてあるんですか?」
「・・・・・・・・・・・・」
 男は雑多に散らかった机の上から、使い古したゴム手袋を探し出すと、助手に渡した。
 助手は渡されたゴム手袋を頻りに観察すると、
「新品のゴム手袋は無いんですか?」
と、訊ねた。
「し、ん、ぴ、ん、だとぉおお?」
 男の苦悶の声に助手は相変わらず表情を変えることなく、
「指先の生地が薄くなっていますよ。こんな状態のものを使って、この中年の男が暴れた際にメスが指先をかすめたら危ないでしょう?こちらも労災申請の手続きに時間を費やしたくないですし」
 それでも男は耐えに耐え、
「よろしい、新品のゴム手袋を買ってきたまえ。それまでこいつとのゲームもお預けだな」
と言った。

 十五分後、助手は新品のゴム手袋を手に戻ってきた。
「さあ、助手君。準備は整ったかな?」
 男が身体を小刻みに左右に揺らしながら問うと、助手は一枚の小さな紙を差し出した。
「・・・・・・今度は何かな?」
「ゴム手袋代の領収書です。経費として落ちますよね?」
 男は遂に怒りを爆発させた。
「ふざけるなぁっ!!」
 怒りのあまり、男は手近の机を蹴り倒した。
 机の上に載せられていた拷問器具が、騒々しい音を立てて床に体当たりした。
「お前は私に雇われたのだぞ!?それなのに、いちいち細かいことで私の崇高なゲームの邪魔立てをしおって!優秀と噂されているから期待してみれば、実物はとんだ屑じゃないか!お前なんかを雇った私が愚かだった!貴様の手なんぞ借りずとも、最初から私一人でやれば好かったのだ!」
「雇用契約の破棄ということでしょうか?」
「ああそうだ!貴様なんぞクビだ、クビ!」
 怒りが収まらないのか、男は他の机まで蹴り倒し始めた。
「即日解雇であるならば、解雇予告手当に充当する額の金額を要求いたします」
 騒々しい音が飛び交う中、嫌に明瞭に聞こえた元・助手の言葉に男は振り返った。
「ふぅっはぁああん!?」
 男の奇声にもたじろぐことなく、
「労働者として当然の権利です」
 その超然とした態度に男は足元に落ちていた包丁を拾うや、
「貴様ぁあ、殺してやるっ!!」
と、切りかかった。
 すると元・助手の青年は、懐からあるものを取り出した。
『貴様ぁあ、殺してやるっ!!』
 己と同じ言葉がそれから発せられ、男は不覚にも勢いを削がれてしまった。
「パワハラ、というよりも立派な脅迫行為ですよ、これは」
 青年が手にしていたもの、それは小さなICレコーダーだった。
「警察に駆け込むつもりはさらさらございませんがね、その分退職手当に色をつけてくださいね」
 青年の「お疲れ様でしたぁ」という挨拶と、爽やかな笑顔が、男の心を見事に挫いた。
「優秀だ・・・、奴は確かに優秀だ・・・。凶悪な犯罪を目論む我々の“ブラック”な労働環境を“ホワイト”に変えてしまう、優秀な助手だ!」
 男の悲痛な叫び声が空しく響き渡った。

あ と が き
 映画「SAW」シリーズの初期3部作を観たのですが、黴ルンルンな環境に薄暗い照明や血まみれの床や壁と、型にはまったような環境設定に食傷気味になりました。
 夜のように暗い状況だからこそ恐怖感情も煽られるのでしょうが、むしろ新設病院並に清潔な環境が舞台のホラー映画が観てみたいと思う内にこんな話しになりました。
 そして、すっかり忘れられている中年男さん・・・。

2015年7月17日