第一章
日本唯一の出版社 七海出版
代表取締役社長 堺 淳
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既に待ち合わせ場所に来ていた相手に簡単な挨拶をしてから名刺を交換すると、堺の名刺を受け取った相手はまじまじとその名刺を見つめた。
「その名刺を作る時、『日本最後の出版社』にした方が印象に残るかなって思ったんですけれど」
初対面の相手と話をするときに使う雑談ネタの一つである、己の名刺を作った時のエピソードを堺が話そうとすると、相手は、
「あ、すいません、失礼しました! 珍しいフレーズだったので、つい」
と、すかさず謝罪した。
自嘲的フレーズと受け取られてしまったのかも知れないなと思い、堺は苦笑した。
「そんなに気にしないで下さい、皆さんもしばらくの間、その名刺をご覧になってますから。えーと、常磐さん」
テーブルの上に置いた名刺を見やりながらそう言うと、常磐は誤魔化すように、巻き毛の後頭部をかきながら笑った。
ウェブマガジン編集員を名乗る常磐から始まった、仕事の依頼に関したメールでのやり取りを通じて、
その丁寧な文面から堺は相手を実績豊富な三十代ぐらいだろうと勝手に想像していた。
だが、実際の常磐は、活力に満ち溢れた瞳と相俟って若々しく見え、大学生であると称しても差し支えないほどだった。
動きやすさを重視しているのか、薄い青色のシャツの上に紺色のジャケットを羽織ったラフな格好をしている。
「それで、その名刺印刷を依頼して、印刷会社から名刺の見本を貰った時、『最後』にしたら洒落にならないって自分で気付いて、
結局そういうフレーズにしたんですよ」
「そうですよ、洒落にならないですよ。『日本最後の出版社』なんて書かれた名刺を受け取ったら、
こちらまで切ない気持ちになりますよ」
常磐は大袈裟に頷いた。その陽気な仕草は常磐の若々しい容貌と相俟って、若い世代と接する機会が少ない堺の心に新鮮さをもたらした。
「お待たせしました。ご注文の紅茶とコーヒーをお持ちしました」
注文していた飲み物を二人が座るボックス席まで運んできた店員が、二人の会話を中断させた。
「あ、紅茶はこっちです」
常磐が片手をあげて言った。
店員はトレイを傾けることなく、器用に片手で常磐の前に紅茶を、堺の前にコーヒーを置いた。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
店員の問いに常磐が頷くと同時に、他の客席から注文を告げるベルが鳴らされた。
「伝票はこちらに置いておきます。ごゆっくりどうぞ」
店員は口早にそう言って制服のエプロンのポケットから伝票を取り出し、テーブルの上に置くなり、頭を軽く下げ、ベルを鳴らした客席へ急いで歩いて行った。
平日の昼下がり、オフィス街に店を構える全国チェーンのその喫茶店には大勢の客が来ていた。
堺や常磐のように仕事の打ち合わせも出来るよう、店内にあるテーブル席の各スペースは大きく取られているが、
その割には広いホール内を動き回る店員の数が少なく、傍から見るに多忙そうであった。
「紅茶がお好きなんですか?」
堺が訊ねると、常磐は恥ずかしそうに微笑み、
「コーヒーを飲むと、お腹を壊す体質なもので」
「そうだったんですか? それなら他の店にしましたのに」
常磐が勤める会社に近い場所の方が打ち合わせ場所として都合が好いだろうと堺が提案したこの喫茶店は、
世界各地で産出されたコーヒーが飲めることを売りにしている。当然、メニューには好みの組み合わせで注文できるよう、
コーヒーの銘柄や挽き方の種類について豊富に書かれてはいるが、紅茶やジュース類は片手で数えられる少なさだった。
紅茶を飲みかけていた常磐は堺のその言葉を聞くと、慌ててカップを持っていない方の手を左右に動かし、
否定の意のジェスチャーを見せた。
「気を遣わなくていいんですよ。本来ならこちらが出向くところを、わざわざ会社の近くまで来て下さっているのですから」
と言うなり姿勢を正し、
「本日は、お忙しいところ、お時間を割いていただき、ありがとうございます」
と、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、お仕事の話を持ってきてくださり、ありがとうございます」
堺も頭を下げる。
実際には暇ゆえの赤字生活から少しでも抜け出せる分、仕事の話は大歓迎であることを強調して言いたいところだったが、
そこまで言うと先程のように自虐的発言と受け取られかねないので、堺はその気持ちを心の中に仕舞っておくことにした。
