44.世界の中心で愛を叫ぶ

 駅前のロータリーの端に停めたタクシーの運転席で新聞を読んでいた運転手は、ガラス窓を軽くノックする音に顔を上げ、サイドミラー越しに客の姿を認め、気だるげにドアを開けるレバーを引いた。
「どちらまで?」
 口の端に煙草を咥えながら訊ねると、乗り込んできた客は、
「キンディア裁、いや、トゥルゴヴィシュテ事務所に向かってくれ」
 咄嗟に言いかけたものの、咽喉の奥に飲み込まれてしまった客の言葉を鋭く聞き逃さなかった運転手は、新聞紙を無造作に助手席に放り投げながらも、今一度、バックミラー越しに乗客の姿を一瞥した。
 乗客の服装に運転手は納得し、彼は咥えていた煙草を開け放った窓の外に放り捨てた。
 動き始めたタクシーの前を、若い男が横切った。
 運転手は荒々しくクラクションを鳴らしたが、若い男は自分に向けられているとは思っていないのか、振り返ることも無く、タクシーが向かう先へと駆けていく。
 運転手は若い男をいつもの癖で罵倒する言葉を言いそうになったが、後ろに乗せている客のことを思い出し、腹の中で堪えた。
 普段なら駅から車で十五分程の距離だったが、タクシーが向かう先へ大勢の人々が歩いており、タクシーの横を小走りに追い越す歩行者たちを、乗客は気にしているようだった。
 やがてトゥルゴヴィシュテ事務所に近付くにつれ、乗っていたタクシーは人込みに阻まれ、遂にそれ以上は進めなくなった。
「此処で降りるよ、どうもありがとう」
 客は料金を払ってタクシーをさっと降り、無理矢理人々の間をかき分け、トゥルゴヴィシュテ事務所がある方へと向かって行った。

 キンティア裁判所裏手にあるトゥルゴヴィシュテ事務所から数百メートル離れた地点に設けられた検問所では、十数人の部下が警備していた。周辺の建物は軍関係の施設がほとんどだったが、安全のため、検問所内の建物への一般人立ち入りは禁止している。
 検問所前に集まっている者たちは口々に何かを叫んでいたが、検問所の警備班を統括する少尉には、一々それを聞く余裕は無かった。
 もうじき検問所のゲートが開かれ、群衆はキンティア裁判所へ雪崩れ込むだろうが、それまではこの目の前の“人間の壁”が崩れないようにしなければならない。
 街の中心部に立つ高い時計塔の文字盤の時間を、目を細めて確認した少尉は、改めて気持ちを引き締めた。
 すると、“人間の壁”の一部が崩れ、老齢の男が検問所に近付いて来た。
 部下の兵士たちが一斉に近付いて来る男に銃口を向けたが、少尉は部下たちに合図して銃口を下ろさせた。
 少尉はその老齢の男を検問所ゲート向こうに停められたジープに乗るよう、案内した。男は後方の群衆を心配顔で見遣ったが、直ぐにジープに乗り込んだ。
 少尉が運転席に座り、ドアを閉めると、“声の濁流”が少し遮られた。
「あと二時間です」
 少しでも服の皺を伸ばす男に、少尉は大きな声で端的に告げた。 

 黴や埃、排泄物が入り混じったような臭いが立ち込めていた。
 床は綺麗に磨かれてはいるが、それでも建物全体に不快な臭いがしみついていた。何度も来てはいるが、それでもこの臭いには耐えられそうになかった。
 目の前を歩く長身の兵士が、とある部屋の前に立ち止まり、神父も足を止めた。
 鉄製の扉が開かれると、部屋の中に居た男は、僅かに身じろぎした。
「教誨師だ」
 看守である兵士の声に、壁に据え付けられたベッドに腰かけていた男は、入り口に立つ神父をぼんやりと見上げた。
 神父が部屋の敷居をまたぐと、背後で扉が閉められ、鍵が掛けられた。
 その狭い部屋には窓は無く、壁はコンクリートが剥き出しになっており、見る者に寒々しい印象を与えた。
「教誨師を呼んだ覚えはないが・・・」
 男のかすれた言葉を遮り、神父は言った。
「久しぶりだな、ニコライ」
 己の幼名で声を掛けられ、男はますます怪訝そうな顔を見せた。
「ディミトリーだよ、レダ村の村長の子供だった」
 その言葉に男は目を見開き、身体を震えさせながら立ち上がった。
 ぼさぼさに伸びた髪は、高い天井に据え付けられた小さな電球の明かりでも判る程に油脂で光っている。口周りは無精ひげで覆われ、目の下の黒いくまのせいで、やつれた顔を更に青黒く見させていた。元は白かったであろう服は、何日も着替えを許されていないらしく、垢で薄汚れ、しわによじれている。
