花を売る女
島の夜は暑かった。
高温多湿な国で生まれ育った友人は島に降り立った時に過ごしやすい暑さだと言っていたが、夏でも20度前後の日が多い土地で生まれ育った男にとって、この島の暑さは身に堪えた。その暑い空気を天井に据え付けられたプロペラが撹拌していたが、男にとっては涼しくなるどころか、余計に暑さを感じさせ、汗で湿ったシーツが彼の身体を苛んだ。太陽はとっくに地球の裏側の大地を照らしている時間であるにも関わらず、夜の空気はその勢いを抑えることは出来ないようだった。
男が右隣に目を向けると、一人の女がこちらに背を向けて眠っていた。身に纏った白いシーツと女の黒い肌の相対性は美しく、どちらの色も夜の空気の中で己の美しさを誇示していたが、ちっとも嫌味を感じさせない程芸術的であった。
男は再び天井に視線を戻した。
プロペラが相変わらず気だるげに回転している。
暫く眺めていると、それぞれのプロペラの羽根が目の前の羽根を延々と追いかけているように見えてきた。その規則的な動きは男に僅かながらも眠気をもたらしたが、肌にねばりつくような不快な暑さが男の緩やかな眠りへの道を阻んだ。
男はその二者の闘いに付き合うことを諦め、大きな溜息を一つ吐くと、ベッドから身を起こした。
その時、外からの風に突かれ、クラゲのように揺れている白いレースカーテンの裾が男の顔を撫でた。
人の声が聞こえた。物売りでもいるのか、時折僅かに大きく声が聞こえることもあるが、未だに多くの人々が行き交う大通りの雑踏にその声は掻き消されてしまっていた。
風で膨らんだレースカーテンの裾を潜り、窓枠に手を掛けると、細い裏通りが下に見えた。建物の間に挟まれ、裏通りは空よりも暗い色に満ちていたが、かろうじて人影の輪郭は認識出来た。
光華やいだ大通りがある左手から人影が一つ、歩いて来た。
すると、男が居る部屋の下から花を売る声が聞こえた。大通りからやって来た人影は花売りの声にほんの一時、歩む足を止めたが、直ぐに歩き始めた。
男が窓から身を乗り出すと、男が居る部屋の斜め向かいにある建物の影に隠れるかのように花売りが建物に身を寄りかからせながら立っていた。
花売りの姿をよく見ようと男が目を凝らしていると、背後から、
「何か面白いものでも見える?」
と、声を掛けられた。
レースカーテンを開けると、暗闇の中で紅を塗った唇が動いていた。先程まで眠っていた黒肌の女が肘を付きながら、ベッドの上からこちらを眺めていたのだ。外からの僅かな明かりの中、女の肉体の形をした闇が横たわっているように見えた。
「花売りが立っているのさ」
男はそう答え、視線を眼下の花売りに戻した。
「ああ、いつもいる“醜人(しゅうじん)”の女ね?」
黒肌の女の奇妙な言葉に突かれ、男は瞬時に振り向いた。
「何だって?」
男が問い返すと、黒肌の女は、
「“醜人”。副業が許されているのは“醜人”だけだからね」
と、答えた。
「いや、そうじゃなくて。何故花売りを“醜人”と呼ぶんだい?」
「手足が片方無いからよ」
黒肌の女の言葉に男は花売りはまだ立っているかと身を乗り出し、周囲の音を必死に拾おうとするも、大通りの騒めきや周囲の部屋から漏れ聞こえる嬌声に邪魔をされ、花売りの声は聞こえなかった。
「その花売りの女のこと、よく知っているのかい?」
男は尚も花売りの姿を探そうと、裏通りの中、視線を彷徨わせながら訊ねた。
「さあ?あの“醜人”が此処へ来る時は、大抵、私も仕事中だから」
返ってきた女の答えに、男はそれ以上花売りの姿を探すことを諦め、再びベッドの上に身を横たえた。
黒肌の女の手が、そっと男の裸の腹に乗せられた。
*****
「島に行こう」
男と友人のどちらが先に言い出したのか、共に酔っていたため今となっては思い出せない。ただ、その島の情報を先に出したのは友人の方であったことだけは、はっきりと覚えていた。
代わり映えのしない毎日を送り、つまらぬ仕事へ時間を捧げて給料を得る。
そんな日々に耐え続け、ようやく得たバカンス休暇で男と友人は南の国を訪れた。生暖かい風が人々の汗の臭いを運び、味の濃さに比例するかのように強い匂いを漂わせる食べ物に囲まれ、男と友人は露店が立ち並ぶストリートの一角で、世界的に有名な炭酸飲料メーカーのロゴが入ったパラソルの下で飲み食いを交わしていた。