「では、仕事の話に入りたいと思います」
一拍置いて、常磐は話し始めた。
「メールでも簡単にお伝えしました通り、日本での出版業界や作家たちは、
『魔改造プログラム』の出現を切っ掛けにどのように変化したのか? 出版社社長である堺さんが、
それぞれの分野の当事者へインタビューしていただき、その現状をレポートしていくという企画を立案しまして、
この度、堺さんに依頼しました」
ハキハキと自信を持って喋る常磐。
「連載のペースは月二回で、当社のメインコンテンツであるウェブマガジン『日本ファン・ウェブ』にて掲載されます。『日本ファン・ウェブ』の記事はご覧になったことはありますか?」
「ええ。最初、常磐さんからメールをいただいた時、どこかで聞いたことがある会社名だなあと思って検索したら、時々ヤホーのトップニュースで流れてくる特集記事を読ませてもらっている会社であることを知りました」
堺がそういうと、常磐はとても嬉しそうに笑い、
「弊社の記事を読んで下さり、ありがとうございます」
と、再び深く頭を下げた。
「あまりウェブマガジンの世界のことは詳しくないので、こんなことを訊ねて恐縮ですが、ヤホーに流れる記事は、編集部がおすすめする記事を選んで流しているんですか?」
「そうなんです。『日本ファン・ウェブ』内で最初に記事を配信し、配信から一定期間内にアクセス数が多かった記事だけがヤホーに流れる仕組みになっているんです」
「へえ、それは他のウェブマガジンでも同じ仕組み何ですか?」
「他社さんによりますね。編集長独自の勘だけで流す記事を決めるところもあれば、読者からのアンケート結果で決めるところもあります」
「読者アンケートの結果を待つとなると、配信からヤホーに流れるまでかなり時間が経ってしまいますけれど、それでも構わないものなんですか?」
堺の疑問に常磐は首を縦に振った。
「そこは有料会員のみがアクセスできるサイトなので、実質は会費で経営しているようです。ヤホーへの記事配信は自社サイトの宣伝目的で行っているみたいですよ」
「『日本ファン・ウェブ』での、一つの記事あたりのアクセス数はどのくらいですか?」
「時間や曜日によって変動はありますが、定期連載枠の記事ですと、新たに記事を更新すると、一時間で平均一万アクセスされます」
「え、そんなに?」
せいぜい五百から一千ぐらいだろうという推測を大きく上回る数字を出され、堺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「と言っても、一万アクセスの内訳の大半は自動的に記事を閲覧し、データを集めるボットが占めています。生身の人間は二~三千前後です」
「そんな大勢の人に見られても、大丈夫な文章が書けるかどうか」
仕事柄、作者から受け取った原稿の校正作業はしているが、それは他の人が既に書いた文章の誤字脱字を確認していく程度で、人目に晒せられる程の文章を一から自分が書くと思うと、堺は急に不安になった。
「御心配には及びませんよ、堺さん。当誌では専属ライターの他に、フリーライターや読者からも記事を募集しております。堺さんが考えているような、堅苦しい文章を書く人はほとんどいません。むしろ、くだけた文章の方が読者も親しみやすいみたいで、その方がアクセス数を稼ぐことはざらにあります」
「はあ、そういうものですか?」
「もちろん、誤字脱字のチェックは致します。しかし、書いていただいた内容にこちらで手を加えることはしませんので、どうか安心してください。ウェブ掲載前に校正済みのデータを送って、ライターさんにご確認をいただいてから載せる流れになってますしね」
熱に浮かされたように語る常磐に、堺はある不安をぶつけた。
「連載のペースは月二回とのことでしたが、全何回を予定されてますか?」
「当誌での連載枠は基本的に全十二回、つまり半年間です。アクセス数の反響によっては回数は前後するかも知れませんが、今のところは全十二回で連載していくことをこちらは考えております」
「あの、常磐さん」
緊張のあまり、堺の声が上ずってしまった。
「はい?」
「あの、来年の三月で会社を閉めようと考えているので、連載回数は半分の、その、六回じゃ駄目ですかね?」
「えっ!?」
常磐の口から大きな声が飛び出した。
暫くの間、常磐の唇が動いたが、唇の奥からはなかなか音が発せられなかった。
「せっかく仕事の話を持ってきて下さったのに、こんなことを言って申し訳ないです。勿論、常磐さんからいただいたお仕事の内容はとても興味深いので、こちらもお話しを聴いて、是非やりたいなとは思っております」