「ディミトリーだって? 本当にディミトリーなのか?」
 両手を差し出しながら近づく男に、神父は微笑みを浮かべ、
「そうだよ。水車小屋の二階から飛び降りて右脚を折ったディミトリーだ」
 ニコライが大きく笑いながらディミトリーの身体を抱き締めた。痩せた外見に反し、その抱き締める腕の力は強く感じられた。
 ニコライがディミトリーから身体を離し、ディミトリーの顔を両手で挟み込んだ。
「ああ、ディミトリー、ディミトリー、顔をよく見せてくれ」
「もう子供じゃないんだから。孫に接する老人みたいな真似はよせよ」
 ディミトリーが苦笑いしながら言うと、ニコライは顔を赤らめ、
「すまん、つい、嬉しくて」
と言って、ディミトリーの顔から手を離した。
「いやあ、本当に懐かしいなあ。なあ、座ってくれ。椅子が無いから、ベッドしか座る場所がないが」
「構わないよ」
 ディミトリーが座ると、ニコライもその隣に座った。硬いベッドに大人が二人も座ったので、ベッドは悪魔のような軋んだ声をあげた。
「久し振りだなあ、いつ以来だろう?」
「神学校を卒業して、一度、村に帰った時だから」
「ええと、五十年くらい前になるのか? そうか、そんなに経つのか。元気にしていたか?」
「大病を患うことなく、元気にしていたよ」
「ずっと神父を務めているのか? 教誨師は、いつからやっているんだ?」
「神学校を卒業してからずっと司祭として務めてきた。教誨師は持ち回り制で担当しているんだ。五年前から務めているが、今回は、たまたま僕になったんだ」
「そうか、そうだったのか。俺が村を出てからのことは、うん、まあ、君も知っての通りだ」
 ニコライは落ち着きなく身体を揺らしている。
「此処に連れてこられてから、新聞すら与えられていないんだ。外ではどうなっている?」
 ディミトリーは口を開こうとしたが、ニコライは大袈裟な程、頭を左右に振り、それを制した。
「いや、やっぱり聞きたくない。きっと、ろくなことになっていない」
と、自分を納得させるように言った。
「ニコライ、長く会えなかったけれど、僕は君にこうやって会えて嬉しいよ」
「本当か? 本当に?」
「ああ、村へ帰った時、君は軍に入隊すると話していただろ。その後の君はどんどん出世してしまって、君の健康と幸せを祈るぐらいしか出来なかったから。正直、寂しいとさえ思っていた」
「寂しかったのはこっちの台詞た。手紙くらいくれてもいいのに、ちっとも寄こさなかったじゃないか。てっきり、どこか遠い国へ行ったのかと思っていたくらいだ」
「すまん、男から手紙を送ると周りから同性愛者と思われやすいと聞いたから、遠慮したんだ」
 ディミトリーの言い訳めいた理由を聞いたニコライは、文句を言おうとした口を閉ざした。
「ああ、そうだな・・・。俺が兵舎に居た時も、同性愛者と勘違いされて酷い目に遭う話は、ちょくちょく耳にしたよ」
 ニコライは部屋の隅を見つめながら言った。
「でも俺が兵舎を出てからなら、人目を気にせずに手紙を受け取れたぞ?」
「その頃の君は軍隊の中でも偉い立場だったんだろう? しかも、それから少ししか経たない内に首相にまでなった。そんな人に、気安く手紙を出せないよ」
 ニコライは眉間に皺を寄せた。
「手紙なんてどうでもいい。手紙のやり取りをしていても、きっとこうやって長く会えなかったら、文句を言っているだろうから」
 ニコライはベッドを軋ませた。
「なあ、ディミトリー、君の話を聴かせてくれよ。どうせ、俺の話をしてもつまらないだろうから」
 ディミトリーはさり気なく左手首に指を当てた。刻々と迫る時間を気にする素振りを見せれば相手の心を疲弊させることになるので、腕時計は持ち込まないようにしている。
「そう、神に仕える身となって、あちこちの教会へ行ったよ。でも、どこもレダ村のような小さな村ばかりでね。説教や子供たちに勉強を教えるよりも、畑仕事の方が長かった。時々、旅の人が泊まりに来た時、畑で採れた野菜でもてなすと、とても喜んでくれた。ラジオのニュースで初めて君の演説が流れた時は、とても感動したよ。僕は彼を知っている。彼は僕の親友なんだって思うと、とても嬉しかった」