友人は酒の臭いを吐きながら、この国には珍しい島があると男に耳打ちした。
友人が男に聞かせた内容は、売春業で成り立っている、美人揃いの島があるというものだった。
男はそれを聞いても特に驚かなかった。男と友人が訪れていたその南の国は経済的に厳しく、夜の繁華街のいたるところで肌を露出させた人々が屯し、
通りゆく観光客や信号で停止している車に近寄っては、何やら囁く光景が当たり前のように繰り広げられていたからだ。小さな島であれば余程の観光資源が無い限り、生活は都会の住民と比べて遥かに厳しいのだろうと、豊かな先進国に暮らしている男は推測した。
友人は男の反応の薄さに苛立ったようだったが、更に続けた。
その島はこの南の国の近くにあり、政治上はとある国が領有しており、領有権を持つ国の財政界の人間が利用することを条件に独自の自治権を与えられているという。
ある国とは一体何処の国かと問うと、友人はたちまち得意気な顔になり、某国の名を挙げた。
男は友人の答えに、冗談だろうと一蹴した。友人が口にしたその国は、とても一つの島全体での売春業を認可するとは思えない程、堅苦しい国民性で知られている国であったからだ。
ところが冗談ではないのだと友人は男の反応を楽しんでいるらしく、更に満面の笑みを浮かべながらそう言った。
そんな秘密クラブめいた島に一般人が容易く入れるものなのかと疑問をぶつけると、友人は、島外からの人間が入島する際にはネックレスを外すだけで簡単に入れてくれると言った。
売春業を行っている島民は、目印として各自ネックレスを身に着けている。相手の首元を見れば、“営業中”の島民かどうかが判る仕組みになっているのだ。金色の鎖のネックレスを身に着けていれば男性客を、銀色であれば女性客を相手にしているという意味があるらしい。
友人の誇らしげな顔を見ている内に、男の視界は安酒による酔いで揺れ始めた。
どちらからともなく、噂の真相を確かめようということになった。
噂は本当だった。
船上から一見する限りはただの島のように見えたが、その島に降り立った時に飛び込んできた光景は、男の国の言葉や、男が初めて見る様な言語など、何種類もの言語が書かれた看板がひしめき合う大通りだった。
行き交う人々の服装もまちまちで、男が暮らす国では奇抜と思われるような服装であっても、ここではその服装を当たり前のものにすぎないのか、誰も気にしていないようだった。
辺鄙な孤島とは思えぬ程、国際色豊かな場所だった。
ネックレスを身に着けている者が多かったが、男と友人が乗ってきた船にも
既にネックレスを身に着けていた者も乗り合わせていたので、実際のところ、本当の島民であるかどうかは判らなかった。
友人は、ホテルや安宿ではなく自前の部屋を持っている人間が島民に違いないと鼻息荒く言い、丁度通りかかったカフェの店先に居た、シルバーのネックレスを着けていた店主に島民を紹介してくれないか交渉した。
口達者な友人に交渉を任せた結果、見事に本当の“島民”が見つかった。
*****
翌日、遠くから聞こえる鐘の音に男はようやく起き出した。
黒肌の女はベッドの端に腰かけ、ガーターベルトを着けていた。
「おはよう、今夜はどうする?」
黒肌の女が振り返りもせずに訊ねる。
「今、何時なんだ?」
男が汗ばんだ身体をシーツで拭いながら訊ねると、
「午後3時よ。島を出るなら、一時間後の便が最終便だから遅れないようにね」
と、女が答えた。
「もう、そんな時間なのか」
男のぼやきを他所に、黒肌の女は身支度を整えていく。
「お連れさんは今夜も泊まるそうだけれど、あなたはどうする?」
黒肌の女が金色のネックレスを着けながら訊ねた。
男は、隣室の女と過ごしているであろう友人と同様、今夜もこの黒肌の女の部屋に泊まろうかと考えたが、その時、開かれていた窓から昨晩の花売りの声が聞こえた。
「少し、この辺りを歩いてくる。部屋には戻るから、荷物はそのまま置いて行ってもいいか?」
「延長って形になるけれど、好いかしら?」
男が頷くと、女は身に着けていた金色のネックレスを外した。
男は一時間ほど大通りを歩き、女の部屋があるアパートメント脇の裏通りの前で立ち止まった。