未だに呆然とする常磐の姿を見て、会社を閉じる、すなわち常磐の企画仕事を体よく断ろうとしていると誤解されぬよう、堺は捲し立てるように弁解した。
「会社を」
ようやく常磐の口から音が発せられたが、先程までの覇気はどこへやら、その声はひどく弱々しかった。
「自ら、廃業されるということですか?」
常磐から責められているような、心苦しさを堺は感じた。
「ええ、まあ」
常磐の目元が急に強張り、瞳に差す影がその面積を大きくしたように見えた。
「どうして、会社を、閉じるのですか?」
一言一言、区切るように常磐が訊ねた。
「やっぱり、これ以上続けてもどうしようもないくらい、経営が厳しいですからねえ」
「そうですか・・・」
それまで膨らませていた風船の口から空気が漏れるが如く、常磐の両肩は丸くすぼまっていった。
「もう、決定された事なのですか?」
「ええ、出版社が介在しなくても、本を出せる環堺は整い過ぎている程、整っていますし」
「・・・・・・」
常磐の視線が忙しなく左右に動いている。
「『日本最後の出版社』なんて書いた名刺、洒落にならないって別のものに変えておきながら、結局、本当に日本最後の出版社になっちゃって、アハハハ」
堺は冗談めかして言ってはみたが、常磐からは引き攣った笑みすら返ってこなかった。
「あの、連載回数をどうするかは、編集長と話し合わなければならなので、今回の企画の件は、とりあえず保留にしていただいてよろしいでしょうか?」
「もちろんですよ、無理なことを言ってすみません。あ! 廃業した後なら、連載回数が十二回でも二十四回でも、全然構いませんので!」
堺としては明るく言ったつもりだったが、常磐に与えたショックを拭いきれる程ではなかった。
「えっと、連載回数の件は、決まり次第、すぐに堺さんにご連絡しますので」
常磐はふらふらと視線を彷徨わせながら、一言一句、身体のうちから振り絞るように吐き出した。
「わかりました。携帯電話はいつも留守録にしてあるので、メッセージを入れて下されば、こちらから折り返してご連絡いたします」
「お願いします」
常磐は視線だけでなく、身体までふらふらと危なっかしく揺らしながら、隣に置いていたバッグから財布を取り出し、千円札を一枚、テーブルに置いた。
「すいません、すぐに出なければならないので、お会計を頼んでもいいですか?」
「ええ、でもお釣りは・・・?」
「いいんです。打ち合わせ時の飲食代として、少しですけど、会社から支給されているので」
常磐はそう言って背を向けると、振り返ることなく店を出て行ってしまった。
ふと堺が手元を見ると、砂糖もミルクも入れていない黒々としたコーヒーはすっかり冷めており、今更ミルクを追加注文することが何となく憚られ、堺は仕方なく口をつけた。
コーヒーの苦味に顔をしかめた堺の脳裏に、廃業を予定していることを告げた時の常磐の顔がちらついた。
「あの」
長身の影が視界の隅に入ると同時に声を掛けられたので、店員が来たのかと思い堺が顔を上げると、そこには、店を出て行ったはずの常磐が立っていた。
「あの、会社を畳まれる時、堺さん個人に、改めて取材を申し込んでもいいですか?」
「喜んで」
堺が快諾すると、常磐は一瞬で目を輝かせ、
「ありがとうございます!」
と、店中に響くような大きな声を発し、頭を下げた。
堺が会社兼自宅に帰り着いた時には、日はとっくに暮れていた。喫茶店を出てから、駅前のスーパーで夕飯の材料などを買っているうちに遅くなってしまったのだ。
「ただいま」
玄関のドアを開け、電気が灯されていない暗闇に向かって声をかけるが、それに応える声も音も無かった。一人住まいの身となった今でも、帰宅時に声をかけてしまう癖はなかなか堺から抜けなかった。
堺は玄関土間の灯りを点け、靴を脱ぐと、玄関口そばの書斎に入り、窓際に据え付けられた机の上に鞄を置いた。
以前は仕事の書類やファイル類が、狭い書斎を占拠する本棚の中に入りきらず、廊下にまであふれ出て家族から顰蹙を買っていた。しかし、仕事がほとんど無くなってしまった今では、書類を整理したり、塵一つ見逃さないよう書斎を徹底的に掃除することで、仕事をこなしていると自らに暗示をかけていた。
やはり廃業することを告げるべきではなかったのではないか。日本唯一の出版社社長を売りにすれば、今回のようにコメンテーターとしての記事の執筆にありつけるのではないのか。
常磐と別れてから、堺の心中はその煩悶とする悩みに満ちていた。
