09.HOTEL
毎朝8時からは、「おはようございます」「いってらっしゃいませ」。
11時からは「こんにちは、いらっしゃいませ」。
チェックインが始まる15時からは「いらっしゃいませ」「こんばんは」。
18時以降は「こんばんは」のみ。
従業員の画一された挨拶の他に、各部署での挨拶がこれに加わる。例えばドアマンには「荷物をお持ちしましょうか?
ドアマンが動ける範囲はホテル正面出入り口であるドアを中心に、入って10メートル奥にあるフロントデスクと、正面玄関から20メートル程離れたところにあるタクシー乗り場までであった。
ホテルに来る者・去る者のためにドアを開け、客の荷物を持ってフロントデスクまで同行し、客のためにタクシーを呼ぶのがドアマンの主な仕事であった。
たったそれだけ。
客に対して愛想よく振る舞い、見るからに貧しい身なりをしている者に対してはさりげなくその動きを警戒し、時には追い払うことも含まれている。しかしドアマンとして働く青年には己の仕事に対して「たったそれだけ」という卑屈な想いしかなかった。
世間から見ても、客から見ても、他のホテル従業員から見ても、彼らはドアマンの仕事を“たったそれだけ”と見ているに違いないと青年は思っていた。時折、横柄な態度をとる客に辟易したと愚痴をこぼすフロントデスク担当者もいたが、ドアマンの青年にまでそのような態度をとる者はいなかった。
ドアマンは居ても居なくても構わない。
自動ドアか、手動ドアの違い程度の存在に、わざわざがなり立てる者はいなかった。正に路傍の石同様であった。
ピーク時は客がひっきりなしに来るので、流れ作業のように客をさばいているが、客の流れが緩やかになると、ドアマン青年は道路を挟んで向かいに立つホテルを見る。
向かいのホテルは玄関先が表通りからやや奥まったところにあったが、こちらのホテルと同じ様にドアマンも立っていた。
自分と同じドアマンで、しかもシフトも同じらしく、青年が立っている間は向かいのドアマンも立っていた。しかし、二階部分の庇の下にいるため、相手の顔立ちはよく見えなかった。
やや暗がりの中、向かいのドアマンは立っていた。帽子を被っているので髪の色もわからない。実際は体格が似ているだけの人が二人いるだけなのかもしれない。相手の細かな顔立ちが見える程、青年の視力はよくなかった。
時折、相手が日の下に出て来ることもあったが、その場合はすぐに車がやってくるので、何も見えないことに変わりはなかった。
同僚である老人ドアマンに向かいのドアマンについて訊ねる機会はいくらでもあったが、仕事中に向かいを気にするくらいなら客の顔を覚えろと言われそうで、訊ねる気力がわかなかった。老人は己の職にプライドを持っているようだったが、青年の無気力な態度には反感を感じているようだった。
それでも同じドアマンであるので、青年は知らずいつの頃からか、向かいの同業者を意識するようになっていた。
酷暑であろうと、厳寒であろうと、快晴であろうと、雷雨であろうと、ドアマン青年は常に立っていた。
同じように向かいのドアマンも立っていた。涼し気に、強い風を受けることも無く。
相手のドアマンもこちらを見ているのか、よく顔の向きがこちらを向いていることがあったが、自分と同じように視線を正面に向けているのか、それとも空を見つめているのか、わからなかった。
名前どころか顔も性別も定かでない向かいのドアマンに、青年はいつしか心惹かれるようになっていた。それは恋愛感情ではなく、同業者としての興味であり、くるくると入れ替わる景色の中で唯一変わらずに存在する、強い信頼感から来るものだった。
同じ時間に立ち、同じ時間に交代し、恐らく同じ時間に帰っているのだろう。
しかし、近隣のホテルのシフト交代の時間は共通しており、誰が件のドアマンなのかは判らなかった。
だからこそ、ある日いつものようにホテル正面出入り口の前に立って、向かいにいるはずのドアマンの姿が無いことに気付いた時、彼は己でも驚く程狼狽えてしまった。
遅刻なのか、それとも体調不良で休んでいるのか。もしかすると緊急事態に巻き込まれているのかもしれない。
向かいのドアマンとて一人の人間であるのだから、絶対的不動の存在ではないと頭ではわかっていても、現在起きていることを受け入れるのは容易なことではなかった。
仕事をすればいくらか気は紛れるが、あいにく朝の出立時間のピークまで間があった。
常に居た人が居ない。いつも見ている絵の中から一つの要素が抜け落ちてしまったかのような違和感は、彼をひどく不安にさせた。
「すいません」
不意に声をかけられ、彼の両肩は激しく飛び上がった。
「写真を一枚、撮ってもいいですか?」
目の前には旅行者らしい大きなリュックを背負った若い男が立っていた。衣服も靴も長く使われているせいか、見るからにくたびれており、周辺の土地をうろうろするには相応しくないように思えた。しかし黒い髪は綺麗に整えられており、髭も剃ってある。長期旅行者にしては妙に肌艶もよく、日焼けもしていない。
青年が働くホテルは老舗であり、従業員が着ている制服のデザインも創業当初から変わらないとあって、時折観光客から写真を求められることがあった。
「ええ、まあ・・・」
曖昧な態度で了承すると、若者はにっこり笑い、気安く彼の肩に腕を回し、持っていたスマートフォンで二人並んだ写真を撮った。
一瞬の出来事だったので怒ることも出来ずに呆然とする青年をよそに、若者は「お宅の目の色、茶色だったんだな」と言った。
「え?」
「俺、ずっと向かいに立ってたんだけど、まあ、この距離だし、制服を着ていないからわからないか」
若者の灰色の目がこちらを向いている。
「俺、目標の金が貯まったから、ドアマンの仕事を辞めたんだよ。それでこの街を離れる前に、記念にあんたとの写真を撮っておきたかったんだ」
やや高い声が青年の耳に流れ込むが、話しの内容に理解が追い付かなかった。
「ああ、もちろん悪用するつもりなんてないから。ま、誰かに見せることはあると思うけど、ネットにアップしないし」
「どうして写真を?」
「どうしてって」
相手は気恥ずかしそうに笑い、
「自分と同じ仕事をしているから、勝手に仲間みたいに思ってたんだ。それにあのホテルにはこっちと違ってドアマンは俺一人だけだったから」
ロビーの方から誰かがやってくる影が見えた。
「じゃあな、初対面なのに馴れ馴れしくしてごめんな」
若者が客待ちをしていたタクシーに乗り込むと同時に玄関ドアが開き、青年が出てきた客に挨拶し終えた時には、若者を乗せたタクシーはどこにもいなかった。
それ以降、向かいのホテルにドアマンはいなくなり、クリスマスの時期だけアルバイトのドアマンが立つようになった。
くるくると変わる景色の要素が、一つ増えた気がした。
あ と が き
会社勤めしている時に思いついた話しです。
内勤だったので会社の外に出るような仕事は限られていた上に、会社の窓から見える景色の変化が乏しく、晴れた日は外に出たくて仕方なかったです。
いつも見かけるあの人はどんな人なのかと妄想できるような、そんないつも見かける人はいませんでした。
2020年5月29日