男は短く息を吐くと、薄暗い裏通りに足を踏み入れた。
「花は如何?」
左手から声を掛けられた男がそちらに顔を向けると、真っ白い花を入れた籠を右腕で抱えた女が壁に寄りかかりながら立っていた。薄暗い路地の中、建物の影に隠れるように立ち、やや気だるげな黒い眼がこちらを向いていた。
花を見る振りをしつつ、男はその女の外見に視線を走らせたが、女は右袖が無い、長袖のワン・ショルダー・シャツと、踝まであるロング・スカートを着ていたため、黒肌の女が話していた手足の有無は一見すると判らなかったが、
太いヘアゴムで軽く結わえた赤色の髪房の横、女の白い首元にはゴールドとシルバーのネックレスがあった。
「その花はなんて言う名前なんだい?」
男が訊ねると、女は、
「――」
女が答えるが、花の知識が乏しい男にとってその見慣れぬ花が自国の言葉ではどのように訳されているものなのか、全く見当がつかなかった。
「1本2ドルよ」
女はそう言って、籠を一度足元に置いてから花を一本取り出し、男に差し出した。
女の手の動きを注視していた男はややためらった後、その花を受け取り、女に金を支払った。
女は花を渡した右手で小銭を受け取り、腰に着けたポーチのチャックを開け、その中に放り込んだ。ポーチの中に居た硬貨が新たに加わった仲間とぶつかり合い、その音が狭い路地の中に妙に響いた。
男がまだ言いあぐねて突っ立っていると、女はまだ何本か欲しいのかと訊ねた。
「いや、その、俺は今日、そうさっき、この島に来たばかりで、まだ泊まる場所が決まっていない。今から宿を探すのは大変なので、どこか好い宿があれば紹介してくれないか?」
と訊ねた。此処へ来るまでの一時間の間に考えた、男なりの精一杯の文句だった。男の友人が今の姿を見たら大笑いしたことだろう。しかし商売柄、この手のやり取りは慣れているのか、女は笑うことも男の嘘に付き合って同情する様も見せず、
「一泊20ドルなら泊めてあげられるわ。スカトロと道具を使ったプレイはお断り」
と、淡々とした口調で答えた。
「わかった。50ドル出すから、今夜の夕食は君が用意してくれ」
「食べられないものはある?」
「いや、無い」
男が勢いよく言うと、女はようやく笑顔を見せた。
女は男との契約が成立すると足元に置いていた籠を持ち上げて右肩に掛けると、壁に立てかけてあった松葉杖を右脇に挟み、歩き始めた。
ふと、男は黒肌の女が居る部屋のあたりを見上げてみたが、窓辺に立つ影は無かった。
一歩遅れて彼女の後を歩き始めようとした時、狭い裏通りの中を涼しい風が吹き流れ、前を歩く女の左袖が風に煽られた。男は見てはいけないものを見てしまったような罪悪感に一瞬ではあるが囚われた。
女は松葉杖を突き、身体を右側に傾け、その僅かな間に左脚で地面を軽く蹴るようにしながら歩いていく。身体を左右に大きく動かしながら歩くため、歩幅は小さかったが、女はその歩き方に慣れているのか、歩く速さは男の普段のそれよりもやや速かった。
時折女の松葉杖が緩んだタイルに当たり、その度に女の身体は危なげに傾いたが、女は転ぶこともなく歩き続けた。
狭い路地をしばらく歩き続けると、大通りよりもやや狭い道に出た。大通りの喧騒も此処までは聞こえず、坂の上から自転車に乗った郵便配達人が下ってきただけで、人の姿は他になかった。夕日の陽光が、道路を挟んで立ち並ぶクリーム色の家々の壁をオレンジに染めている。
女は路地を抜けると立ち止まり、男がついてきているかどうかを確認するかのように振り返った。
女と目が合った男は立ち止まったが、女は特に何も言わずにオレンジ色に染まった家々の通りを下り始めた。
やがて女は赤色に塗られたドアの前に立ち止まった。
女は松葉杖をドアの脇に立てかけると、片足で立ちながら、ポーチから鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだ。鍵を回すと、ドアの錠が外れる小さな音が聞こえた。
女は身体でドアを開け、さっさと中に入る。そして振り返って言った。
「どうぞ」
そこは西日が差し込む部屋だった。