正式に廃業することは、まだ関係機関に届け出ていないのだから、昼間の発言を撤回することは今からでも可能である。
堺は首を振った。
悩み抜いた末に決めたことなのだ。これ以上、自分一人の力ではどうしようもないのだ。
堺は鞄から仕事用の手帳を取り出しながら、己に言い聞かせた。
たとえ目の前に大富豪が現れて堺の会社の支援者になることを申し出ても、堺は断っただろう。どんなに大金を積んで本を出版しても、その本を読んでくれる人がいないのだから、利益を生まないことに金を使うべきではないと、逆に大富豪を諭す気持ちでいた。これ以上惰性で続けるよりは、きっぱりと諦めた方が良いのだ。
堺は溜息を大きく吐いた。
それでも、常磐の、あの若さゆえの希望に満ち溢れた表情を思い出すと、老いた人間の一人として、常磐の期待に応えたい気持ちも湧き上がってきた。
遠くの方で救急車のサイレンの音が聞こえ、直ぐに音は小さくなった。
六回であろうと、十二回であろうと、密度の濃い記事を書こう。
堺はそう決心し、誰に聞かせるでもなく、「よし!」と大きな声を出して己に気合を入れた。
堺は台所に行き、テーブルの上にスーパーで買ってきた材料が入った買い物袋を置くと、キッチンカウンターの隅に置いてあるラジオのスイッチを入れた。
「スポーツです。まずは野球ナイター速報・・・」
堺はラジオを聞き流しながら、買い物袋から人参とピーマン、ひき肉を取り出す。
人参とピーマンを手早くみじん切りにし、それをひき肉と共に鍋に入れて炒めていると、ポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話が振動した。
携帯電話は三回だけその身を揺らすと、受け取った留守番電話のメッセージを自動的に流した。
「こんばんは、『日本ファン・ウェブ』の常磐です。本日はお会いしていただき、ありがとうございました。連載回数ですが、編集長と相談しまして、全六回の三ヶ月間になりました。こちらでよろしければ、ご連絡をお願い致します」
堺は片手に持ったフライ返しで野菜とひき肉を炒めながら携帯電話に手を伸ばし、画面も見ずにリダイヤルした。
電話の相手はすぐに出た。
「『日本ファン・ウェブ』の常磐です」
と、落ち着いた声が流れてきた。
「堺です。留守電いただきました。こちらこそ今日はありがとうございました」
堺が携帯電話を肩の上と顎で挟み、横着な体勢で挨拶した。
「全六回のわがままを聞いて下さり、ありがとうございます。契約書の取り交わしなどは、いつ頃でしたらご都合が宜しいでしょうか?」
「そうですね・・・」
電話口から、紙をめくる音が微かに聞こえた。
「明日の午後の、十五時は如何でしょうか?編集長も堺さんにご挨拶したいとのことで、編集長の都合上、この時間帯になってしまうのですが」
「こちらとしては構いませんが、編集長直々のご挨拶だなんて、恐縮です」
常磐の声が笑った。
「謙遜しないで下さい。堺さんの活躍には、以前から編集長が注目していたからですよ。言ってみれば、編集長は堺さんのファンなんです」
その時、電話の向こうで常磐の名を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、すいません」
電話口ががさごそと音を立てる。常磐がどこかへ移動しているようだ。
「時間や待ち合わせ場所は、後でご連絡します。ショートメールで連絡してもよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
再び常磐の名が呼ばれた。常磐が移動したためか、先程よりは声が小さくなっている。
「常磐さん、それじゃ、電話を切りますね」
堺は遠慮してそう言ったが、常磐は、
「堺さん、こちらのことは気にしないで下さい」
と、堺を引き留めた。
「堺さん、コミワンが今年の冬で開催を終了するってニュースを聞きましたか?」
堺は驚きのあまり、危うく携帯電話を肩から滑り落としそうになった。
「ちょ、ちょっと待って下さい。まさか、まさか! 誰がコミワン終了を言い出したんですか? いつですか!?」
矢継ぎ早の質問にも関わらず、常磐は順を追って説明してくれた。
「今日の夕方五時頃、コミワン主催者が動画サイトの公式チャンネルにビデオメッセージを載せたのです。そこには経営難のため、今冬を限りにコミワン開催を終了すると宣言していました。ネット上は大騒ぎです。さっき、七時のテレビニュースでも取り上げられていました」
急に腰の力が抜け、堺は床に座り込んだ。
