34.モンスター
自動ドアが左右に開くと、今時珍しい、消毒薬のにおいが鼻を突いた。
真新しい外観とは裏腹に、内装は一昔前と変わらないようだった。色褪せた合皮の長椅子が幾つも並び、老いた身体を丸めながら座る姿があちこちにあった。
妙に薄暗い病院内では、私が持つ花束の鮮やかな色が場違いに思えてきた。
入院病棟への行き方を病院内の案内図で確認していると、受付のデスクに座っていた中年女性職員が私の傍にやって来た。
「お見舞いですか?」
口元は笑っているが、目の奥では私を警戒しているように見えた。
「ええ、そうです。でも部屋の番号は知っているので」
私はそう言い繕って、その場を急いで離れた。
あの中年女性職員にまだ見られている気がして、私は受付ホール内の一角にあるエレベーターではなく、
やや奥まった場所にある階段を上って行くことにした。
二階に上がると正面には、左右へと続く廊下を指し示した矢印と共に部屋番号が書かれた、
小さなプレートが壁に掛けられていた。
私は損害保険会社の担当者から無理矢理聞き出した部屋番号を再度思い出し、右へ曲がった。
廊下を半分ほど行くと、目指す番号の部屋があった。引き戸の脇に掛けられた番号プレートの下には、入院患者の名前が書かれた紙が一枚だけ入れられていた。
引き戸には細長い擂りガラスが埋め込まれていたが、部屋の中に誰かいるのかは判らなかった。
私が引き戸をノックすると、自宅のインターホンのような音が鳴り渡り、直後に医師の名を呼ぶアナウンスが流れた。
部屋の中から返事を得たと思った私は、引き戸の取っ手に手を掛け、ゆっくりと動かした。
少しずつ引き戸が開くにつれ、部屋の中が晒された。
その部屋は小さいながらも個室らしく、大きなベッドが一つ、部屋の中央に置かれていた。
手前には簡素な造りの洗面台があり、その隣には背の低い小さな戸棚があった。
ベッドの上には一人の少女が座っており、ベッドの幅よりもやや大きめに作られた細長いベッドテーブルの上に覆いかぶさって、何やら作業をしていた。
暫く戸口に立って逡巡していると、少女は私の存在に気付いたらしく、顔を上げた。
伸びた前髪の間から戸惑った目で見つめられ、私は、
「阿部と申します。この度の事故で車を運転していた者です」
と、何度も練習した台詞を早口で喋った。
少女は合点したらしく、「ああ」と納得の声を小さく漏らした。
私は一歩、部屋に踏み込み、花束を差し出して、
「あの、せめての気持ちですが」
咄嗟に“気持ち”という言葉が出たが、一体どんな“気持ち”を込めてこの花束を買ったのか。私は急に混乱してしまい、後の言葉が続かなくなった。
少女は私の気持ちを知ってか知らずか、
「戸棚の中に花瓶が入っているので、それに入れてもらえますか?」
と言った。
私は激しく頷き、少女に言われたとおりに戸棚から透明な青色の花瓶を取り出し、花束を包んでいたセロハンをはがし、花瓶に入れた。
「とても綺麗な花ですね。有難うございます」
少女は戸棚の上に置いた花瓶に活けられた花を見て言った。
セロハンをゴミ箱に入れながら横目で少女の様子を窺うと、その目は能面のように虚ろだった。
花への感想もお世辞だったのかもしれない。
私はその能面の表情から視線を逸らし、床に手をついた。
「こ、こんな突然押しかけて申し訳ない!あなたの!こちらのせいで、あなたの身体にとんでもない仕打ちをしてしまって、許してくれとは言いません!本当に申し訳ない!」
謝罪の気持ちが先行し、あれ程繰り返した言葉の並びが崩れた。
土下座をする私に、少女は頭上から声をかけた。
「あの、土下座なんてしないで下さい」
困惑した声だった。この身の不自由さへの怒りを本当は思い切りぶつけたかったのかも知れない。
それなのに私は卑怯にもその怒りの矛先を向けられたくないがために謝罪の言葉や行動を事前に考えた上で土下座をしている。
その浅ましい心に私は今更ながらに気付いてしまい、自己嫌悪に陥った口から発せられる言葉はますます支離滅裂なものになっていった。
「一生かけて償います!命令してください!全財産を処分します!どんなことでも命令してください!」
「お願いですから、土下座は止めてください」
少女の声と共に何かが落ちてきて、私の頭や首筋に当たった。
瞑っていた目を開けると、400字詰めの原稿用紙が床の上に散らばっていた。