男が一歩足を踏み入れると、花の匂いが男の鼻腔を刺激した。正面の窓から覗く夕日に目を眩ませながら左手を見ると、キッチンがあり、その奥にはバスルームがあった。キッチンの向かいには二人並んで眠れるようなサイズのベッドが鎮座しており、その傍には申し訳なさそうに鏡台があり、女が持っていた籠がその上に置かれた。
黒肌の女の部屋と違い、ポスター類も無く、飾り気の無い質素な部屋だった。
蒸し暑くなっていた部屋の窓を女が開けると、わずかに空気が澄んだ。と、同時に、先程よりも強い花の匂いが漂ってきた。
オレンジ色の光の向こうには女が売っていた白い花が、狭い庭に一面に咲いていたのだった。
「ねえ」
男が声を掛けられた方へ振り向くと、いつの間にか女が冷蔵庫の扉に手を掛けながら、冷蔵庫に頭を突っ込んでいた。
「ビールしか無いけれど、それでも好いかしら?」
「ああ、もちろん」
男が答えると、女は冷蔵庫の扉から手を離し、ビール缶に手を伸ばした。一本の脚で身体を冷蔵庫に寄りかからせている女の肩に扉が当たったので、男は冷蔵庫に歩み寄り、扉を彼女の身体から離した。
すると女は男に「ありがとう、でも気にしないで」と微笑み、冷蔵庫の中からビール缶を一本取り出した。
女はビール缶を調理台の上に置き、冷蔵庫から更に何かを取り出そうとしていたので、男は「手伝うよ」と声を掛けた。
しかし女は何も応えず、冷やされたコップを取り出し、ビール缶の隣に並べた。
更に女は冷蔵庫の中から小さな鍋と、小さくカットされたパンが入った袋、更にスープ皿を取り出し、次々と調理台の上に並べた。
男が手持無沙汰に立っていると、今度は女がシンクの下に置かれた椅子を右手で引き出そうとしていたので、男が代わりにやろうと椅子に手を掛けると、女の右手が男の手首を掴んだ。
女は俯いているため、女がどんな表情をしているか、男には判らなかった。
女の不安定な身体が男の手首にのしかかる。男が椅子から手を離すと、女の手も離れた。
男が、女が引き出した、背もたれのないその椅子に座ると、女ももう一つ同じ椅子を引き出し、小さな座面に腰を下ろした。
女はビール缶のプルトップに指をかけ、片手で器用に開けた。冷やされた二つのコップに黄金色の液体が注がれる。
女がグラスを持つ。男もグラスを持ち、女のグラスと重ねた。鈴のような心地よい音色が響いた。
男はビールを一気に煽ったが、男の舌先には苦味だけしか感じられなかった。
空になったグラスを叩き付けるように置くと、女は缶に入っていた残りの分を男のグラスに追加した。
男は、今度はゆっくり飲んだが、やはり苦味は消えなかった。女も男に合わせるように飲んでいる。
「名前は?」
沈黙に耐え切れずに男は訊いてしまったが、女が答えようと口を開けた時、男は、「いや、やっぱり言わなくていい」
と女を遮った。女の名前を知ったところで何になるというのか、そんな疑問が男の背中を突(つつ)いたからだ。
再び沈黙が二人の間に居座った。
女が鍋の蓋を開けると、中身はトマトスープだった。
女はレードルでそのスープを掬うと、スープ皿に流し込む。空気に触れたトマトの匂いの隙間から、あの白い花の香りがその存在を強調していた。
「結構、匂うんだな」
男の呟きに、女は不思議そうな顔をこちらに向けた。
「あ、いや、花の匂いが随分と強いんだなあと思って」
男があわてたように言うと、女は「窓を閉めましょうか?」と言った。
「そこまでする程じゃないよ、むしろこの匂いは好きだから」
男がなおもしどろもどろになりながら言うと、女は安心したような笑みを見せ、
「ありがとう、私もこの花の匂いは好きなの」
と、まるで己を褒められたかのように、はにかんだ笑みで礼を言った。
「どれくらい前から育てているんだい?」
男が訊ねると、
「私がこの部屋に来た時には、既にあの花がそこの庭一面に咲いていたわ」
「手入れは大変じゃないのか?」
そう訊ねて、男は内心で己の迂闊さを呪った。受け取りようによっては女の身体の“不便さ”を指している言葉を使ってしまったからだ。
女は男の焦りを知ってか知らずか、気にすることなく、
「ルームメイトによれば、あの花は初心者向けらしいから、そこそこの手入れで十分なの」
と答えた。
女はパンの袋を軽く揺らし、小さくカットされたパンをスープ皿に入れた。スプーンが食器に当たる音と、咀嚼音が絡み合う。