「ニュースは・・・ラジオを点けた時には、もうスポーツのコーナーに入っていて・・・」
またも常磐の名が呼ばれた。流石に三度も呼ばれておきながら行かないどころか、返事もしないことに焦りを感じたのか、常磐は、
「すいません、また連絡します」
と言うなり、電話を切ってしまった。
焦げた肉の臭いが漂い、ようやく堺は我に返った。
白飯の上に硬くなってしまった肉炒めを盛った丼をトレイに載せると、堺はそれを持って書斎に行き、置いてあるパソコンの電源を入れた。
起動のわすかな時間の間に、堺は丼飯をかき込む。
ニュースサイトを開くと、『コミワン開催今冬終了 主催者が発表』と題された記事があった。
その記事を読もうとクリックしてみたが、アクセスが集中しているのか、なかなかページが表示されない。
堺は苛々しながら残りの丼飯をかき込んだ。
ようやくページが表示されたと喜んだのもつかの間、ほとんど真っ白いページの中央に、アクセス集中により記事が表示できないことを詫びる一文が書かれていた。
堺は空になったお椀を横に置き、今度は匿名掲示板にアクセスした。
ニュースカテゴリのスレッド一覧ページには、表現は違えど、コミワン終了を嘆く類似のタイトルが何行にも渡って連なっていた。
その中の一つに、動画のキャプチャー画像が有ることをうたったスレッドがあった。
堺がそのスレッドページを開くと、コミワン主催者が映っている動画のキャプチャー画像が何枚も並んでいた。
主催者の姿は、堺が数年前にイベントで会った時よりも髪が全体的に灰色になっており、顔も疲れの色が濃く覆い、苦労の重さを想像させた。会社の一室で撮影されたものらしく、クリーム色の壁を背に、カメラに顔を向けている。
キャプチャー画像の下部には、元の動画にあったものなのか、それともこのキャプチャー画像を掲示板に載せた者が付けたものなのか、主催者の発言の字幕が書かれていた。
『皆さん、こんばんは。コミワン主催者の豊島です』
カメラを真っ直ぐに見つめる豊島。
『これまでコミワンを応援して下さり、ありがとうございます』
豊島が頭を軽く下げる一枚が入った。
『コミワンは、誠に勝手ながら、今年の冬の開催を最後に、コミワン開催を終了させていただきます』
『有明から会場を移し、徐々に規模を小さくしていきました』
『それでも毎年、次回開催予定のコミワンに参加申請用紙を出して下さるサークルの皆様、ご来場の皆様にはとても感謝しております』
『御想像の通り、コミワン開催終了は金銭的な理由によるものです』
『何とか続けたいという気持ちはありますが、年々減少する参加サークル数、来場者数を考え、一つの区切りとさせていただきました』
『以前は、参加者が一人になっても、その一人のためにコミワンを開催すると豪語しておりましたが、それが出来ず、申し訳ありません』
『全国では、まだまだ他の主催者による、同人誌即売会イベントが行われております』
『サークルの皆様、来場者の皆様、どうか、それらのイベントにどんどん参加していって下さい』
『コミワンは、金銭的な目途がつけば、また始めたいと思っております』
『ただ、いつになれば目途がつくのかは、自分でもわかりません』
『気長にお待ちいただければ、幸いです』
『会場は、最後ということなので、今年の大みそか、有明にて、もう一度開催します』
『皆さんのご参加をお待ちしております』
再び、頭を下げる主催者の画像が入る。その次の画像では、顔を上げた主催者の両目は涙で潤んでいた。
『コミワンが終っても、同人文化は終わりません』
字幕の言葉を言い終わったと思しき次の画像では、主催者が泣き出していた。
堺は耐えられなくなり、そのスレッドを閉じた。
他のスレッドを流し読みしてみると、コミワン開催終了に伴って、同人文化が一層縮小することを悲嘆する書き込みが大半であった。
しかし中には、『魔改造プログラム』の恩恵に甘んじているくせに、コミワン終了を悲しむとは矛盾していると揶揄する書き込みもあった。
「堺さん、毎回コミワンに来てくださいよ。堺さんならスペース料はタダにしますから。交通費も昼飯代も出しますよ。昼飯は会場近くのコンビニのおにぎりですけど、そこのコンビニチェーンのおにぎりは、最近美味しくなってますからおススメですよ!」
そう早口で捲し立ててはよく笑っていた主催者が、苦しそうに泣く姿を見たのは、堺にとって初めてだった。
いや、大人があんなに声を上げて泣く姿は初めてだった。堺はそんな思いを巡らした。
「『魔改造プログラム』か・・・」
堺は椅子の背もたれに寄りかかり、小さく呟いた。