 ディミトリーはそこで照れくさそうに、
「自分で言うのもなんだが、平凡な毎日だ。君の話より、僕の話の方がつまらないよ」
と、話を打ち切った。
「平凡でいいじゃないか。俺が首相だった頃のように、名前と顔が一致するまで覚える間も与えられずに、毎日毎日色んな人間に会わされるよりましだろ」
「そうかな」
「そうさ。それでも此処に来てからは、毎日、顔を合わせる人間は数人だけでね。かえって気持ちが落ち着くよ」
 急に外から大きな声が聞こえてきた。あまりにも沢山の声が重なっているため、何と言っているのかは聞き取れなかったが、もうじき行われることに人々が興奮していることだけは判った。
 ニコライが何かを言ったが、ディミトリーは聞き取れず、「ニコライ?」と返した。
 ニコライが先程よりもやや大きな声で、
「イリーナは何処に埋葬されたんだ?」
と、訊ねた。
 イリーナはニコライの妻であり、政治にも深く関わっていたが、彼女はニコライと共に逮捕され、別々に裁判を受けた。判決は死刑であったが、判決が下された後にどうなったか、そこまではまだニュースで流されていなかった。
「すまない、生きているかどうか、それすらもわからないんだ」
 ニコライはディミトリーから視線を逸らし、正面の壁を凝視し始めた。
 ディミトリーの手首を握る手に、自然と力が入る。
「ディミトリー、君は神を信じるか?」
 そう問いかけ、ニコライはディミトリーの服装を見て、頭を振った。
「時間が無いのに、つまらないことを訊いた」
 ニコライが神経質に右手の親指を他の四本指にしきりに擦り合わせた。不安な気持ちを抑えようとするその癖は、少年時代から変わっていないようだ。
 ニコライはしばしベッドから立ち上がったと思えば座り、座ったと思えばまた立ち上がることを繰り返した。足は震えをごまかすかのように床を擦っている。唇は何かを言いたそうに何度も開き、閉ざされる。
 ディミトリーはニコライが話したいことを話す準備を整えるまで、辛抱強く待ち構えた。
 ようやくニコライはベッドの上に座り、大きく息を吐くと、一言一句、ゆっくりと、力を込めるように話し始めた。
「ディミトリー、君とは、村を出てから会っていない。村を出てからの話をするよりも、村に居た時の話をしよう。お互いの共通の話題が多ければ多い程、会話も広がるんだ」
 ディミトリーはニコライに微笑んだ。
「いいとも、何の話をしようか?」
「ゲオルギー氏が亡くなった時、浮浪者の葬儀もあったことを覚えているか?」
「ああ、覚えているよ。確か、ゲオルギー氏が亡くなる一ヵ月くらい前に、ふらっと村にやって来た浮浪者だろ? 村に着いた時には既に肺を患っていて、教会の軒下で亡くなった・・・。君と、僕と、牧師様との三人だけで葬儀を行った」
「そう、ゲオルギー氏の葬儀には村中の人々が参列した。遠方から汽車に乗って、やって来た人もいた。だが、あの浮浪者の、行倒れた老人の葬儀には、牧師様がゲオルギー氏の葬儀で呼びかけても、俺たち三人以外、誰も来なかった」
「・・・・・・」
「俺はあの葬儀がとても怖かった。あれから何十年も経つのに、未だに夢に見るんだ。さっきまではあんなに大勢の人がいたはずなのに、いつの間にか俺だけが一人きりで墓地にいるんだ。傍に深い穴が掘られていて、その穴の底には死んだ浮浪者が横たわっている夢なんだ。棺も無く、剥き出しの土の穴の中で、目を閉じ、口を半開きにしているんだ。
 あんなに熱心に毎週末は教会のミサに来ていた癖に、自分の知らない奴の葬儀には誰も、花の一本さえ手向けようとしない。牧師様は仕方ないと言っていた。赤の他人だから、今までどこで何をしていたのか判らないから。ゲオルギー氏のように沢山の財で村を支えてきたわけじゃないから」
 歯茎をむき出しにして話すニコライの目は血走り、瞳は此処ではない何処かを見ていた。
「誰もいなかった。俺たちが葬儀に立ち会っただけだ。あれから村を出るまで、ずっと俺は待ってたんだ。誰かが、あの浮浪者の身内なり友人なり、誰かが探しに来てくれるんじゃないかって。それなのに、いつまで経っても来やしない。
 どうして誰も来ないのか、俺は考えた。考えて、村を出る直前になって、ようやく気付いたんだ。