「君のルームメイトは、今日は帰ってこないのか?」
部屋を見る限り、ベッドは一つしかない。
「ルームメイトは死んだわ」
女の素気ない答えに男は咽そうになったが、荒れる喉の奥をビールで抑え込んだ。
「すまない、不躾に質問して」
「気にしないで。彼女が亡くなったのは、もう何年も前のことだから」
男はスープ皿に視線を落とす。スープは残り僅かになっていた。
「あの、おかわり出来る分、鍋にあるかな?」
男がおずおずと訊ねると、女は、
「ええ、勿論。味は気に入った?」
「あ、ああ。とっても美味しいよ」
「それは好かったわ」
女がにこやかに笑い、鍋の取っ手を掴み、鍋に残っていたスープを男の皿に軽々と流し込んだ。
「ルームメイトはどんな人だったか、訊いても好いか?」
女との間を持たせようと男がなるべく自然な素振りで問うと、女は、
「ルームメイトと言っても、私も詳しく知っている訳じゃないけれど、それでも良ければ」
と、空になった鍋を調理台の上に置きながら言った。
「君が話したい範囲で構わないよ」
男が促すと、女は僅かに頷き、話し始めた。
「そうね、彼女と私がこの島に来たのは丁度同じ日だったの。船を降りて、領主の前に連れられて、共に“美人”として暮らすことを許されたわ」
「ちょっと待ってくれ。領主って?この島のお偉いさんか?」
友人が持ち出した話の中に、“領主”の存在についての要素は無かった。
「この島を治めている人よ。メインストリートの大通りを一番上まで上ると、領主が暮らす白い館に着くわ」
女は右腕を大通りがある方向へ指し伸ばした。
女は幾重の壁の向こうを見ているかのように遠い目をしながら、更に続けた。
「この島で暮らすことが決まった者は、必ず領主に一度会うの。領主は新しい島民となる人の姿を見て、『美(び)』『醜(しゅう)』のどちらか一方だけを答える。それ以外は一切喋らないの。真夏でも厚地の修道服を着て、フードを目深に被って、口元も布で覆っているから、男なのか女なのか誰も知らないわ。そして、『醜』と言った領主は、醜いと判断した部分を指差す。“醜人”は島で暮らす限り、公衆の場でその醜い部分を見せないよう、その部分を布で隠すの」
「それは・・・」
一種の差別ではないのかと男は思ったが、流石に言葉には出来なかった。女は男の疑問を察したらしく、
「この島はね、美しいものしか見せてはいけないの。だから、“美人”と“醜人”を分けることも差別じゃないわ。本当の差別なら、“醜人”はこの島から追い出されているもの。副業を許されている分、領主も私のような人に気を遣ってくれているわ」
女は更に続けた。
「同じ日に島へ来た者同士で一つの部屋に住むことになっていたから、私も彼女もこの部屋で一緒に住むことになったの。お互いにこの島へ来る前のことは訊かないようにしていたから彼女のことは碌に知らないけれど、彼女は花の名前をよく知っていて、庭の花の手入れの方法も彼女が教えてくれたわ。仕事も最初は呼び込みも出来なかったけれど、徐々に出来るようになって、少しだけれどこの仕事を楽しいと思えるようになったの。ある日、彼女は、この島を一緒に抜けようと言ってきた。でも結果的には失敗した」
女はそこで言葉を切り、ビールを一口飲んだ。
「君がその身体になったのは、島を抜けようとしたことへの、領主による罰なのか?」
女は答えようとせず、白い泡しか残っていないグラスを見つめている。
女の沈黙は自身への怒りの表れかと男が思いきや、
「いやぁねえ、今の話、信じたの?」
「え?」
女の急な態度の変わりように、男は驚き、間抜けな声を発してしまった。
「私が元は“美人”で、現在は“醜人”であることは事実だけれど、この身体になった理由は島を勝手に出ようとした罰なんかじゃないわ。ただの事故よ、事故」
女が笑って言った。
「ルームメイトと一緒に散歩をしていた時、交通事故に巻き込まれたの。こんな小さな島で交通事故なんて起きないと思うでしょうけれど、起きる時には起きるものなのね。目が覚めた時には彼女は既に死に、私はこんな身体になっていたというわけ。事故後、領主にもう一度会ったら、今度は私に対して『醜』と言ったの。だから今の私は“醜人”なの」