「あぁあ・・・」
少女が無念そうな声をあげ、ベッドの上から両手を床に差し伸ばすが、不用意に身体を倒すことにはまだ躊躇いが生じるようだった。
私は急いで原稿用紙を拾った。
見上げると、少女は今にも泣きそうな表情でこちらを見下ろしていた。
「あの、椅子がありますので、どうぞ・・・」
私が少女に原稿用紙を渡すと、少女は涙で濡れた目元を手の甲で拭うと、黙って原稿用紙を受け取った。
私は惨めな気持ちに溺れそうになりながらよろよろと立ち上がり、病室の片隅に置かれていた椅子を引き寄せると、腰を下した。
机の上には字が書き込まれた原稿用紙が何枚かあった。ところどころ訂正の印なのか、書き込まれた字の上に二重線が引かれており、
その隣の細い余白には升目に書かれた字よりも更に細かい字が狭苦しく並んでいた。
少女は私が渡した原稿用紙と、机の上にあったものをまとめ、角を揃えた。
私の視線は少女の手の動きを追っていたが、ふと少女の腰元を覆っている布団が目に入り、私は視線を更に下、己の膝の上に乗せた手の甲に移した。
「阿部さん」
少女の声が私の耳を撫でた。
「私、阿部さんにお会いして、直接言いたかったことがあるんです」
口の中も喉の奥も渇き、僅かな唾液を飲み込もうものならむせ返りそうだった。
「今から話すことは全て私の本心です。この先、私の家族や友人が阿部さんに酷いことを言っても、それは私の気持ちではないことを忘れないで下さい」
少女はそう言って、少し黙った。
「私、阿部さんに感謝しているんです」
「は?」
思わず間抜けな声を発してしまった口を、私は慌てて抑えた。
私の反応が面白かったのか、少女は小さく笑い声を立てた。
「私、小さい頃から小説家になることを目指していて、ずっと小説を書いてきました。此処へ来る前、戦争小説を書いていたんです。その小説の主人公は戦車に乗っていて、
敵兵から爆撃を受けたせいで戦車がひっくり返り、両脚が戦車の下敷きになるシーンがあるんです。
主人公の苦痛を如何に描き表すか、事故に遭う一ヶ月前からずっと悩んでいたんです。でもね」
ふいに少女の手が視界に入ったかと思いきや、少女は私の手を握った。
顔を上げると、少女はとても嬉しそうな表情で私を見つめ返している。
「今は主人公の気持ちを理解した文章が書ける。
目の前に自分の身体よりもはるかに大きいものが迫ってきた時の恐怖。足を潰された時の激痛。目覚めた時の衝撃。
両脚を自由自在に使える人への憧れ。
五体満足の身体で書いていては解らなかった気持ちが、両脚を失った今の私なら真に迫った表現を生み出せる。
そう思ったら、私、阿部さんへの恨みなんて!」
言葉を発そうにも私の唇は震え、舌はもつれた。
「周りの人は、私のこの感動を事故のショックのせいにしていたけれど、阿部さんは私の気持ちが
本当であること、信じてくれますよね?」
これが彼女なりの復讐であったのか。しかし、私に同意を求める少女からは全くと言ってよい程、邪気が感じられなかった。
私が運転を誤ったがゆえに両脚を切断しなければならなかったのに、当の少女の中では怒りどころか、真逆の感情に満たされてしまっている。
自己満足な謝罪をすることで赦しを得ようとしていた私は、己の魂を、人間性もろとも少女に引き渡した。
「信じます」
腹に無理矢理力を込めて言ったつもりだったが、実際には掠れた声しか出なかった。
少女は歓喜し、叫んだ。
「嬉しい!阿部さん、本当に有難うございます!」
私は満面の笑みを浮かべる少女の手を振り解き、直ちに病室から逃げ出した。
病室の引き戸を開けたことまでは覚えているが、それから家に辿り着くまでの間のことは記憶に無かった。
以来、私は外に出ることを止めてしまった。
新聞も断り、テレビも捨てた。
ただ只管、外からの情報を拒んだ。
私は怖くて堪らない。
いつか、あの少女が車椅子の新人作家として世間に広くその名を知られる日が来ることが。
あの底意の無い目で誇らしげに己の不幸を喜びとして語る狂態を、再び見聞きしてしまうことを私はとても恐れている。
あ と が き
以前小説書きに100の質問で答えた、古典作品芥川龍之介「地獄変」を現代版に解釈した作品です。
原作の通りの展開をするには無理があるので、作家が持つ“実体験の強み”に重きを置いてます。
2016年6月12日