 あの老人は一人だった。誰からも愛されていなかった。愛した人はいただろう。でもその人たちは死んだか、いなくなったか、どちらにしろあの老人は誰からも気に留められない人間だったんだ。だから誰も探しに来なかったんだ。
 あの老人を知っている人がいないから、愛している人がいないから」
「ニコライ、あの老人は誰にも愛されてないなんてことはない」
 ニコライが現実に戻ってくる。
「あの人は主に、神に愛されていた」
 ニコライは今にも泣き出しそうな顔になった。
「神の愛なんて! 現世の人間からの愛の方がよっぽど大事だ!」
「ニコライ」
「ディミトリー、君は魂を神に捧げたからそんなことが言えるし、神の愛を信じられるんだ。だけどな、俺はいるのかもわからない存在についての本を読んでも満足できないし、そんなもので神の愛を実感できない」
 ディミトリーは思い切って立ち上がった。本来ならニコライを刺激しないよう、彼と同じ視線になるように座っているべきなのだろうが、そんなことをすればニコライはますますディミトリーを挑発するような自論を捲し立てるだろう。だがそれは激しい感情を―ディミトリーではなくニコライ自身から―引き出すだけで、疲れさせるだけだ。
「ニコライ、神の愛を信じなくてもいい」
 ディミトリーハニコライの両肩に手を置き、ゆっくりと話した。
「だが、僕だけは、君を大切な友として愛している」
「駄目だ、駄目なんだ!」
 しかしニコライの興奮は治まらず、ニコライは顔を歪め、ディミトリーの手を振り解き、立ち上がった。
「俺は君とイリーナからの愛だけじゃ足りない! もっと、この国だけじゃなく、世界中の人間からの愛がほしいんだ!」
 駄々をこねる子供のように両腕を振り回し、地団太を踏むニコライを落ち着かせようと、ディミトリーは「ニコライ、それは」と、話しかけようとしたが、今度はニコライがディミトリーの両肩を掴み、揺さぶった。
「無謀だと言いたいんだろ? だが望んで何が悪いんだ? 『愛している』と言われて嬉しいんだ。『あなたのことをとても気にかけている』と言われると嬉しいんだ。
 共に喜びを、悲しみを分かち合い、俺が死んだ時には涙を流して花を手向けてくれる人がほしいんだ!」
 ディミトリーはニコライにかける言葉を探した。だが、頭の中に浮かぶ言葉はどれも聖書や聖人の逸話ばかりだった。
「ディミトリー、ディミトリー」
 ニコライはディミトリーを睨んだ。掴まれた肩が更に痛んだ。
「君が信じる神は、こんなことで悩む俺を嗤うか? それとも可哀想にと憐れむのか?」
 突然、鍵穴に鍵が差し込まれる音が二人の間に響き渡り、ニコライは小さく悲鳴をあげたが、錆びついた扉が開かれる音にその声はかき消された。
「時間だ、出ろ」
 体格の良い兵士が戸口に立っている。横柄な口振りのヴァレリー少佐を、ディミトリーは以前から苦手に思っていた。
 ディミトリーが少佐からニコライに視線を戻すと、ニコライも少佐を見つめている。
 ニコライの身体が震えていることに気付いたディミトリーは、彼の手を握ろうとしたが、少佐はずかずかと部屋に踏み込み、乱暴にニコライの腕を掴んだ。
「ディミトリー、頼む、処刑場まで一緒についてきてくれないか」
 弱々しい声で懇願するニコライに、ディミトリーは思わず少佐に目を向けた。
「懺悔の時間は終わりだ」
「せめて、外に出るまででも」
「駄目だ」
 冷たくあしらう少佐に、ニコライは腕を振り払い、抗議した。
「何故だ? 処刑時には、望めば教誨師の同行を許されていたはずだぞ!」
 ニコライの声が徐々に大きくなる。
「同行は許可しない。教誨師や身内のその後の精神的ショックを考え、禁止された」
「そんな禁止令を、誰がいつ出したんだ!?」
 少佐はニコライを見下ろしながら、唇の端をあげた。
「一年前、あんたがその禁止令にサインしたんだ」
 ディミトリーにはニコライの後ろ姿しか見えなかった。そのため、ニコライがどんな表情をしているのか判らなかった。
「書類の山を片付けることに追われて、中身なんぞ見ていなかったのだろう?」
 少佐から追い打ちをかけられ、ニコライは掴んでいた手を離し、ふらふらと身体を揺らし始めた。