からかったことを謝罪する女に、男は怒る気にはなれなかった。むしろ、目の前の女が暴力的な世界に身を置く人間ではないことを知って、安堵に近い気持ちになった。
「この島の人間の話なんて、そんなに真面目に聞かなくていいのよ?」
女は笑いながらそう言って、男の肩を軽く叩いた。だが身体を調理台から僅かに離したがために女の身体の危うい均衡が崩れ、細い身体が前に倒れそうになったので、男は女の身体を抱き留めた。
「まあ失礼、大丈夫?」
女が男の腕の中で謝った。
「いや、君の方こそ大丈夫だったか?」
男は女が身体を起こせるよう、女の両脇に腕を差し入れようとしたが、女の左肩から下にあるその空間に、女性が下着で隠している秘部に何の断りもなく触れたような、そんな罪の意識を感じてしまった。
「怖い?」
女の勘の鋭さに怯えた心を隠しつつ、男は黙って首を左右に振った。身体を起こそうとしていた男の左腕を掴む女の右手に力が入る。
「あなたが触りたいように触って好いのよ?」
先程までとは全く異なる調子の声が男の耳元で囁かれた。
「触って、好いのか?」
恐る恐る男は訊ねた。学生時代から、何人かの女性の裸の肉体に触れてきた。だが、彼が今まで密に触れてきた女性は皆、五体満足の身だった。
「もちろん」
それでも女の身体に触れることは躊躇われた。確かに女性の身体ではあったが、男にはあって、己の腕の中に居る女には無いものがあるという事実が、男の衝動を足踏みさせていた。
「他の人を呼びましょうか?」
女が訊ねたが、男は「いや、君がいいんだ!」と、女の身体を強く抱き締めた。
女もそれに応えるかのように男の身体を抱き締めようとしたが、手足が無い分、簡単に引き離されてしまいそうな危うさがあった。
「あなたが触りたいように触って好いの」
穏やかに繰り返された女の言葉に、男の心臓が締め付けられた。
男は唾を飲み込むことも忘れ、女の背中に回した左手で女の左肩を撫でた。女の左袖は引力に導かれ、だらしなく垂れ下がっている。切断された面に触れると、布越しではあったが、柔らかい感触があった。普段から硬い義手に押し付けられていない分、皮膚は柔らかさを保ったままなのだろう。
女の服の裾の下に空いた右手を入れると、温かな肉体があった。
女は男を急かすこともせず、自ら誘いもせず、男のペースを尊重するかのように男の手の動きを受け入れていた。
男が女の服の下にある乳房を包み込むように右手で触れると、突起したそれが男の掌に当たった。指先を女の乳房に押し付けると、硬い脂肪に反り返された。
「服を、脱いで」
掠れた声で男がそう言うと、女は男から身を離し、調理台に身体を寄りかからせながら、慣れた手つきで右手でシャツの裾を掴んだと思う間もなく、首元まで引き上げるなり襟口に頭を潜り抜けさせ、シャツを脱いでしまった。更に小さな座面の上で腰を動かし、穿いていたロング・スカートも床の上に滑り落とした。
男は僅かに開けた口から短い呼吸を繰り返しながら、目の前の女の裸体を見つめた。
右腕はある。左腕は無い。
右脚は無い。左足はある。
それはテレビや写真を介してではなく、男が生まれて初めて己の目を通して見た、大きく欠損した肉体だった。切断された面は普段から布で覆い隠しているためか、肌の色が他よりもやや薄く、その縁は丸みを帯びていた。
男が椅子に座ったまま女の身体に手を伸ばし、抱き寄せると、女は従順にその身を預けた。
背もたれが無いため、男は後ろに倒れないよう、女の身体を膝の上に乗せ、
女の腰を抱くことで二人の均衡を保った。小さな椅子は、二人分の体重を支えることへの不満を叫ぶかのように、軋んだ音を立てた。
男が女の首元に顔を埋めると、汗の臭いの中に、あの白い花の匂いが潜んでいた。
女は声を発することもなく、ゆっくりと静かに呼吸している。
男の呼吸も徐々に緩やかになり、やがて女と同じように静かになった。
男は腰に回していた手を女の右脚の根元に置いた。それは女の左腕と同様に、太腿と言える程の肉体の部位は無く、普段からただただ無防備にぶら下がっていることが判るほど柔らかだった。
男が触れても、女はそれに対して声を発さず、身じろぐこともなかった。