誰がそんな名称をつけたのか、それはネット・スラングの発祥と同じく、定かではない。元々はそのプログラムに正式な名称はなかったが、誰かがそのプログラムのことを、通常の意味としての『改造』に異質なものとしての『魔』の字を冠した『魔改造プログラム』と呼び、徐々にその俗称は広まって行ったのだ。
二〇××年、あるプログラムのソースコードがインターネット上に公開された。
それは、人工知能プログラムに複数の作風や画風を読み込ませることで、それらの特徴を組み合わせた一つの作品が出来上がるというプログラムだった。
当初は、作風が対照的な二つの作品を組み合わせることで奇抜な物語に変える、一種のジョーク系プログラムとして見られていた。プログラムのソースコードが全文公開されていたこともあって、似たような特徴を持つプログラムも次々と開発され、公開されていった。
ところが、プログラムが公開されて数ヶ月後、当時、全国的に有名な漫画雑誌に連載されていた漫画作品で、好みのキャラクターが作中で死亡するという展開に不満を持った人間が、このプログラムを使ってキャラクターの死亡展開を回避する、全く独自の展開を辿る物語を作り、それを公開した。これ以降、そのプログラムの使い方は一変した。
原作では死んでしまったキャラクターが実は生きていたという、改変された展開だけでなく、原作の画風をそのまま取り込み、成人向作品に作り変えた上に、原作者であると自称してそれを販売する。
複数の画風や作風を取り込み、別の作品に仕立て上げた『コラージュ作品』はインターネット上にあふれ返り、商業作家だけでなく、出版業界に大きな打撃を与えた。
『魔改造プログラム』を使って行われていることは、明らかに著作権を侵害していると業界が一丸となって警告したが、それでも一度公開された『魔改造プログラム』は次々とオリジナル作品を食いちぎって行き、遂にはアマチュアの作家がインターネット上に公開していた作品さえもその毒牙に倒れてしまった。
海外ではその脅威に対し、影響が少ない内に『魔改造プログラム』の使用、及び単純所持を禁止する法を制定し、被害を最小限に抑えた。だが、日本は政治家の献金問題で与野党が対立したがゆえに、『魔改造プログラム』の問題は二の次として扱われ、気が付いた時には、出版大国と謳われた日本から、ほとんどの出版社が姿を消していた。
残った出版社の数が片手で数えられるようになった頃、堺は先代の社長から高齢の身となったことを理由に、会社を引き継がされた。
僅かに残った出版社同士でこの境遇を乗り越えようとしたが、他の社も一つ、また一つと廃業を決め、遂に堺の会社だけが日本に残された。
翌朝の新聞に、著名人の訃報欄の隣にコミワン開催終了を報じる記事が、危うく見落としてしまいそうになる程、小さく載せられていた。
『コミワン、今冬で開催終了
昨日、コミワン主催者である豊島氏が今冬での開催を最後に、コミワン開催を終了することを発表した。コミワンは有明で一九九×年から行われている同人誌即売会イベントで、東京五輪開催時期と重なった二〇二〇年夏開催回では入場者数最記録を打ち立てたが、昨今は参加者数が激減。これ以上の開催は経営上困難であると判断し、終了することに決めたという。主催者によれば、今後、コミワンを再開する目途は立っていないという。』
コミワン開催終了を知ったネット上の声は勿論のこと、コミワン主催者の動画のキャプチャ画像や顔写真は一枚も無い、簡素な記事だった。
後日の文化面でコミワンについて大きく取り上げられるかも知れないと堺は希望的観測を一瞬だけ立てたが、その筋の有識者による対談か論説記事が載るきりで、コミワンについて書かれた記事がその後も載ることはないだろう。
どちらにしろ、今朝のこの小さな記事がコミワン存続を望む大きな動きを生み出すとは、堺には思えなかった。
そんな悲観的観測に、己の中にいつの間にか棲みついた諦め癖がそう思わせるのかと、堺は自分の考えにたじろいだが、否、現実を見た上での判断だと己を納得させた。
午後、堺が待ち合わせ場所であるY町駅の改札口を抜けると、
「堺さん!」
大きな声で呼び止められたので振り向くと、改札口を抜ける大勢の人々の壁の向こうで手を振る常磐の姿があった。
「やあ、常磐さん」
堺が人の波を切り抜けて常磐に近付き、挨拶する。
「わざわざ迎えに来て下さったのですか?」
堺が訊ねると、常磐は微笑み、
「編集長のたっての希望で」
と、言って、先に歩き出した。
「コミワン終了のニュースを聞いて、昨日から社内は大騒ぎですよ」
「でも、前々から噂はされていたでしょう?」