 やがてニコライの全身から、笑い声が発せられ始めた。
 ディミトリーはその類の声を何度も此処で耳にしてきていた。
 他の兵士たちがぞろぞろと部屋に入り、ニコライを無理矢理歩かせようと、ひきずるように部屋から連れ出した。
 ディミトリーはニコライの名を呼ぼうとしたが、震える咽喉からはうめき声すら出てこようとしなかった。
 兵士に囲まれたニコライの姿が少しずつ遠のいていく。
 処刑場は、ニコライが拘禁されていた部屋から正面の廊下を真っ直ぐに進んだ、突き当りの扉の向こうにあった。
 普段は閉ざされている扉が、処刑執行時は死刑囚に見せつけるかのように開かれる。
 ニコライはそれを見ているのだ。目の前に、死が、見えているのだ。
 笑い声が、外でニコライの処刑執行を待ち構える群衆の声に圧され始め、ディミトリーの耳にはニコライの声が聞こえ難くなってきた。
 ディミトリーは少しでもニコライに近付こうと一歩踏み出したが、少佐に行く手を阻まれた。
「神父、刑執行終了まで、こちらにいる規則ですよ」
 自分とは真逆の強い肉体を持つ少佐に気圧され、一瞬とはいえ、ディミトリーの中にためらいが生じてしまった。
「彼は私の親友なんだ。とても大切な友だ。近くまでで良い。何なら入口のところでも構わない」
 話される言葉の一つ一つが、焦燥感のために空々しく宙に浮かび、消えていった。
「あいつが何をしたか、神父も御存知でしょう」
「知っている。知っているが・・・」
 口の中が急に乾いてきた。
 無性に水が欲しくなった。
 僅かな唾液が気管に入り、咽そうになる。
 その時、人々の声の隙間を縫って、銃声が聞こえた。
 群衆の声は銃声を聞くなり、急速に小さくなり、遂には消えてしまった。
 少佐の肩の向こうから、誰かが走り寄る足音が聞こえた。
 足音が近づき、少佐の背中の真後ろで止まった。
 少佐は身体を半回転させ、兵士の正面を向いた。
「報告します。ニコライ・アポストルの処刑を執行、死亡を確認しました」
「ご苦労、他の者にもその旨を伝達せよ」
 兵士の足音が離れて行く。
 ディミトリーは背中を向けている少佐の脇を駆け抜け、処刑場へと走った。
 少佐に何か言われるかと思ったが、何も言われなかった。
 やがて、建物が揺れ動くような大きな歓声が轟き渡った。
 処刑場から処刑執行を終えた兵士たちが戻って来たが、神父の形相に驚いたのか、誰もディミトリーを押し留めようとせず、通路の端に寄り、道を譲った。
 ディミトリーが処刑場へと続く戸口を跨ごうとした途端、足元に何かが飛んできた。見れば、小さな石だった。
 小石は、次から次へと頭上から降って来た。処刑場を囲う壁の向こうから、人々が小石を投げ込んでいるのだ。
 ニコライは、銃痕によって元の模様がわからない程、ぼろぼろに崩れた壁の前で倒れ伏している。
 ディミトリーはニコライの名を叫ぼうとしたが、飛んできた小石が唇の端を掠めた。
 それでもディミトリーはニコライの傍へ駆け寄ろうとしたが、誰かに肩を掴まれ、奥へと引き戻されてしまった。
 振り返ると、ヴァレリー少佐だった。少佐の後ろには大勢の兵士たちが立っており、ディミトリーを無表情に見つめている。
 少佐が処刑場へと続く扉を閉めた。
 扉を閉めても、群衆の声が小さくなることは無かった。
 親友の死を喜ぶ人々の声に包まれながら、ディミトリーはひたすら誰にも聞こえない祈りの句を唱え、涙を堪えた。

あ と が き
 10年近く前に読んだ手塚治虫『アドルフに告ぐ』に触発され、二人の幼馴染が成長し、一方は聖職者として、もう一方は独裁者として時代の波にもまれる長編小説を書こうと思い立ったのです。が、お察しの通り、いつまで経っても手をつけないので、その長編小説で一番書きたかったラストシーンだけを書き出しました。
 あちこちに気が散りやすい私には短時間で書き上げられる短編小説が向いているのでしょうが(と言っても、今作は3回ぐらい推敲しているので1ヶ月は時間がかかってます)、やっぱり登場人物の心情の変化を深く描くのであれば、長編小説が最適なのでしょう。
 長編小説は、長距離マラソン選手のようにペース配分を考えないと挫折します・・・。

2018年6月2日