客人がその部位に触れることに慣れているのか、下手に反応して客人の気分を害さないように配慮しているのか。女の表情は見えなかったが、この女の身体を何度も抱いている客人であれば、女は今とは違った反応をしているのだろうかと、男はふとそんな事を考えた。
女は相変わらず、静かに呼吸を繰り返している。初見である男が、どんな反応をすれば喜ぶのか考えているのかも知れない。
近隣の住人がラジオでも聴いているのか、軽快な音楽が流れてきたが、二人の間には、互いに相手の次の動きを待っているような緊張感が横たわっていた。
男が女の下着の中に入れると、女の臀部がくすぐったそうに動いた。男が更に手を動かして恥毛が剃り落とされた秘部に指先を当てると、それは口内の肉壁のように薄い水の膜を張っていた。
男が指先をゆっくりと上下に動かすと、女の陰核が硬くなると同時に、水の膜が破れたかのように濡れ始めた。
女の呼吸も次第に落ち着きが消えてゆき、男の腕から落ちないように右腕を男の背中に手を回し、シャツの布地を掴んだ。
男は女の持つ白い花の匂いを身体の中に取り込もうと言わんばかりに、女の紅潮した首元の肌に荒々しく吸い付いた。
男の指先が粘液に塗れ(まみれ)、女の下着を濡らす。
女は男の指先の動きに合わせるかのように、ゆっくりと腰を前後に動かし始めた。
男は女の腰を抱えながら、ズボンのベルトに女の愛液に塗れた手を掛けると、女はそれを合図にシャツの布地を掴んでいた手を離し、男のシャツのボタンを上から外していった。
男はベルトを外し、トランクスを少し下げ、自身のそれを露わにした。生温い(ぬるい)空気が男のそれを包み込む。
女が右手で男のそれを己の秘部に導こうとしたが、男はそれを手で止め、女の湿った下着の布に自身のそれを押し当てた。
女の乳房が剥き出しになった男の胸を擦る。
男が腰を前後に動かし始めると、女は軽く上下に腰を動かした。
女の秘部が、男のそれが、何度も交差し、ぶつかり合い、その度に女の下着は二人分の体液を吸った。
もはや周囲の音は消え、互いの呼吸音と椅子の悲鳴しか耳に入らなかった。
やがて女の身体が震え、同時に、男の白濁液が二人の腹部に飛び散った。
互いの荒い息を何度も吐き出される音が、男の耳元で木霊(こだま)した。
ようやく果てた時、男の心は、生まれて初めて己の手で自らを慰めた時に感じた恥ずかしさを思い出していた。その恥ずかしさは、車椅子に乗る者を車椅子から引き摺り下ろし、公衆の面前で下半身の衣服を剥ぎ取るような、盲人からサングラスを奪い、無理矢理瞼を開けさせて太陽の光に晒すような、聾唖者の前で、口元を手で覆いながら聾唖者を指差して何かを隣人と話すような、相手を踏み躙る(にじる)後ろめたさを引き連れていた。
*****
コーヒーの匂いで男は目を覚ました。
ベッドの上から窓の方を見ると、日は既に昇っており、その花弁に日の光を浴びている白い花々が眩しかった。
少し汗を吸ったベッドシーツの上で猫のように全身を伸ばして身を起こすと、女はいつの間にか下着を着てキッチンの椅子に座り、空を見つめていた。
男が身を起こした気配に現実世界へと引きずり出された女は振り返り、
「紅茶も少しあるわよ?」
とぎこちない笑みを浮かべて言った。
「コーヒーをお願いするよ」
目元を擦りながら男はそう言ってベッドから下り、床に散らばった服を拾った。
あの後、二人は共にベッドの上に倒れ込んだが、男はそのまま寝入ってしまったようだった。
女がコーヒーを淹れる準備をしている間、キッチンの脇にあるバスルームにて、蛇口から流れ出た冷たい水で顔を洗うと、それまで微睡んでいた男の頭がようやく起きた。
バスルームから出ると、キッチンの調理台の上に温かいコーヒーが入れられたマグカップが置かれていた。夕べの食器類はシンクの中に重ねられている。
男は、昨夜と同様に、女と向かい合って座面の小さな椅子に座り、マグカップを手に取った。熱気がマグカップの取っ手にかけた指を温める。
「私を買ってくれた人に、いつもお願いしていることがあるの」
朝は血圧が低い体質なのか、女が発した声はどこか虚ろだった。化粧もまだしていないらしく、顔もやや青白い。
女の言葉に男はコーヒーを飲む振りをしながら、視線だけを女に向けた。
「この花の種を、島の外に植えてほしいの」