実際、次回のコミワン開催が発表される日が近付くと、コミワンは今度こそ終了するという噂が流れた。開催終了となる原因は、未成年者を性的対象として扱う成人向け作品の表現規制が、これまでよりも一層厳しく強化されるためという理由であることが多かったが、数年前からは『魔改造プログラム』による参加者数減少の理由も、その勢力を強めていた。
「根強いファンがいましてね、まあ編集長なんですけれど。毎回、足を運んでいるくらいコミワンが大好きな人で、コミワン終了の噂もデマだと一蹴していたのです。だからこそ、主催者による公式発表のニュースはかなりショックだったみたいです。会議の最中、コミワンが終了するニュースを知った子が編集長に教えてしまったものですから、会議は強制終了。幸いなことに、堺さんの件は既に決まっていたので、昨日、ご連絡出来たのです」
「そうだったんですか」
「身内が亡くなったんじゃないかと思うくらいの泣き様で、大変でした。まあ、編集長は反応が大袈裟なところがありますから」
「もしかして、昨日の電話で常磐さんを呼んでいたのは、編集長ですか?」
「そうです。あの電話の後、社内はすっかりお通夜状態」
常磐が大きく肩を落とす。
「そんな大変な時に、編集長とお会いしても大丈夫ですかね?」
「その点は御心配なく。編集長はプライベートでの悲しみを仕事にぶつける人ですから、とてもやる気に満ちて、堺さんをお待ちしてますよ」
と、常磐がにやりと笑った。
「常磐さんは、コミワンに行かれたことはありますか?」
「三年前ですけれど、編集長に連れられて、夏のコミワンに行きました。昔は大勢いたという徹夜組も待機列もなく、すんなり入れましたね」
「三年前の夏コミなら、私も行きましたよ。今は無きK談社の青色文庫を全作品紹介したレビュー本と、路面電車のルポ本を買いました」
「へえ、そんなものが売ってたんですか? 編集長は会場に着くなり、僕を放って何処かに行ってしまって。ああいう場は初めてだったので、どうすればいいかわからず、結局一人でサークルブースを一回りした後は、ずっとコスプレブースにいたんですよ」
「コスプレか。コスプレイベントは今も活発だから、凄かったでしょう?」
「凄かったですね、屋内のサークルブースよりもコスプレブースの方が賑わってて驚きました。あの日はかなり暑かったのに、それでも全身を鎧で覆っている強者もいて、熱中症で倒れやしないかと観ているこちらが逆に肝を冷やしてしまいましたよ」
「実体験できるものは、今も昔も人気ですから」
そうこう話している内に、二人は『日本ファン・ウェブ』の編集部が入っている雑居ビルの前に着いた。
そのビルは、見た目は周囲のビルと比べるとやや古いようだったが、中は綺麗に改装されており、エレベーターも最新式のものらしく、上昇時の振動をちっとも感じさせなかった。
『日本ファン・ウェブ』の編集部は二つのフロアを借りており、会議室は編集フロアの上階にあった。
常磐に案内された堺が、十人も人が入れば満席になる程の小さな会議室に入ると、そこには既に大柄な男が居た。その髭面の男は部屋に入って来た二人に駆け寄り、
「堺さん!」
と叫ぶなり、いきなり堺の両手を力強く掴んだ。
「コミワンが! コミワンが!」
コミワンが終了することを言いたかったのだろうが、気持ちが言葉についていかなかったらしく、たじろぐ堺を他所に、髭面の男はわっと泣き出した。
困った堺が常磐に目を向けると、常磐は苦笑いしていた。
「堺さん、驚かせてすみません。こちらが『日本ファン・ウェブ』編集長の柳河です」
「ずびません、あなたにお会いするなり、挨拶も出来ずに」
そう言って柳河はようやく堺から手を離し、常磐がいつの間にか差し出したティッシュ箱をもぎ取るなり、鼓膜を痛めるのではないかと堺が心配になるくらい、勢いよく鼻をかんだ。
「ああ、ありがおう」
柳河は泣き腫らした目で、ゴミ箱を柳河に差し出している用意周到な常磐に礼を言い、ティッシュをゴミ箱に入れた。
「今日はお越しいただき、ありがとうございます」
晴れ晴れとした顔になった柳河は頭を下げた。
「こちらこそ、連載回数十二回のところを半分の六回にしていただいて、ありがとうございます」
堺も頭を下げる。
「改めて、ご挨拶いたします。『日本ファン・ウェブ』の編集長を務めております、柳河と申します」
柳河が懐から名刺を取り出し、堺に差し出した。
堺も慌てて、
「堺と申します。よろしくお願い致します」
と、己の名刺を差し出し、交換した。
柳河も、常磐と同じように暫く堺の名刺を見つめていたが、その後の行動は常磐と全く違っていた。
