39.きみに読む物語

 もう声も出ない。
 そう何度も、痛む頭の中で思っていても、いざとなると、自分でも驚く程の大きな声が己の腹から咽喉を裂いて吐き出される。
 体中の水分が出たと感じても、なかなか枯れない泉のように次から次へと涙や鼻水、汗が全身を伝い、冷たい床へ落ちていく。
 身体を動かす力は今まで何処に隠れていたのか、同室の男が、暗い部屋の隅に置かれた椅子から立ち上がっただけで身じろいでしまう。
 この同室の男は一思いに死なせてくれないと気付いてはいても、それでも心の片隅ではこれが最期の苦痛であることを期待している。
 同室の男がそれまで座っていた椅子を引き摺り、目の前にやって来た。
 男は大仰な溜息を吐きながら、正面に椅子を据え、それに再び腰掛けた。
「自分が何故、此処に居るか、解っているか?」
男が尋ねるが、どうやって此処に連れて来られたのかさえ思い出せない。
 仕方なく、頭を左右に振る。男の表情が更に険しくなった。
 男は立ち上がり、ドアの脇に据えつけられていた旧式電話のダイヤルを回し始めた。
 男がしばらく受話器を耳に当てていると、やがて相手が出たらしく、小声で何かを話し始めた。
 相手が何を言っているかまでは聞き取れないが、大声で怒鳴り散らしていることだけは、同室の男の様子から見て取れた。
 やがて男は受話器を置き、振り返るなりこう言った。
「本当に解らないのか?」
 問い詰めるような口調に対し、「わからない、わからない」と答えるしかなかった。
  また涙が出てきた。
 まるで子供だと自分でも思ったが、この部屋に閉じ込められ、椅子に縛り付けられた身である以上、同室の男にとっては子供であることになんら変わりはない。
「悪いことをしたのなら謝る。許したくないだろうが、本当に、謝る。もうこれ以上悪事なんてやらない、誓うから!だから殺してくれぇえ・・・っ」
 身体を起こしていることさえ、ままならなくなってきた。呼吸を繰り返す度に、その僅かな身体の動きのせいで傷口が苦痛という名の自己主張を行うからだ。
 同室の男は黙ってこちらを見ている。
「頼む、理由を教えてくれ!何故此処に居て、こんな苦しみを味わわなきゃならないんだ!?」
 男はうんざりしたような表情で、
「何故理由を 知りたがるんだ?」
と、逆に問い返してきた。
「理由が判らなければ、不安じゃないか・・・」
 先程大声を出したせいか、咽喉の奥が痛い。
「知ったところでどうするんだ?此処から脱出できると思っているのか?」
「抜け出せるかどうかなんて判らない。それでも此処にいる理由を知れば、自分の中では諦めもつく」
 段々声が小さくなっていく。
 この言葉は口の中から出たのか、それとも同室の男の問いに答えているつもりで、実際は頭の中で喋っているのか。もはやそれさえも判別がつかなくなってきた。
「此処に居る理由を話したとして、それが真実であるとどうして言い切れる?」
 男は嘲りに満ちた笑みを浮かべた。
 どう答えを返せば好いのか?
 正解などあるはずもない。それなのに、切れた口の端から錆びた鉄の味がする唾液を垂れ流しながら、同室の男の皮肉に答えようとしている。
「頼む、教えてくれ・・・。それとも教えないことが罰なのか?」
 音を上げると、同室の男は呆れた様な溜息を吐いた。
「今から話すことが真実か虚実か、それを判断するのはお前だ」
 返り血と汗で汚れ、硬くなったワイシャツの胸ポケットから、男は小さな手帳を取り出した。

 後ろを振り返る。
 阿呆のように口を開け、空を見つめている。
 直後に視線がこちらを向いたかと思いきや、口の形が大きく歪んだ。
 椅子に拘束された人間の喚き声を耳にしたくはないので、即座に扉を閉める。
 何故彼らは己が拘束されている理由を知りたがるのか。
 男は頭を振った。
 その疑問の答えを推測しようとする労力が惜しい。
 男は細長い廊下を歩き始めた。
 不規則に並んだ扉の一つから、男と瓜二つの男が出てきた。
 相手を労う意味の言葉を交わす。
 瓜二つの男が出てきた部屋から罵倒の言葉が溢れ出た。
 部屋から出てきた男は、
「真実か虚実かを判断するのはお前だと、言った筈だ」
と、煩そうに怒鳴った。
「どいつもこいつも・・・。理由を知った途端に“元気”になりやがって」
 瓜二つの男が呟くと、男はそのぼやきに応えた。
「仕方がないさ、この物語をどう“判断”するかは、俺たちが決めることじゃない。あいつらの“判断”に委ねられているのだからな」
 二人は顔を見合わせ、笑った。

あ と が き
 真相は読者・観客の推測に任せるというやり方をやってみました。
 やってみたら、書いている自分自身が真相を知りたがっていることに気付きました。
 ムズムズする・・・。

2014年12月7日