女が調理台に置いていた右手を上げると、その下から小さなビニール袋が現れた。ビニール袋の中には小石のような、黒い種が幾つか入っている。
「勿論、これは私の個人的なお願いだから、その分のお金も払うわ」
男はマグカップを調理台の上に置いた。
「それは構わないけれど、何故そんなことを頼むんだい?亡くなったルームメイトへの供養のためにか?」
男が問うと、女は暫し虚ろな表情で空を見つめていたが、微かに頷き、
「そう、ルームメイトのためなの」
と、掠れ気味の声で小さく答えた。
「君は、島の外へは、出ないのか?」
ゆっくりと問いかけた男に対し、女は僅かに顔をしかめ、「此処から出る気はないの」と切り捨てるように言った。
男は黒いコーヒーの水面に映る己の顔を見つめた。
「君自身の意志で、島を出ないつもりなのか?」
男がコーヒーの水面から視線だけを女に向けると、女は頷き、
「私が知る限り、この島は世界で一番美しい場所だから」
と、穏やかに微笑み、そう答えた。
男はそれに何と応えるべきなのかが判らず、マグカップの中からこちらを見つめる己が代わりに応えてくれることを願った。
何処かで鐘が鳴り始めた。
*****
女はふらつく身体の均衡を松葉杖で支えながら、昨日辿った細い裏通りを歩いていた。
女の一歩後ろを歩く男が上を見ると、左右の建物の影によって長方形に切り取られた、明るい青色の空があった。路地に面して開かれた窓から漏れる各々異なる生活臭は、その部屋で何者かが暮らしているという証を示していた。
左足に履かれたハイヒールと杖の音が不規則に響き渡り、白い花が零れ落ちそうな程沢山入った花籠が揺れ動く。
やがて大通りが近づき、前方から雑踏や騒めきが聞こえてきた。かすかに船の入港を知らせる汽笛の音も聞こえた。
昨晩、女に声をかけた場所へ来た時、女が振り返り、
「その大通りを下に下れば、港へ着くわ」
と男に言った。
「また、此処で花を売るのか?」
「ええ、そうよ」
女は素気なく答え、壁に寄りかかった。
「一本、幾らだっけ?」
「2ドル」
男がポケットの財布から高額な紙幣を取り出すと、女に差し出した。
女はやや驚いた様子だったが、何も言わずに受け取り、花を一本、男に手渡した。
男は花を受け取ると、細長い余分な茎を折り、女の髪房に刺した。女の濃い色の髪に白い花が映えた。
「ありがとう」
女は微笑み、そう言った。
「それじゃあ」
男は女から視線を逸らし、女に背を向けて大通りに向かって歩き始めた。
「ありがとう」
後ろから、小さな声が男の背中に手を伸ばした。
男は振り返らず、陽光眩しい大通りにその身を投じた。
*****
海鳥がデッキの客から餌を貰おうと愛らしい素振りで鳴いている。
男はデッキの手摺にもたれかかりながら、スクリューで泡立つ波を見つめていた。島の姿はとうに水平線の向こうに消えていた。
友人は飛び交う海鳥の群れに手を伸ばしながら、島で二晩を共に過ごした女の魅力について語っていた。
花売りの女と別れた後に黒肌の女の部屋を訪ねると、友人は何処へ行っていたのかと不貞腐れており、黒肌の女は男の昨夜の行き先を訊くことなく、「また来てね」と笑顔で男と友人を見送った。
男はジャケットの内ポケットに手を入れると、女から受け取った小袋を取り出した。小袋に入った黒い種を触ると、硬い種が男の指先を軽く刺した。
男は種を取り出すと、海に向かって放り投げた。
餌を放ったと勘違いした海鳥が鳴き喚く。
友人は、何を放ったのかと男に訊ねた。
男は暫く海鳥が飛び交う様を眺めていたが、海鳥の鳴き声をうるさがるかのように目を細め、ただ一言、「思い出」とだけ答えた。
汽笛が勢いよく鳴り響き、島へと向かう船とすれ違った。
あ と が き
第15回『女による女のためのR-18文学賞』に応募し、ものの見事に一次落ちした作品です。
サイトへの掲載にあたって応募した作品を加筆・修正するために読み返すと、己のことながら呆れてしまう程細かい間違いを何度かしでかしておりました。恥ずかしい限りです。
女が売っていた白い花については読まれた方のご想像にお任せします。
美醜をテーマとしている作品は読むのも書くのも好きなので、今回こうやって形にすることが出来て満足です。
2016年1月17日