柳河は、常磐の方を振り向くと、
「堺さんの名刺! 羨ましいだろう」
と、貴重なトレーディングゲームカードを手に入れた子供のように嬉しそうに見せびらかした。
「編集長、僕も昨日、堺さんから名刺をいただいてますから」
常磐が呆れたように柳河に言った。
「堺さんの名刺を受け取れる人間なんて、そうざらにいるわけじゃないんだぞ。さ、堺さん、どうぞお座りください」
編集長に促されて、堺は席に座る。柳河も堺の向かいの席に座った。
「昨日、六回連載であれば引き受けてくださるということでしたので、早速常磐に取材先を考えさせておきました」
常磐が一枚の紙と、冷えた緑茶が入ったグラスを堺の前に置き、柳河の隣に座った。
その紙には、
1. 創作者(アマチュア作家)
2. 商業作家
3. ゲーム制作者
4. 印刷会社
5. 本屋店員
6. 『魔改造プログラム』制作者
と、手書きで書かれていた。
「最初の五人をインタビュー対象者として選んだことはわかりますし、こちらも取材先になるような人を当たることは出来ますが、最後の一人は・・・」
堺が、常磐が提案した六人の内訳を見て難色を示すと、
「もちろん、これは僕個人の案です。絶対にこの六人でなければならないというわけではありません」
と、常磐が言った。
堺が柳河に目を向けると、柳河は、
「取材内容や取材先は、各編集メンバーに一任しているのです。常磐の案に対して要望があれば、どんどん仰って下さい」
柳河の言葉に、堺は頷いた。
「もし、堺さんの中で書きたいテーマがあれば、それに沿ったものにします」
常磐の言葉に堺は首を横に振った。
「いえ、これで行きましょう」
堺のその発言に、常磐は驚きと喜びをごちゃ混ぜにしたような表情を見せた。
「あの、本当によろしいんですか?」
常磐が怖々と訊ねた。
「連載回数を半分にしていただいたのですし、それに、商業作家と印刷会社、本屋店員なら心当たりがあるので、こちらで取材先に話を持ち掛けることも出来ますから」
「そうですか。堺さんがそう仰ってくれますと、こちらとしても助かります」
常磐が安心したように言った。
「ただ、不安要素は、最後の『魔改造プログラム』制作者ですね」
「『魔改造プログラム』が出回ったことで逮捕された制作者が、現在はどうしているかは、こちらも調べている最中です。もし取材を断られた場合は、最終回は僕から堺さんへインタビューする形にしようかと考えております」
「わかりました。それでは、第一回目の取材相手はアマチュア作家ということですが、インタビュー対象者になるような人の心当たりはありますか? 私のところに来るアマチュア創作者さんは自伝作家ばかりで、フィクションとしての物語を書く人はなかなか来ないのです」
すると柳河が勢いよく片手を上げた。まるで得意科目の授業を受けている時、教師から出された質問に自信満々に応える小学生のようだ。
「大丈夫です。実は既にこちらで見つけてあります」
「えっ、もう!?」
堺が思わず驚きの声を上げると、柳河はその堺の反応に満足気に笑い、
「二ヵ月前に開かれたコミック・シチズンのイベントでチラシを配ったんですよ。アマチュア作家へのインタビュー取材に応じてくれる人を募集してますって」
「へえ、柳河さん自らが配られたのですか?」
堺の質問に、柳河は、
「休日返上で配りました!」
と、自慢げに答えた。
「実は、アマチュア創作者を集めて、一つのテーマに基づいたアンソロジー作品集を作る計画を立てているのです。アンソロジー作品集に関してどのような考えを持っているか、事前に調査をしたいと思いましてね。創作分野の取材を受けてくださる方を募集しています、というチラシを配ったのです。この調査協力者なら、今回のインタビュー企画にも興味を持ってくれると思います」
柳河が、今にも踊り出しそうに身体をゆさゆさと揺らした。
「でも何故イベントでチラシ配布を?」
「イベントに足を運ぶ位だから、創作界隈にはかなり興味を持っていると踏んだからです。ネットでの募集は簡単ですが、悪戯で応募されても困るのでね」
「それで反響は?」
「そう言えば、僕もまだ結果を聞いてないですね。確か、チラシを五百枚配ったって言ってましたけど」
堺と常磐が柳河を見つめるが、柳河は凍ったように急に身体の動きを止めてしまった。
「あの、まさか」
常磐が恐る恐る伺うと、柳河はがっくりと肩を落とし、
「五百枚チラシを配ったけれど、取材を受けることにオーケーしてくれた人は、たったの一人だけなんです」
2017年12月27日